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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
女傭兵の結婚狂想曲
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1.塩を振ったキャベツ(3)

 彼女にそんな存在があるとは知らなかった。

 しかしただでさえひとを近付けない女傭兵殿がこのようなはしたない挨拶を許すなど、今こうして実際に目にしていてもにわかには信じがたい。まして婦人同士ならばまだともかくとして、相手は男だ。

 明日には天から槍が降るのではないか。


「久しぶりだ。一年ぶりか? 何故こんなに長いこと顔を出さなかった」


 男は口早にそう言った。紛うことなき宮廷風の、洗練されたリーズ語だ。


「旗が見えたからいるかと思って」

「ルキシス、約束を破ったね。去年の冬は当家の冬の屋敷に滞在する約束だっただろう。待っていたのに。何故来なかった?」

「そうだっけ。忘れたな」


 しかし男の浮足立った様子とは裏腹に、ルキシスは淡々と応対している。それを見ると、彼氏というのも違うのかなあという気はしてくる。しかしそうでもない存在に、こんなに気安く肌に触れさせるというのは、ルキシスは一体何を考えているのか。

 彼女は男を憎んでいると思ったし、夫以外の男を受け入れないとも思っていた。

 それはあながち間違いではないと、今も考えてはいるのだが。


(これは……)


 不穏な気配が胸に兆した。そうと分からぬ程度に目元が引き攣るのが分かった。

 この帝国の貴族は黒い髪をしていた。瞳の色まではここからは判別できない。

 何か、引っかかるものがあった。だがそれが何かは分からない。

 ただいずれにせよ、紋章入りの黄金の指環は彼が彼女に与えたものなのだろう。

 男が女に紋章入りの指環を贈るというのは、それが意味するところはひとつだが。


「ルキシ――」

 

 彼がまた、彼女の名前を呼びかけた。その途中で彼の目が、背後にいるギルウィルドを認めた。


「彼は?」


 一瞬で手早くギルウィルドを観察した後で、彼はルキシスに向かって訊ねた。ああうん、と気安く彼女は頷いた。


「友達」


 その言葉には驚いた。普段こちらが彼女のことを友人などと言うと心の底から嫌そうな顔をするくせに、今はあっさりと何の気負いもなく友達と言った。そう思ってはいないだろうが、少なくとも言うだけは言った。しかも友人とか知己とかそういった言い回しでなく、「友達」と卑近な物言いをした。


「友達?」


 彼は怪訝な顔をしている。


「ぼくの他に友達がいたのかい?」

「おまえ、わたしのことを何だと思ってるんだ」


 幾分、ルキシスに砕けた雰囲気が漂った。彼女はギルウィルドを振り返り、軽く目配せをした。

 ひとまず一旦下馬する。帝国の貴族の前でいつまでも馬上にあるわけにはいかない。本当は姿が見えるよりも先に降りていなければならないのだ。これではいつ無礼討ちにされても文句は言えない。


「ジャン、これはギルウィルドという。なりで分かると思うがわたしの同業者だ」


 目礼する。

 やはり彼がジャンか。彼女が名前を呼んだ。

 頬を合わせることこそ終えたが、実はまだ彼は彼女の体を抱いたままだった。それが気になって仕方ない。いかに貴族とはいえ、婦人に対してべたべたと失礼ではないかと思う。


「ギルウィルド、こっちは」

「ルキシスさまぁー!」


 ルキシスが言いかけたところで人波の向こうから叫び声――そうとしか形容できない――が上がった。

 彼女が声の方を振り返り、口元を綻ばせるのが分かった。久しぶりに見る、それは悲しみでなく心からの喜ばしい気持ちの発露と見えた。


「リュド!」


 騎士だの兵隊だのがごった返す中を掻き分けて、ひとりの少年が転がり出てきた。成人前の少年の、やはりこれも略装姿だ。


「何故去年の冬はお越しにならなかったのですか! わたしも待っていたのに」

「忘れてた」


 ルキシスは彼女を抱きしめる腕からするりと抜け出し、ついでにその手に愛馬の手綱を押し付けて、駆け付けてきた少年に向き直った。


「ひどいです!」

「リュド、いつも言っているが帝室騎士団の副長さんの小姓ともあろう者が、流れの傭兵風情に様をつけてはいけな――あれ、リュド。ちょっと真っ直ぐ立て。あれ、おまえ、いくつになった?」

「はい、十二歳になりました。ルキシス様より背が高くなりましたよ!」

「あ、そう……、おめでとう」


 古くからの顔馴染みの少年に身長を追い越されたらしいルキシスは、どうも衝撃を受けたようだ。声に力がなかった。心なしか足元もふらついている。


「まだまだ大きくなりますよ!」


 少年はルキシスの衝撃をよそにはきはきとそう述べて胸を張った。


「……わたしもまだ伸びないかな」


 二十五歳の彼女にそれは無理ではなかろうか。だが誰も何も言わなかった。たぶんこの帝国の貴族も、その小姓だという少年も、彼女の年齢を知ってはいるのだろうが。

 不意にその少年が、ギルウィルドに目を止めた。ほとんど正面から視線がかち合った。途端に少年の目が吊り上がった。


「なんだ、おまえは!」


 場違いだということを咎められているのだろう。ルキシスについてきただけなのだが、場違いは場違いである。

 リュド、と彼の主人が少年の名前を呼んだ。抑制された声だった。


「彼はルキシスの友人だ。ならばぼくたちにとっても大切なひとだね。無礼のないように」

「はい」


 そう頷きはしたものの、少年は不服そうだった。しかし主人の手前、それ以上は何も言わないでいる。


「何か仕事をもらえないかと思ったんだが、戦争じゃなさそうだな。見知った顔も全然ないし」


 ルキシスが青年の方へ顔を向けた。


「そう、残念ながら戦争じゃなく――」


 と、彼が言いかけたところでまた周囲が騒然としはじめた。

 騒ぎの源は馬車が停まっている辺りだ。ジャンというこの帝国貴族こそが一行の総帥なのは明白だった。その彼が馬車を飛び出して女傭兵の元に駆けつけたせいで、未だ隊列は停止したまま、再び動き出すことができないでいる。


「何をいつまでぐずぐずしているのよ!」


 甲高い声が響き渡った。まだ若い女の声だ。周囲を取り囲む兵隊たちが自然と場を開け、その中央からずかずかと突き進んでくる娘の姿が認められた。

 薄暗がりの中でも分かる、燃えるような鮮やかな赤毛の少女だ。華奢な体躯を豪奢な衣装で覆った出で立ちから、明らかに貴族の娘と分かった。


「ジャン!」


 彼女は険しい顔をして、軍の総帥を容赦なく怒鳴りつけた。そして後から気付いたようにルキシスを見て、ますます険しく顔を歪めた。


「何よその女ぁぁぁー!」


 耳をつんざくような大音声だった。それだけでなく、その声はいつまでも尾を引いて響き続けている。感心したくなる肺の大きさである。

 この少女はこの青年貴族の奥方であろうか。また、ルキシスの知己だろうか。


 そう思って彼女を見ると、その顔には明らかに「何だこいつ」と書いてあった。ついでに軍の帥たる青年の顔には疲弊と苛立ちが綯い交ぜになったような気配が窺え、彼に仕える小姓の顔には明らかにうんざりした鬱憤が浮き上がってもいた。

 こういうことも三者三様と表現できるものだろうか。何が何だか分からないがしっちゃかめっちゃかだ。かなりの時間をおいてようやく娘の声が静まった後、ルキシスは片手を軽く上げながら口を開いた。


「なんか取り込み中みたいだから、じゃ、わたしはこの辺で」


 そうしてギルウィルドを振り返り「行くぞ」と告げた。


「待て待て待て」


 立ち去ろうとするルキシスの腕を取って、ジャンは幾分強引にも彼女を引き留めようとする。主人の意を的確に読み取り、言葉で指示されるより先に小姓の少年がクラーリパの手綱を取った。

 ルキシスは鬱陶しそうに軽く首を打ち振り、首を捻って主従を見た。


「いや、食事でも奢ってもらおうと思ってたけどなんか面倒くさそうだからもういいわ。息災でな」

「そんなことを言ってまた半年でも一年でも顔を出さないつもりだろう」

「わたしの勝手だろ」

「ジャン!」


 赤毛の娘がまた怒声を張り上げる。


「あたしとその女とどっちが大事なのよぉぉぉ!」


 果たしてこの青年貴族は、奥方を持つ身でありながらルキシスに紋章入りの指環を与え、親族か恋人でもなければ許されないような親密な挨拶を行い、あまつさえ奥方を同行させるこの旅路の中で彼女を口説こうとでもいうのだろうか。

 けしからぬ男である。指輪と結婚とどちらが先かは知らないが。

 そして自分が部外者でよかった。

 心の底からそう思った。


 ――だがしかし、ギルウィルドの安寧もそこまでだった。


 不意に娘の目がこちらを見た。いっそ痛々しささえ感じるほどに歪められた彼女の顔が徐々に和らぎ、同時にある瞬間にぱっと瞳が煌めき出すのが分かった。

 そういう眼差しには慣れていた。

 世間知らずの娘たちにしばしばそういう目で見られたし、世慣れたはずの娼婦たちの中にもそういう目をする者が少なくないからだ。


 だからそれがどういう意味を成すのかは嫌というほど分かっていた。

 娘がずかずかと、周囲の人間たちを掻き分けてギルウィルドの前まで歩み寄ってきた。


「跪きなさい!」


 きんきんする声で居丈高に言う。


「えー、あー、はあ」


 巻き込まないでほしい。自分は部外者である。

 そう思いつつも渋々膝をついた。貴族には下手に逆らうものでない。逆らえば後々面倒なことになる。自分はルキシスのように、気に入らなければ貴族だろうが何だろうが構わずぶちのめすなどという立ち居振る舞いはしない人間である。


「やめなさい。その御仁に無礼な真似は――」


 一応、ジャンは止めてくれるつもりがあるらしい。ルキシスの友人ということで。


「なによ!」


 しかし娘は却って反発した。眦を吊り上げ、ジャンを振り返った。


「ジャンはその女と好きなだけしけこんでればいいわ! あたしよりそっちが大事なんでしょ」


 貴族らしくもないはすっぱなな言葉遣いである。いや、貴族らしくないのは言葉遣いだけではないが。


「おまえ、流れ者の傭兵なのでしょう」


 少女が再びこちらに向き直る。彼女は手にしていた扇をギルウィルドの顎の下に差し込むと強引にその顔を上げさせた。

 ため息をつきたい気分だった。

 残念なことに自分はこうした扱いにも慣れている。

 少女は満足そうに笑った。


「おまえをあたしの旗持ちにしてあげるわ」

「いい加減にしなさい!」


 ジャンがつかつかと歩み寄って来て少女の手から扇を奪い取った。


「何よ、何よ、何よ!」


 少女は地団太を踏み、本当に言葉どおり地団太を踏む人間がいるものだなあとギルウィルドは珍獣でも眺める気分でそれを見ていた。


「ジャンのばか!」

「許されよ。当家の者がご無礼を」


 帝国の貴族は貴族らしく堂々とした態度でそう述べた。赤毛の娘のことは一旦無視すると決め込んだものと見える。


「お立ちいただけようか」

「ジャンのばか! ばぁぁぁぁか!」

「どうか当家に贖いをさせていただきたい」

「ジャンのばか! 間抜け! 節操なし!」


 ギルウィルド、とルキシスが呼んだ。

 何を言うつもりかと見ると、彼女はにこりともせず次のように言った。


「士官先が見つかったようだな」


 冗談はやめてくれ。

 ジャンのばかぁぁぁ、と少女の喚き声がいつまでもどこまでも響き渡った。

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