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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
女傭兵の結婚狂想曲
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2.また、新しいお仕事(2)

「うん……、アヴージュ語は娘時代に教わったきりで、家庭教師と言えるほど立派な仕事ができるかは自信がないんだが、あの姫が家庭教師を追い出すのはこれで六人目だそうで、ジャンもつくづくお手上げといった感じで、それでもいいと言うんだ。せめて代わりの先生が見つかるまではって」


 フリーデヒルトの嫁ぎ先であるラブダ王国は王侯貴族に至るまでアヴージュ語を操るという。彼女の母語はヒルシュタット語だろう。リーズ語も、多少の訛りはあるが不自由なさそうだった。大貴族の令嬢だけに古クヴェリ語の教育も受けているはずだ。しかしアヴージュ語は普通、帝国の貴族がわざわざ学ぶような言語ではない。婚約が内定して慌てて家庭教師をつけたのだろうが、きっと付け焼刃だろう。それを少しでも強く焼き付けるためにこうして輿入れの行軍の間も学習を続けているのだろうが、これは勝手な推測だが、なかなかその努力は実を結んでいないのではなかろうか。


「夜に少しジャンと話したんだ。あ、話が前後したけど結局ジャンはあの学僧の先生を引き留めることができなかったって。それでずいぶん困ってて、わたしの心許ないアヴージュ語でもいいから手助けしてもらえないかと。まだ、受けると言ってないよ。それで教本を借りて、読み下せるかどうか試してみようと思って」


 彼女の口調はふわふわとしていた。いつもの彼女と、最近の彼女の中間くらいにあるようだった。


「読めたの?」

「大体は。でも時間がかかったし、読んでみて思ったけど、文法を体系立てて説明したりするのはわたしには荷が勝ちすぎる。これがソヴィーノ語とかカミル語とかならもっとマシなんだけど。アヴージュ語で教えられるのはこの教本に書いてある内容の読み下しと、多少の、定型的な挨拶会話くらいだな」


 発音も人に教えられるほどかどうかは自信がない。だからジャンが早く代わりの先生を捕まえてくるまでの、あくまで穴埋め役だ。

 彼女はそう、彼女にしては珍しく自信がない旨を繰り返したが、受けないとは言わなかった。


「この仕事を受ければその間は食う寝るには困らないし、遠回りでも東の方へ向かうわけだから都合がいいかと思ったんだけど」


 ルキシスは窺うようにじっとこちらを見つめている。


「きみは受けたいわけだ」

「ジャンのところは食事が美味いし、酒も飲み放題だし、それに」

「きみにとってはお得意様?」


 そう、と言って彼女は頷く。金払いは良い、とも付け足す。


「きみに帝室騎士団との繋がりがあるとは思っていなかった」

「知り合ったのはジャンが帝室騎士団を再編する前だ。この二、三年はあいつも内政に力を入れるとか言ってあんまり戦争もしなかったからちょっと疎遠になってたけど」


 ルキシスは小首を傾げた。


「悪い話じゃないと思ったんだが。帝国の中央の貴族と伝手ができるのは、おまえにとっても」


 でもそれは、彼女にとっては?

 確かに帝国の中枢に食い込む貴族に気に入られるのは悪い話ではないだろう。金払いは良いという話だし、戦争には事欠かないだろうし、その伝手がまた別の伝手を呼んで関わる者に莫大な利益をもたらす。それに自分には権力者に繋がりたい理由がひとつあった。


 だが彼女には帝国の貴族たちとの間に遺恨がある。

 たとえユーリヒェンベルク家が直接それに関わっていなかったとしても、帝国の中央の貴族という属性が鋭い牙となって彼女の喉元に突き付けられるということはないのか。


 いつか腕の中に捕らえた少女の喉元に剣を突き付けてルキシスは言った。

 わたしがこの娘を殺せないとでも思うのか?

 それは本当にあの少女だったのか。その少女はいつしかルキシス自身の姿に成り代わりはしないのか。

 とりとめもない、そしてめでたくもない連想だった。


「予定を変更するのは都合が悪い?」


 ルキシスは少し垂れた、大きな目をぱちぱちと瞬かせた。


「おれにはここには仕事はないよ」


 彼女のように家庭教師ができるわけでもない。あの姫君を何とかしてやらねばという気にもなったが、冷静に考えてみればそれはやはり自分の仕事でもないだろう。

 何でもできるわけではない。

 何をするにもすべてが手に余る。


「仕事ならありそうなんだ」

「おれに?」

「おまえが話を聞いてくれる気があるなら、ジャンが直接話すと」


 ギルウィルドは黙り込んだ。

 彼女をひとりにするのは心配だった。

 それにフリーデヒルトのことだって心配だった。

 ふたりが関わるのはもっと心配だ。

 自分が近くにいたからといって何をどうしてやれるとも思いつかないが、少なくともルキシスの身柄を守ることくらいはできる。それはそれでひとつの解決策だった。


「いいよ。話を聞く」


 ルキシスは何も言わなかったが、頬のあたりにぱっと華やぐような気配が浮かんだ。

 不思議な心地がした。


 つまり、彼女は喜んだのだ。ギルウィルドが話を聞くと言ったことで。

 そのことの何が彼女を喜ばせたのだろう。分からないし、こんなことで喜ぶというか、感情を動かすような女ではなかったはずだ。

 あるいは、最初からそうではなかったのか。


 昔馴染みらしいジャンとリュドに邂逅して、ルキシスは少しは以前の調子を取り戻していた。嬉しそうだったし、楽しそうでもあった。口数も随分と増えていた。頼りなく、寄る辺なく、病みやつれたような儚さをまつわりつかせた姿は一夜のうちに薄れて多くが消えかけていた。


(それは、おれには)


 できなかったことだ。してやれなかったことだ。

 でもやはり、決定的に、元の彼女とは様子が違っていた。


 しかし自分が元の彼女と思っているものは、彼女が作り上げてきた気難しく獰猛な女傭兵という像に過ぎなかった。

 その像の彼女のままに戻ることはきっともうないのだろう。本能的に分かっていた。

 本当の彼女というものがどういうものなのか、自分には分からなかった。


「……ずっと外にいたの?」

「本を読みたかったから」

「天幕の中の方が風も夜露もないし読書には向いてたんじゃないのか」

「だって、寝ちゃうだろ。ひとりで本なんて読んでたら」

「寝ちゃうの?」


 寝ちゃう。

 そう言って彼女はゆっくりと首を前後左右に倒しはじめた。強張った筋を伸ばしているのだろう。


「でも篝火の灯りで文字を読むのは大変じゃ?」

「まあ、それはそう」

「それに昨日は寒かったんじゃない?」

「マントを借りたからそうでもなかった」


 トーゴ羊。マントの色は深い藍色だった。


「呼び止めて悪かった。でも早く話した方がいいと思ったから。エルの様子を見に来たんだろ?」


 ルキシスは顎先を簡易柵の方角に向けた。丁度馬丁たちが数人働き始めたところだった。


「ああ、うん。でも心配はしてないけど」

「ジャンに言ったんだ。わたしのクラーリパはあまりエルミューダから離さないでって。黒曜、あの、ジャンの馬なんだけど、黒曜っていって」


 話したいことが先に立って言葉がもたついているようだった。らしくもない。ルキシスがちょっとばかり顔をしかめたのが分かった。


「黒曜は二代目なんだけど、先代と同じで黒くて体が大きくて、頑丈だし勇敢なんだがとにかく気性が荒くて。馬丁頭とジャンの言うことしか聞かない。リュドなんていつも脅かされてるし、わたしも踏み殺されそうになったことがある。だからクラーリパのことをきっと苛めるだろうから、近付けるなって言ってある。ああ、エルはたぶん黒曜のことはそんなにかりかり気にしないと思う。あいつは何ていうか、自分が蔑ろにされない限りは他の馬のことを気にしないでのったりおっとりしてるからな。黒曜の方はエルのことは気に入らないと思うけど。それで、クラーリパはエルと一緒なら安心するみたいだから、隣同士で繋いでおいてって。でも子どもを産ませるつもりはないからそこは気を付けてくれとも」


 馬の話はやはり楽しそうだった。急に繁殖の話をしたので一瞬ぎくりとしたが。


「だから欲しがっても黒曜におやつはやらなくていいぞ。手首ごと食いちぎろうとするだろうからな」


 指を食いちぎるというのはよく聞くが、手首ごととはまた穏やかでない。


「牝馬をいじめるなんて悪い奴だな」

「ジャンが言うには、黒曜は自分と同じくらい強い牝馬が好きなんだとか」


 手首ごと食いちぎろうとする牝馬がいるのだろうか。


 何となく、馬も主人に似たのかなあという印象を抱いたが黙っていた。当たり前だ。思っても言ってはいけないことがこの世にはいくらでもある。

 それにいずれにせよ今の彼女にはとても、相手の手首も喉笛も食いちぎってやろうという、そうした猛々しい切れ味はないのだった。

 それはよいことなのか。そうではないのか。

 完全に失われてしまったのか。少しは舞い戻って来るものなのか。


「……謀反って?」


 ルキシスが軽く顔を上向ける。

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