2.また、新しいお仕事(5)
◆◆◆
ルキシスはまだそこに残ってもう少し教本を読むという。
「どこの騎士団で修行された?」
ジャンの天幕というのは、私的生活の場でなく執務を行うためといった様子で整えられ、書机や来客用の椅子も揃っていた。
その来客用の椅子を勧められ、腰を下ろした途端にそう問われてギルウィルドは少し考えた。
騎士団にいたことを大々的に喧伝してはいない。だが見る者が見れば分かってしまうだろう。過去の自分を知る者がいて、今の自分にいたるまでの経緯などを詮索されれば面倒だし不愉快だし――、やはり不都合だ。言えないことも隠していることもある。
書机の向こうの天鵞絨張りの椅子に腰かけたジャンは、天板の上に頬杖をついて顎を乗せ、じっとこちらを見据えている。
やはり冷静な眼差しだし、鋭くもあった。彼は彼で、得体の知れない者をルキシスのそばに置いてはおけないと思っているのではないか。怪しい振る舞いがあればたちどころに切って捨てるつもりだろう。それでも表面上は友好的に見せている。つくづく難儀であった。
「ノールの王立騎士団です。ですが、騎士の叙任を受ける前に除隊しました」
結局自分は本当のことを告げた。嘘をついても意味がないし、咄嗟に都合の良い嘘も思いつかなかった。
「疑うわけではないが、照会をかけても?」
ノールは帝国の領邦ではない。だが友好国というか、事実上、逆らうことのできる力関係ではない。帝国の貴族から照会の依頼があれば恐れおののいて宮廷中引っ繰り返したような大騒ぎになるだろう。ノールの国王など、ユーリヒェンベルク家の十分の一の富も土地も持っていない。帝国の大貴族の前にはその鼻息で吹き飛んでしまいそうなほどにか細い存在だ。
「除隊にあたっては法的な問題はなく、脱走兵ではありません。ですから照会は構いませんが、ありがたくはありません」
淡々と答えると、少しジャンの眼差しが和らいだようだった。脱走兵の疑いがかけられていると瞬時に理解し、それに対して問題はないがありがたくはないと正直に伝えたことが彼に好印象を与えたのかもしれない。少なくとも頭の巡りは悪くないくらいには思ってもらえただろう。
「いや、失礼。ルキシスの友人に照会などかけたりはしない。彼女の友人は我々にとっても大切な友人だ」
まあ、そういうことにしておこう。
「齢はいくつだ」
「二十一です」
「若いな」
だが驚いたような気配はない。彼は幾分目を伏せがちにして、少しばかり何か考えに耽っているようでもあった。
堂々たる押し出しは大貴族の名に恥じない青年だった。騎士団を率いるには若いが、ルキシスと同年配くらいだろう。着ているものや天幕の調度類の趣味がよく、華がある。端正な顔立ちだった。眉目秀麗といってもよいだろう。目鼻立ちがしっかりしていて、やはりどこか鋭さというか厳しさのようなものがある半面、口元が温柔そうな曲線を描いており、そのあたりにご婦人連に受けそうな甘さがある。彼が艶福家かどうかは知らないしどうでもいいが、そうであっても不思議のない魅力があるのは同性から見ても理解できるところであった。
(――いや)
どうでもよくはないか。彼が自らの艶聞の列にルキシスを加えようというのであればやはり賛成はできない。
かといって気安い気持ちでなく真剣な思いを懸けているのだとしても、それはそれで賛成できない。
帝国の大貴族は。
だがそもそも、彼女はどう思っているのか。
「仕事を受ける気はないだろうか」
向かい合う彼が、いつの間にか目を上げていたのに声の後になって気付いた。
「このようなご立派な軍隊に手前の仕事があるとは思えませんが」
ルキシスに告げたとおり話を聞くつもりこそあったが、それは謙遜ではなく本心だった。
「実は、フリーダ……、フリーデヒルトのことだが、あれは当家の娘と言えど手の付けられないはねっかえりで」
「はあ」
「男も女も、そば近くに仕える者たちを次から次へと追い出して」
「はあ」
「困っている」
「はあ」
「大変失礼ながら、このような物言いをお許しいただきたい」
と、そこで彼は丁重な物言いになり、居住まいを正した。
はあ、と変わらぬ相槌を打ちつつ、先行きの分からない話にギルウィルドは内心首を捻った。
「あの娘はきみの……つまり、並外れた、類稀な、ふたつとない美貌に好感を持ったようだ」
そう言えば彼女は、旗持ちにしてやるとか何とか、自分を跪かせて言ったものだった。
ジャン自身そのことを思い出したのか、彼は顔をしかめた。
「自分自身では一兵卒も持たぬ小娘のたわごとは忘れてくれ」
容姿を褒められるのは慣れたもので、日常茶飯事で、真正面から美貌と言われたところで今更動揺もしないが、当たり前だが感激もしない。父親にそっくり瓜二つの顔立ちは自分にとっては忌まわしいものだが、他人にとっては好ましいもので、それが今まで自分の身を助けてきた――こともある――のも事実だった。ただそれを口にすることを、ジャンが無礼なことと認識していることについてはこちらも彼に多少の好感を抱いた。そういう意味で彼は公平で、かつ想像力のある人間なのだ。
「あの娘の警護を頼めないだろうか」
しかしジャンのその申し出は奇怪だった。そこで率直に疑問を口にする。
「これほどご立派な軍隊が警護しておられるのに、更にですか?」
「実は……、身内の恥と、騎士団の恥と、その両方を晒すのはぼくにとっても身を切られる思いだが、言おう。フリーダが我が儘放題で、気に食わないことがあると調度類を引っ繰り返して暴れ回るので、誰も手が付けられない。難癖をつけて次々に警護の衛兵をいびり尽くすので、遂にはぼくの他には誰もあれのそばに詰めることができなくなった」
何と言っていいか。
ありていに言えば、呆れ返った。そうとしか言い様がない。仮にも帝室騎士団に属する立派な騎士たちをいびり尽くすとは。
見上げたというか見下げたというか、とにかく立派な根性である。誰にでもできることではなかった。もちろん悪い意味で。
「とはいえぼくも、昼夜を問わずずっとフリーダの隣に詰めているわけにはいかない。なるべくそうするよう努めてはいるがね」
大貴族の総領で騎士団の副長でもあり、その上花嫁の後見人ともなると多忙を極める身ではあろう。
「あれはきみのことが気に入ったようだからあまり無理難題は言わないだろう」
残念ながら、彼の見通しは甘かった。すでにとんでもない無理難題を言いつけられた後である。一応、今のところは告げ口するつもりはなかったが。
「それにきみひとりに押し付けるつもりはもちろんないんだ。今一度警護班の予定を切り直そうと思う。それにルキシスにアヴージュ語の代理教師を頼みたいと思っているが、フリーダが……、彼女に何かするかもしれない」
彼の眼差しに沈痛なものが混じった。
フリーデヒルトがジャンの想像の上を行っただけで、そのあたりの勘所は働くというか、つまりは何かするかもしれないような娘だと正しく理解されてはいるわけだ。
「だからルキシスがフリーダのそばにいる間だけでいいんだ。ルキシスのことだから心配無用なのは分かっているが、念のためだ。あれがルキシスに何かするようなら、不可逆な負傷をさせない程度に手を上げて構わない」
なるほど。フリーデヒルトの警護という名のルキシスの護衛か。不可逆な負傷をさせない程度に――というのは極めて穏やかでないが。
得心がいった。彼が無理にもギルウィルドに仕事などを割り振ろうとしたことについて。
だが実のところはそれだけではなかったらしい。それは何気なく続けた次の会話から分かった。
「彼女はまだ、家庭教師の仕事を受諾したわけではないと思いますが」
「口止めされているが、実は、彼女にきみのことを頼まれている」
彼は口元に笑みを浮かべたが、それは愉快だからそうしたというわけではなさそうだった。何となくそれがこちらにも伝わった。
「彼女……?」
ルキシスのことではあるだろう。ほかに心当たりがない。だが、頼まれているとは何事か。
「先日、負傷されたとか」
「え……、ああ、ええ」
港町での出来事だ。ルキシスの――彼女がラティアという名前だった頃の侍女が自らの喉を突こうとして、咄嗟に刃物を取り上げた時にどういう拍子か彼女の刃が自分の右腕を広く深く切り裂いた。とんだ失態であり自分でも少し落ち込んだものだが、丁重な手当てを受け、今では動かすにもあまり支障はない。
ただ、完治したとは言えない。痛みこそなくとも違和感はあり、戦働きをするには少し修練を積んで元の体の動きを取り戻す必要があるだろう。
「彼女が言うには、きみは別に彼女のためにそうしたというわけではないということだが、それでも彼女にはそれで助かったところがあって、つまりは恩に着る気持ちがあるんだそうだ」
「……そうですか」
未だにそんなふうに思っていたとは。
「だから彼女としては、きみの怪我が完全に治って、負傷前に遜色ない程度に回復するまでは金銭の面でもそれ以外の面でもきみの面倒を見なければならないと考えているそうだよ」
「はっ」
思わず絶句する。奇怪どころでない言葉を聞いた気がした。
こちらは――こちらの方こそ、彼女の面倒を見てやらなければならない気がして実際そうしてきたつもりだったのに、彼女の方はまるで逆というか、ギルウィルドに対して同じことを思っていたというのか。
(リリの方がおれの面倒を)
本気かよ、と思ったがさすがにそれは胸にしまっておく。
そうか。そんなふうに思っていたのか。
それで、割りの良い仕事を斡旋しようとしている。
彼女は変なところで義理堅く、変なところで変に思いきりがよく、変なところで奇想天外だ。つまり、普通の女ということか。あれでも。
「だから是非とも受けてほしい。彼女のためにも」
ジャンはそう言って静かにギルウィルドを見つめた。
提示された金額は、ルキシスの言ったとおりに十分「金払いが良い」と言えるものだった。
とは言え負傷に対しての賠償は既に受けており、それも彼女が彼女の――夫に交渉してくれたものだった。彼女が気に病む必要のないことだった。
だからいずれにせよ金の問題ではなかった。
(彼女のため、か)
彼女のことが心配だった。
つまり、ジャンとは利害が一致するわけだ。彼女を通して。妙な縁だった。
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