1.塩を振ったキャベツ(4)
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ところがどうして、少女はこの青年貴族の奥方ではなく一族の遠縁の娘であるという。
「ルキシス様、誤解なさらないでください」
今にもルキシスの足元にひれ伏しそうな勢いで、リュド少年がそう言い募っている。
「あの方はただ旦那様の遠縁の姫君で、決してそれ以上の関係では」
「どうでもいいけど」
ルキシスはにべもなく、供された葡萄酒を口に運んでいる。
結局、場を収拾したのはジャンの「今日はこの地で野営をする」という言葉だった。いや、それは本当に収拾したと言えるのか。それを聞いて少女は「なんでこんなところで野宿しないといけないのよぉぉぉ」とまたも声を張り上げ、「予定より遅れているのはおまえがあちこちで問題ばかり起こすからだろうが」「ジャンの方こそこんなところで立ち止まったりして自分のせいじゃない」「そもそもおまえが」「ジャンの方こそ」「何故分別ある振る舞いができない」「あたしが好きでこんなところにいるとでも思ってるの」云々かんぬんと舌戦が始まり、どさくさに紛れてルキシスはリュドからクラーリパの手綱を取り戻して遁走しようとしたがやはりここでリュド少年が泣きそうな顔でルキシスの足元に追いすがったためそれを無下にもできず、結局こうして一行の野営に付き合う羽目になった。
付き合う羽目になったとは言えど、当初の目論見どおりご馳走にはありつける運びとなった。ついでに休むための天幕も用意してもらって、ギルウィルドもそのおこぼれに与れることになったので、何が何だかよく分からないが損はしていない。得かどうかはいまいち判断が難しい。
今でも少女のきんきんした声が耳の奥に残っているようだった。ルキシスも辟易したようで、機嫌が悪そうだった。
だが――こうして機嫌の悪そうな彼女を見るのは久しぶりで、ある意味でいつもの感じというか、かつての感じというか、ここしばらくの気鬱に病みやつれた風情と異なる様子にはどこか安心できるものがあった。
ここは休むための天幕とは別に設けられた夕餉のための天幕だった。しかし今ここにいるのはルキシスとギルウィルドと、小姓のリュド少年だけだった。
帝国の青年貴族と彼の遠縁であるという少女とは今、別の天幕にいる。天幕の格はそちらの方が高く、どうもこの軍勢はあの少女のためのものであるようだった。
とはいえ、一行の主人は明らかにジャン青年の方だった。年の頃は二十代の半ばか。ルキシスから紹介を受ける機を逸してしまったので詳しいことは分からない。
だが彼のルキシスに対するもてなしは尋常なものではなかった。天幕には香が焚かれ、上等な葡萄酒やたくさんの肉料理が次から次へと運び込まれ、先ほどなどは楽団と踊り子がやって来て芸を披露しようとまでした。結局それはルキシスが辞したが、いずれも旅の途中とは思えない歓待ぶりである。肉だって保存食ばかりでなく屠殺したばかりの新鮮な牛肉や豚肉がたっぷり、贅沢な香辛料もここぞとばかりにふんだんに用いられている。葡萄酒でなく水をと所望すれば、それもすぐに運ばれてきた。
ルキシスは言葉少なに黙々と食事を平らげていた。給仕はリュドがつとめている。彼女の食欲がありそうなのはよかった。しかしどことなく空気は緊張していた。それはルキシスというよりはリュド少年が発するもののようにも思えた。どうにも彼にはギルウィルドに対する敵意があるようで、それはつまり。
(――またリリの間男だと思われてんのかな)
たぶん、そうだろう。間男というのか恋敵というのか。
リュドの主人がルキシスにひとかたならぬ情熱を抱いているのは明らかだった。指環を与えたことや、親密な挨拶で親愛を示したことや、あとよく分からないが冬の屋敷とやらへ招待していたらしいことやら、いちいちそれらのことを挙げるまでもない。眼差しひとつにも、些細な声の響きにも、それは隠すつもりもなくあらわれていた。
しかし彼女の方はそれをどう思っているのか。
(――やっぱり彼氏?)
それにしては態度は冷淡だった。だがそのわりに、近い距離を許容していた。
気に入らない相手に、彼女はあのような馴れ馴れしい態度を決して許しはしないだろう。ということは、気に入っているということか。だが、たとえば彼女が自らの夫に向けたような思慕の感情は見受けられない。と、思う、のだが――。
詳しいことを聞きたいような気もしたが、自分がそこまで立ち入る必要もあるまい。ただ目の前で繰り広げられた光景に対し、好奇心というのか釈然としないというのか、その程度の思いで事態を把握したいだけのことだ。そもそも彼女が自分に対してそれを許すかどうかも分からないが。
結局、何も聞けないまま静かに食事の場が進行するだけだった。ルキシスへのもてなしのおこぼれに与り自分も贅沢な食事を与えられたが、居心地が良いとは言えなかった。
「ルキシス様」
食事が一段落したあたりで、ぽつりと少年がルキシスを呼んだ。「様」をつけてはいけないと言われていたのに従うつもりはないらしい。
「またしばらく一緒にいていただけるのですよね」
ルキシスはゴブレットをテーブルの上に置き、傍らに立つリュドに目を向けた。
「戦争がないなら仕事にならないから一緒には行けない」
「冬の屋敷にお越しくださらなかったのも戦争がないからですか?」
リュドの声に非難が混じり出した。
「いや、あー……」
「わたしもルキシス様をお待ちしておりました。旦那様とずっと待っていました。約束したのだからきっとお越しくださるだろうと。今日いらっしゃらなくても明日こそきっと、と。いらっしゃったら湖でスケートをしたり、銀狐を狩りに行ったり、暖炉辺でギタルを弾いたりして、ルキシス様が楽しく休暇を過ごせるようなことをたくさんしたいと思って、旦那様と色々考えていました。新年の宴にはルキシス様のお席もあったのですよ」
「あ、そう……」
どうもルキシスの方が分が悪そうだった。
昔馴染みの少年にはいつものようなきつい態度もとりづらいらしく、もごもごと口ごもっている。
彼女にはそういうところがある、と常々思うところがあった。例えば白蹄団の少年兵のトーギィや、これまで彼女と一緒に関わった少年少女たちに対して、ルキシスは大人の男に対するほど突き放したような振る舞いはしないし、ついでに馬も大層可愛がっているので、本質的に子どもや動物は好きなのだろう。
ならば夫の元に戻って、子どもを産み育てる暮らしに向かえばよかったのに。クラーリパだって連れていくことができたのに。今でもそう思う。
けれど彼女はそれには背を向けて、戦争を欲しがっている。
今の彼女を戦場に出すわけにはいかない。
きっとすぐに死んでしまう。
「そうとも、何故約束を破ったんだい?」
その声と同時に天幕の垂れ布が持ち上げられ、そこから黒髪の青年貴族が姿を見せた。彼はひとりきりで、赤毛の少女の姿はなかった。
一番の上座は空席になっている。つまりはそれが彼の席なのだった。
リュドがその椅子を引く。軍人らしくきびきびとした足取りで入って来たジャンがそこへ腰を下ろした。
「うん?」
彼はルキシスに向かって微笑みかけた。リュドが彼のゴブレットに葡萄酒を注ぐ。
「忘れていた」
「ぼくとの約束なんてどうでもいいと思っていたんだろう?」
「まあ、そう」
「ひどいです!」
リュドが声を張るのを、その主人は軽く片手を挙げて制した。
「なら次こそ守ってもらわなければ。本当は初夏が一番良い季節なんだ。でもあなたにとっては稼ぎ時だ。夏の屋敷に誘っても来てはくれないだろうからせめて冬の屋敷にと、こちらも妥協しているのに」
「わたしは約束なんてしない。おまえが勝手に決めただけ」
ルキシスは居心地悪そうに――実際、悪いのだろう――視線を外し、ふとギルウィルドを見た。
「おまえは去年の冬何やってた」
何故か突然、こちらに話題を振ってきた。
「は? おれ?」
自分は部外者である。関係ない。彼女のおこぼれに与っただけ。
「そう、何でもいいから話せよ、ほら」
彼女は執拗だった。困っているのだ、と分かった。つまりは彼女なりに、これは助けを求めているのである。
(勘弁してくれよ)
しかし、仕方ない。助け船になるとは思わないが、訊かれたことには答えてやるか。
「実家帰ってた」
「実家?」
ルキシスの声が跳ね上がった。意外だったのだろう。
「そう。もうずいぶん帰ってないし。誰も住んでないけど、まあ手入れくらいは……、たまにはしないと」
「だっておまえの実家って……、その、寒いだろ? 雪がたくさん降って」
「寒いね。たまたま北に向かう傭兵団があって同道させてもらえることになったから行ったんだけど、ひとりなら無理だ」
雪が身の丈よりも高く積もって、それが舞い上がれば上下の感覚さえ失われて、白は簡単に黒に転じる。雪に慣れている人間だってたやすく命を失う。そういう土地だった。
「お国はどちらか訊いても?」
成り行きを見守っていたジャンが穏やかに口を開いた。リュドのようなつんけんした態度は示さないが、逆に掴みどころがなかった。穏やかな、温柔そうな顔をしているが、果たして本心だろうか。
無礼にならないように注意深く、ギルウィルドは彼を見た。
黒い髪をしている。先ほどは分からなかったが、瞳の色は明るい茶色のようだった。彼の目には人懐こそうな、屈託のないような朗らかさがある一方、抜け目のなさというのか、油断ならない厳しさがちらついてもいた。冷徹さとも言えるのか。温厚そうな曲線を描いた口元は優美だが、意志の強そうなところは窺える。言い換えれば頑固そうではある。額から鼻筋、顎先にかけての輪郭が鋭く見えるからかもしれない。彼は、物腰は穏やかでギルウィルドに対しても丁重だが、それが意図して作り出しているものなのは明らかだった。貴族らしい尊大さが堂々とした態度に転嫁し、洗練された風采にあらわれているといったところか。ルキシスの夫ほどではないが長身で、軍人らしい均整の取れた逞しい体つきだった。
「ノールという田舎の小国です」
「北方諸王国だね。ぼくはそこまで北の方には行ったことがないが、ルキシス、あなたは?」
「寒いの嫌」
そんな寒い場所には行かない、という意だろう。
「それで当家の冬の屋敷にも来ず、あなたは何をやっていたのかな?」
「おまえは実家で何やってた?」
だからこちらに話を振らないでほしい。でも仕方がないから答えてやる。
「何かと言うと、特には何も」
「じゃあなんでわざわざそんな遠くまで帰ったんだよ」
「家の様子を見に行ったんだって」
「なんで」
「姉ちゃんが離縁されたり寡婦になったりして自由になれた時に帰れる家がないと困るだろ」
あんな家は、本音では実家だとも思っていない。そもそも自分が幼い頃に育った家は燃やしてしまった。今実家と呼んでいるものは、同じ敷地の別の場所に、姉の夫が建てさせたものだ。
仮にもノールの王の後宮に入る女に里がないのは世間体が悪いということで。
当時の自分には、家ひとつ建て直すことができなかった――というよりは、その発想がなかった。
全て燃やして無に帰してしまいたかった。この世界の自分の目に映るもの全てを。
しんと場が静まり返った。自分が変なことを口走ったと気付いたのはようやくその瞬間だった。同じことを言うのでもいくらでも言葉を選べたのに、きっと自分は、敢えてああいう言葉を選択したのだ。離縁とか寡婦とか。自由になれるとか。
つまりはそれが本心であり、願いであるからだ。
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