2.また、新しいお仕事(4)
「わたしの感覚では、家長が妻の持参金を自由にしたところで、まあ、褒められた目的じゃなくても仕方ないんじゃないのかって感じだけど、ジャンのところの――ユーリヒェンベルク家の氏族法ではそういう問題じゃないんだとさ。ジャンの実母は息子ひとりを挙げて亡くなって、あまりに結婚期間が短かったから本当は持参金の一部は生家の方へ返さなきゃいけなかったんだって。でも結局後継ぎを産んだのはその亡くなった姫君なわけだから、その持参金はいずれひとり息子のジャンのものになるだろ? そういう条件で、生家の方には返さずユーリヒェンベルク家で保持することになったけど、そこに親父殿が劇場を作るとか何とか、とにかくそういう目的で手を付けて広大な土地を二束三文で売り飛ばしたもんだからジャンも怒るしジャンの母方の里も怒るし、そうでなくてもユーリヒェンベルク家の資産を損なわせて一族に損害をもたらすような総領はすでに総領にあらじ、成敗するもやむなし、というのが何とか法とかいう氏族法で明確に定義されてて、つまり大義をたてることに成功したから、遂に謀反を起こしたけど経緯が経緯だけにこれは既に謀反でなくて一族のための正義の戦いだとか何とか……、ユーリヒェンベルク家では大昔からよくある話だそうだ。そうやって不適格者を力で排除して大きくなってきたと。まあそのへんはわたしにはどうでもいいけど」
そしてその「正義の戦い」はジャンの勝利に終わったわけか。所詮は一族の中、しかも父子の争いとはいえ、当事者たちにとっては存亡を賭けた大事である。ジャンと関係の深いルキシスの話しか聞いていないのでそれがどこまで公平かは疑問の余地があるが、趣味に傾倒しすぎて家を潰したなどという話は世間のあちこちにあり、貴族であっても例外ではないのだった。
「ジャンにとっては許せないみたいだった。凡庸で、戦争も下手で、内政にも興味がなく、農作物の生産力を向上させようって気もない。領地の見回りさえしない。ただ金を使うばっかりで、せめて皇帝の宮廷での出世だけでも伴っていればまだ許せたかもしれないものを、それもない。怪しい錬金術師を家に入れたこともあったようで、そういう手合いに大金を騙し取られて、でもユーリヒェンベルク家の体面があるから大々的に大騒ぎもできない。父親のせいでどんどん家が傾いていく。家臣たちの心も離れていく。あのような男はユーリヒェンベルク家の総領たる資格はない。初めからなかった。その過ちを正さなければ――と、まあ、思いつめていたな」
ユーリヒェンベルク家の総領は強く聡明な男でなければならない。
ルキシスが小声で呟いた。
「武力衝突といってもそんな大きな戦争にはならなかったよ。あんまり激しい戦いになれば皇帝が黙っていないから、あくまで小規模な身内同士のちょっとした抗争に留まるようにずいぶん留意して……、最後は親父殿が籠城する塔にジャンが単身で乗り込むと。息子として自分が父親に始末をつけると」
息子として自分が父親に始末をつける。
自分にも覚えのある感情だと、そう思いかけたところでやはり違うと思った。
自分が父親を殺した時は無我夢中だった。息子としてとか、始末とか、そんな大義名分は胸にはなかった。気が付いた時には殺していた。
それを姉のギゼイダが、声もなく、胸元に細い指を折れそうなほど強く握り込んで、黙って見ていた。
「ジャンが、どうしても付いて来いと言うんだ。わたしに。なんで? って言ったけど、立ち会ってほしいと。まあ伏兵がいたら面倒だし、前金はもらってたけど最後の最後でジャンに死なれて残りの支払いを受けられなくなっても困るから付いていった。迷っているのかも、とも思った」
「なにを?」
ルキシスはそこで一瞬口を閉じた。唇の上下が空くまでに不自然な間が生じた。
「つまり、父親を殺すかどうか」
なるほど。
こちらは表情を変えなかったつもりだが、彼女の目にまた窺うような気配が生じた。
「殺すつもりだったと思う。生かしておいても残党どもが余計な野心を持ってまたお家騒動の種になって、却って血が流れるだけだから。ユーリヒェンベルク家の歴史の中では珍しくもないんだそうだ。子が父を、弟が兄を、甥がおじを殺すのは。だからわたしを連れて行きたがったのは、もしかしたら土壇場で実父を殺すのをためらいそうになった時、代わりにわたしに殺させるつもりなのかなって……、わたしは金がもらえれば何でもいいから、それで付いていったけど、ジャンは結局殺さなかったよ」
殺せと、ルキシスに命じることもなかったという意味だ。
「おまえの無能さは死に値する罪だが今後生涯を神殿の中で暮らし、野心を持たず清貧の中で生きるならば今は命はとらない」
自分の前で剥き出しの床の上に跪く父親に、ジャンはそう告げたのだという。
父親はそれを受諾した。それで、ユーリヒェンベルク家の先祖が建立した神殿に生涯幽閉の身となった。息子には父親を飢え死にさせるつもりはないらしく食べていくには足りる程度の年金を与え、最後の情で筆頭爵位をも残した。
「あのような無能者を生かしておくのは当家の伝統ではない。だが昨今では、あまり親族を殺すと他の貴族どもからの支持を受けられない。特に柔弱なリェスリーズ人はこうしたことを嫌うからやむを得ない。これも時代の流れだ。共感はしないが」
と、彼はルキシスに説明したそうだ。
「わたしにはどうでもいいけど」
そして彼女はそう答えたそうだ。
「きみたちの友情についてはわかったよ」
たぶん――と、ギルウィルドは思った。
彼が彼女を伴ったのは、裏表なくただ素直に、自分の人生の節目となる場面に彼女を立ち会わせたかったからではないだろうか。自分の代わりに手を汚させるつもりなどでなく。
彼女はそれに本当に気付いていないのか。
気付いていて、わざと違う理由を挙げているのか。
それは自分には分からなかった。
「友情?」
ルキシスが不服そうに眉をひそめたのが薄暗がりの中でも認められた。
「そうだろ」
言い換えるなら親愛か。
「上顧客と言ってほしい」
でもそれだけではないだろう。
彼女は昨日からだいぶん調子を取り戻しているし、嬉しそうだし、親しみを示している。
でも彼の方は?
友情以上のものを抱いているだろうし、望んでもいるだろう。
彼女がそれに応える気があるのかどうか。
(応える気があったとしても――)
帝国の貴族。
彼女には帝国との間に遺恨がある。
それをどう処理できるものか。
いや、そもそも応える気があるのかどうか、そこが先か。
少し離れた場所でひとの気配がした。足音はその後だ。ほとんど同時にルキシスも気が付いたようだ。
手燭も持たず、この一隊の総帥が姿を見せた。
「結局ここで夜明かしを? 天幕に戻るように言ったのに」
ジャンはルキシスに向かって静かにそう言った。
「ひとりで天幕で本など読んでいたら寝てしまう」
ギルウィルドに言ったのと同じことを彼女は説明した。
彼は今少し歩み寄り、ギルウィルドに向かって挨拶代わりに軽く頷いてみせた。
「体が冷えただろう」
「おまえのマントを借りたから。あ、そろそろ返すよ」
そう言ってルキシスは体にまとっていた毛織のマントを剥がし、腕にぐるぐると巻き付けるような適当な畳み方をした。
だがジャンはそれを片手を振って制した。
「返さなくていい」
「なんで?」
「預かっていてほしい」
マントの返し先を失い、ルキシスは動きを止めた。そのルキシスの腕からマントを抜き取って広げ、ジャンが彼女の肩に羽織らせる。
ルキシスはそれを黙って見ていた。固辞することはなかった。
完全にお邪魔虫だった。居心地の悪さはどうにもならない。このままひっそりと姿を消したところで誰に見咎められることもないだろう。そんなことを思い始めた時、またジャンが口を開いた。
「返事を聞けるだろうか」
愛の告白かとも思ったが、どうもそうではないらしい。返事というのは、つまり彼女が姫君の語学教師の仕事を受けるかどうかについてだ。
「ええっと」
ルキシスは口ごもった。ジャンは彼女の肩にかけたマントの端をまだ手にしたままでいる。
「リュドもあなたに会えて喜んでいる。もうしばらく一緒にいたいと思っているはずだ」
もちろんぼくも、と彼は付け足した。
ルキシスは唇を引き結び、黙り込む。
ジャンは彼女に向かって微笑みかけた。
「川沿いや水辺を進んでいる間の話にはなるが、毎晩あなた専用の湯殿を用意させよう」
「えっお風呂?」
ルキシスの声が躍った。その言葉は彼女を大いにぐらつかせたようだった。
それにしても、専用の湯殿とは。王侯貴族の待遇である。
(まあ、もともと彼女はそっち側か)
ルキシスがふと視線を巡らせ、ギルウィルドを捉えた。それでジャンもこちらに意識を向けた。
「……ああーっと、仕事を受けるかどうかはそいつ次第」
また彼女の舌は滑らかさを欠いた。
(――おれ次第?)
それは奇妙な受け答えに思えた。話を聞くとは言ったが、自分がどうしようと彼女がそんなことに頓着するとは思えなかった。何であれ、自身のしたいようにする女ではないだろうか。
ジャンの眼差しは鋭く冷静だった。一瞬で、ほとんど正確に品定めされただろうと感じた。
そしてもちろん、彼としては面白くない展開だろうとも。
「話がしたい。ぼくの天幕まで来てくれるかな」
彼は気安げな微笑みを浮かべてギルウィルドにそう言った。本心からの微笑みになるよう、彼自身が努力しているのが何となく分かった。
仰せに従いますと答えつつ、難儀なことになったと思った。
ルキシスを放って自分ひとり東方へ向かうのは気が進まない。彼女のことが心配だ。それにフリーデヒルトのことも。でもかと言って、何をどうしてやることもできない。一晩考えたところで妙案など出てこない。
ルキシスはルキシスで、自身の身の振り方をどう考えていることか。ついでにフリーデヒルトの魔手が迫っていたことなど彼女自身は露知らず、放っておけばこの先何がどう転がるかも分からない。
ルキシスに懸想しているらしいジャンはジャンで、彼女の歓心を買いたいがために――言い換えれば彼女に嫌われたくないがために、よく分からない流れ者のギルウィルドに丁重に友好的にふるまわざるを得ず、細心の注意を払っているのが分かる。一番難儀なのは彼だろうか。
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