1.塩を振ったキャベツ(6)
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ラブダというのは国の名前である。異教徒との抗争の絶えない東方地域の一角に小さな王国の形を成している。一応は、帝国の領邦だ。しかし帝国に臣従してから十年と経っておらず、地理的にも文化的にも辺境であり、要するに帝国の中枢からは格の低い下等な国家だと思われている。言語は件のアヴージュ語だ。帝国の領邦では庶民はともかく王侯貴族はリーズ語を話すのが通例だが、ここまでの田舎となるとリーズ語の権威も及ばないということで、ラブダ宮廷ではもっぱらアヴージュ語が用いられているという。
フリーデヒルトなる少女の嫁ぎ先はそのラブダの王家の分家筋の何とかとかいう王子だそうで、帝国中枢の大貴族であるユーリヒェンベルク家の遠縁の娘としては、さすがに貴賤結婚とまでは言わないもののやはり格の劣る相手との結婚ということになるらしい。王子といったところで帝国の枠組みの中では辺境などそんな扱いだ。
フリーデヒルトにとっては不本意の極みであるようだった。皇族とは言わないまでも、同じく帝国中枢に食い込む大貴族との結婚でなければ自分には釣り合わないと考えているようで、要するに彼女は気に入らないのである。この結婚が。
しかしこれは何と言っても皇帝のお声がかりの政略結婚で、いかにイースハウゼン伯爵、ヴェルケフ男爵、ユーリヒェンベルク伯爵たるジャンにとっても断れない筋であったらしい。当初ジャンは、まだ結婚しておらず家にいる妹のうちの誰かをやろうかとも考えていたとのことだが、その妹たちにもそれなりに縁談があり、かつ年齢が若すぎることもあって結局遠縁の娘であるフリーデヒルトを担ぎ出したとか何とか。
そんなようなところまでリュドから話を聞いたあたりで、夕餉はお開きとなった。結局ジャンは戻って来ず、ルキシスがそろそろ休みたいと言ったからだった。
果たして彼女はこの仕事を受けるのだろうか。貴族の姫君の家庭教師という役割だ。戦場に出るよりは、よいだろう。少なくともそうそう死ぬことはあるまい。
だがこのまま帝国の大貴族との親交を深め、ラブダという東方の小国まで同行することが彼女のためになるのかというと、どうか。自分には答えがなかった。
ついでに、フリーデヒルトの評判は最悪だった。
ギルウィルドには身の回りの世話をする下女がふたりつけられた。身の回りの世話どころか、望めばふたりまとめて夜伽も言いつけることができただろうがその雰囲気には気付かないふりをして何とか夜が深くなる前にふたりを天幕から追い出すことに成功した。伽は客人に対する当たり前のもてなしではあるが、そんなものを受けるいわれはない。女がいないと眠れないとかいうたちでもない。ないならないで、それなりに平気だ。むしろひとりの方が気楽だ。どうしても女が欲しいという夜などもう何年も経験していないように思う。一応は出家の身であるからか。それはさておき、そもそも着替えも身繕いも自分自身でできるので身の回りの世話などしてもらう必要などなかったが、それなりに情報を仕入れることはできた。
ユーリヒェンベルク家の教育が行き届いていると見えて、当初下女たちの口は重かった。しかしおだてたり褒めそやしたり、辺境の地まで同行を余儀なくされる彼女たちの身の上に同情したりすることで、次第にその舌も滑らかになっていった。
それによるとフリーデヒルト姫は日常的にきんきん声を張り上げて侍女たちに怒鳴り散らし、既に何人もの侍女を追い出しているらしい。これまでに宿泊してきた町や村でも無理難題を言い出しては歓待の首長たちを困惑させ、その度に総領であるジャンが場を取り繕わなければならず、ユーリヒェンベルク家の名折れであると彼の失望は尽きない――らしい。もちろん、総領が叱りつけたところで姫君の態度は一向に改まらない。そうやっていちいち問題を起こすので、隊列は遅々として進まない。予定よりもすでに半月以上遅れているそうだ。
「フリーデヒルト様は恐ろしい御方なのです。櫛に髪が絡みついて一本抜けただけで、その櫛を侍女の手に突き刺して激怒なさって」
「ある街に立ち寄った時には美しい川辺で宴が開かれたのですが、川でも真珠が採れると聞く、真珠が採れるまでは街を去らぬ、今すぐ街中総出で川に潜って真珠を見つけて参れと命じられて、皆呆れ返ったことがありました」
「食事がお気に召さなくて食卓ごと引っ繰り返して、その食卓がとても重たい高価な木と石を組み合わせてできていたものですから、大の男でもそうたやすくは引っ繰り返せないものをそんなに力自慢なら騎士になるかと旦那様が大層お怒りになって」
「旅路の遅れを取り戻すために夜を徹して先を急いでおりましたところ、大層美しい湖のほとりに差し掛かったのですが、その湖に映る月を取って自分へ捧げよ、そうでなければ結婚はしないと言って大立ち回りを演じられて、結局その夜はそれ以上進むことができませんでした」
下女たちの話はその後も尽きなかった。
一行の苦労がしのばれた。
(――戦場に出るよりは、よい、だろう、が……)
その判断にも疑問が生じるような話の数々であった。
ただルキシスなら櫛を突き刺されそうになったらその櫛を奪って逆に突き刺すだろうし、真珠を採って来いと言われたらおまえが採って来いと言って尻を蹴飛ばすだろうし、食卓を引っ繰り返されそうになったらその前に姫君の方を引っ繰り返すだろうし、月を捧げろなどと言われたらもはや問答無用でぶん殴るだろう。勝てそうだ。いや、つまりはいつもの彼女ならば、ではあるが。
それにそうしたところで今回ばかりはお尋ね者になる心配もあるまい。ジャンが恋する彼女の身柄を庇護するはずだ。
しかし、帝国中枢の貴族か。
その一点ばかりが引っかかる。
彼女の身の上が露見するようなことがあれば、それは彼女の身を危うくするのではないか。今までが大丈夫だったからと言って今後もずっとそうだとは限らないのではないのか。
だが反面、大貴族の権力は彼女を守る盾にもなるだろうか。
でも、夫の元にさえ戻らなかったものを?
下女たちを追いやってひとりになった天幕で、整えられた柔らかな寝床に身を投げ出して、答えの出ない問いをむやみに反芻する。秉燭ひとつを残して他の灯りは全て落としてしまった。近くの天幕も似たような様子だろう。大勢の男たちがいるわりに、娼婦を呼び寄せて乱痴気騒ぎをするような浮ついた雰囲気がない。帝室騎士団という組織ゆえのお行儀の良さなのか、事実上の総帥たるジャン個人の意向なのかは分からなかった。身分の低い家庭教師も先生と呼んで丁重に接遇していたあたり、ある程度生真面目な彼の性格は窺えた。
目を閉じてもなかなか眠りは訪れなかった。それでも真夜中を過ぎてしばらくたった頃には少しはうとうとし始めていた。
だが、すぐに気が付いた。
瞼が勝手に持ち上がる。微睡みの熱が身の内から去り、全身がひんやりとする。
誰かが自分の天幕の入り口のすぐ外にいた。明らかに素人だ。刺客ではないだろう。刺客だったとしても心当たりなどないが――ルキシスの間男だと思われて、誰ぞの恋路の邪魔者と見なされたところで、それですぐに命を取られるということもあるまい。まあ、たぶん。
音を立てずに手早く靴を履く。それから入り口の内側に忍び寄る。気配を窺う。そこにいる人物は立ち去る様子を見せない。もしやルキシスかとも思ったが、彼女とは気配が違う。
「何の用だ」
瞬きひとつにも満たない時間で入り口の幕を掻き分け、そこに立つ人物を拘束した。そして次の瞬間に、そのことを猛烈に後悔した。
腕の中の人物は、見上げたことに悲鳴を上げたりはしなかった。上げそうにはなったが、彼女は代わりに違うことを小声で囁いたのだ。
「静かにおし」
彼女。そこにいたのは女だった。実を言えば女であることは薄々察していた。しかしそれはやはりルキシスではなく、世話役の下女でもなかった。この花嫁行列の主役たるフリーデヒルト姫だった。
(――勘弁してくれ)
こんな現場を誰かに押さえられようものなら、これこそ即座に縛り首だ。経緯はどうあれ、花嫁に無体を働こうとする破落戸としか思われない。そんなもの、弁護のしようもない。
暗闇の中で彼女と目が合った、と思った。実際には周囲の松明のちらつく明暗に紛れて、それも定かではなかったが。
「……天幕をお間違えか」
不自由に拘束された体勢のまま、少女は首を横に振った。
「手前に何かご用で」
今度は首を縦に振る。
「悪いようにはしないわ。おまえの天幕で話したい」
(できるわけねえだろうが)
それだって言い訳できない。未婚の少女、しかも貴族の姫君を自分の天幕に引き入れるなど。ありえないことだ。
まさかこれから花嫁になろうという少女が下賤な傭兵風情に夜這いということもあるまいに。一体何を考えているのか。
ギルウィルドは心底困り果てていた。いっそ、このまま彼女を引きずってジャンの元に連行した方が自分の生存確率は上がるのではないか。
「入れてよ。入れてくれないなら大声出すわ。おまえに乱暴されたって」
(――この)
度し難い娘である。
そう言えば先日ルキシスにも似たようなことを言われて脅しつけられた。彼女の夫の宮殿で。
「約束する。悪いようにはしないって。さ、腕を放しなさい。いつまでも無礼じゃないの。大声出されたい?」
クソが。
所詮は立場の弱い傭兵である。進退窮まり、姫君の言うことに従うしかなかった。
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