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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
女傭兵の結婚狂想曲
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2.また、新しいお仕事(6)

◆◆◆


 その日から早速ルキシスの語学教育が始まった。隊列は予定よりも半月も遅れているということで、移動の間も休んでいる暇はない。ルキシスはフリーデヒルトの馬車に同乗し、文字通り教鞭を振るい続けていた。

 文字どおり、というのは本当に文字どおりで、彼女は教師や高位の使用人の持つ鞭を手に、それをバシバシと打ち鳴らして教え子を威嚇していた。


 似合っていた。

 しょうもないことに。


 もちろん、フリーデヒルトは反発した。臨時の語学教師ということで、朝食後早々に改めてルキシスとの顔合わせをした時のことだ。


「なんであたしがこんな女からアヴージュ語を教わらなきゃいけないのよ!」


 そう言って自慢の大音声を轟かせた。

 ルキシスは鼻で笑った。

 似合っていた。

 しょうもないことに。


 彼女はその時、髪を丁寧に結い上げて、女物の地味なドレスを身にまとっていた。地味でも絹だ。質は良い。

 家庭教師というのは礼儀作法についても教えるものだ。そのため、令嬢の家庭教師がいつもの男装姿というわけにはいかない。それでフリーデヒルトの侍女の装束を借りたということだった。小柄な彼女の丈に合わせて自らの手でさっと寸法を直したという。相変わらず針仕事の早いのは彼女の長所のひとつである。だが髪の方は、宛がわれた侍女に結ってもらったのだろう。彼女自身はどうせ三つ編みしかできないのだ。


 とにかくルキシスは――いわゆるところの、婚期を逃した、未婚の、気難しく偏屈で子どもや若い娘を忌み嫌う、一癖も二癖もありそうな何かをこじらせた婦人、と世間のどこぞでか流布している偏見そのままの像を具現化したかのごとき佇まいで鞭を携えていた。


 花嫁の引き渡しまでに痕が消える程度の体罰は構わない、とジャンが告げた。


 体罰は自分は感心しないが、世間一般にはある程度は許容されている。特に親が子に、夫が妻に、教師が教え子に対して施す分には躾の範疇だとされている。神殿でも、基本的には介入しない。時折、夫から度を越した暴力を受けた婦人が逃げ込んでくることはあるにせよ、その暴力が体罰の域を出ないと判断された場合には夫に引き渡さざるを得ない。だが体罰と虐待の境界はどこにあるのだろう。きっちりと線を引けるものではなく、すべては曖昧に混ざり合っている。

 だから自分は感心しない。


 だが帝国屈指の大貴族、ユーリヒェンベルク家の教育方針について意見を述べられる立場でもない。

 なんであたしが、と声を上げたフリーデヒルトの手の甲を、ルキシスは的確に鞭で打った。バシッと鋭い音が空気を切り裂いた。


 もちろん、手加減はしているだろう。そもそも所詮は貴族のお嬢様向けの鞭であるからには、元より大した威力を持つものでもあるまい。

 だが、フリーデヒルトは見るからに怯んだ。


「何するのよ!」


 ビシッ。


「あっ、ちょ、いたっ!」


 ビシッ。


「やめてったら! やめ、ちょっと!」


 ビシッ。


 ルキシスは口元に薄笑いを浮かべて立て続けに鞭を振るった。止めた方がよいのだろうか。だが傍らで見守るジャンは腕を組んだまま静観している。フリーデヒルトの手の甲はあっという間に赤い蚯蚓腫れに覆われた。


「おまえ、あたしにこんなことして――」

「いい加減にしなさい」


 どれほど不毛な鞭の乱舞を眺め続けていたことか。ようやくジャンが口を開いた。

 その言葉にフリーデヒルトはぱっと顔を輝かせた。しかしいい加減にしろというのはルキシスに向けてでなく、フリーデヒルトに対して向けられた言葉だった。


「おまえが当家の姫にふさわしい振る舞いをできず、何人もの家庭教師を追い出すようなことまでするから無理を言って彼女に臨時教師を引き受けてもらったんだ。分かっているな。花婿への引き渡しまでにアヴージュ語の会話に不自由がなくなるよう、勉学に努めなさい」

「なんであたしがそんな田舎くさい下品な言葉を勉強しなくちゃいけないのよ! 向こうがリーズ語かヒルシュタット語を喋ればいいでしょ!」


 全然懲りていない。逞しいと言っていいだろう。


「おまえは花嫁の責務を何と心得るか」


 ジャンは顔をしかめた。

 果たしてこの娘に外国との政略結婚という大事を成し遂げることができるのか。花嫁は言わば外交官であり、間諜だ。自国にとって都合よく事が運ぶよう異国で立ち回り、異国の重要な情報を自国に伝える。表向きは華やかな笑顔を浮かべ、華やかな扇で口元を隠して。


 現地の言葉に精通するのは必須といえる。その現地の言葉がアヴージュ語という、帝国中枢では顧みられることのない言語であるのはフリーデヒルトにとっては不運なことであろうが。


「ジャン、この女を追い出してよ!」


 フリーデヒルトは燃えるような、よく熟れた苺のような赤い髪を振り乱し、ルキシスを指差した。ルキシスは不気味な薄笑いを浮かべ、手にした鞭をもう片方の手にぺしぺしと当てて威嚇の動作を繰り返す。


 似合っていた。

 哀しくも。


「フリーダ」


 ジャンの口調が幾分柔らかくなった。


「な、なに?」


 フリーデヒルトの声が上擦る。彼女は緊張しつつも期待を込めた眼差しで一族の総領を見つめていた。


「もしおまえが花嫁としての責を果たせぬようならぼくがおまえの首を獲って、当主としておまえの婚家と我が主、畏れ多くもいと高き皇帝陛下にお詫び申し上げる」


 冷ややかな空気が立ち込めた。


「な、なによ」

「ぼくにそんなことをさせないでもらいたいものだ」


 一言の元に切って捨てると、ジャンはほかにはもう何も言わずにその場を立ち去った。騎士や従士、人足たちを指揮して出発の準備を進めるためだ。

 ジャンの後ろを、それまで何も言わずに付き添っていたリュド少年がやはり何も言わずに追いかけていく。彼もまたうんざりしているのだ。

 ルキシスが肩をすくめた。


「姫君、馬車に」


 思えばそれがこの顔合わせで彼女が最初に発した言葉だった。


「偉そうに! 誰に向かって指図してるつもりよ!」


 フリーデヒルトの声はつんざくような鋭さを宿したままちっとも衰えない。

 ルキシスが数歩、フリーデヒルトの元に歩み寄った。その途中で、どちらの警護役かいまいち判然としないもののひとまず警護役ということで控えていたギルウィルドのそばを通り、彼女は手にしていた鞭を押し付けてきた。


「なに?」


 訊ねたが、回答はなかった。仕方なく鞭を受け取る。

 ルキシスはそのまま歩を進め、今やフリーデヒルトのすぐ目の前に立っていた。家庭教師でなければ無礼討ちにされても文句の言えない距離だった。


「下がりなさい! 身の程をわきまえて――」

「フリーダ」


 ルキシスが姫君の名を呼んだ。低く、不思議とよく通る声だった。

 しかしそちらに意識を取られたのも束の間、次には鋭い破裂音が鳴り響いた。

 あっ、と思った時には既にことは成ったあとだった。


 つまり、ルキシスが思いきりフリーデヒルトの頬を平手打ちした。フリーデヒルトの首がぐるりと回り、その様子がやけに鮮烈でその分痛々しかった。

 一瞬の間をおいて、ぎりぎりと歯噛みしながらフリーデヒルトが正面に向き直った。

 と、思うそばから再びルキシスの手が宙を舞った。今度は反対側から、またも平手打ちが炸裂する。


「なっ――!」


 フリーデヒルトがたたらを踏んだ。


「こんなことをしている時間で単語のひとつでも覚えてはいかが?」


 ルキシスが人差し指を伸ばし、フリーデヒルトの喉元へ突き付けた。右から左へと滑らせる。首を獲られたくなければ。そう言外に含ませた動きだった。


「ジャンが一度口に出したことを撤回したりしないことは親族のあなた様がよくご存じなのでは?」


 フリーデヒルトの顔がいささか青くなった。それでも彼女は気丈にルキシスを睨みつけ、腕を突っ張って彼女を突き飛ばそうとした。

 もちろん、無駄だった。その腕を捉えて逆に捻り上げ、ルキシスはいともたやすくフリーデヒルトを拘束した。罪人でも連行するかのように馬車に向かって彼女を追いたてる。

 フリーデヒルトが叫び声を上げる。だが、助けに駆け寄る者は誰もいない。


「――リリ、ほどほどに」


 見かねてつい、口を出した。

 肩越しに彼女がギルウィルドを振り返る。

 躾は最初が肝心。

 そう、声には乗せずに彼女の唇だけが動いた。

 自分は、感心しない。

 ――お母さんに会いたい。

 姫君はまだ子どもだ。政略結婚をするのに早すぎる年齢というわけではないにせよ。

 これでは動物の調教よりなお過酷ではないか。

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