6.ラティアという女(3)
『おまえがこれまでどうやって生きてきたかを問うつもりはない』
『わたくしはクロフィルダイに害しかもたらしませんでした』
そのような者がどの面下げて再びクロフィルダイに戻ることができるというのか。
彼が――夫が、無理を押して迎えてくれたとしてもそれは新たな災いの種にしかならない。
『おまえが』
そこで彼は一旦口を閉じた。言葉を探しているのだ。彼もまた、ルキシスを説得しようとしている。
『おまえが……、島からいなくなって、島は火の消えたような寂しさだ』
『それが仮に本当のことであっても、永遠ではございません』
『おまえを守りとおすことができなかったことはわたしにとっても島のほかの人間たちにとっても痛恨の極みだったのだ。おまえがいなくなって皆、それが骨身に染みた』
それは慰めだろうか。どこまでも優しく誠実な夫であった彼や、そば近くに仕えたイッディマ、乳母たちならばともかく、それ以外の人間にとってはラティアなど災いしか呼ばない女だった。
『何故か分かるか』
そう問われ、ルキシスは戸惑った。ただの慰めではないのか。
『誇りを傷つけられたからだ。クロフィルダイの女を守ることができなかったから』
『それは』
いくらか納得するところはあった。帝国に反発心を持つ島の貴族たちは少なくない。彼らにしてみれば、帝国を恐れて一族の女を追放したという事実は棘のように引っかかることではあったかもしれない。
『あなたも?』
そう問い返すと、アールシュウィンはかすかに微笑んでみせた。
『わたしはただ悲しくて寂しいだけだった』
ルキシスは黙り込んだ。
そうだ、誇りを傷つけられた。その誇りを回復するためにおまえを取り戻したい。
そう言われれば、結局は愛情ではなくて彼自身の誇りやら名誉やらを回復するためだけの道具としてラティアという女が必要なのだと反駁することができたからだ。
でも彼は微笑みさえ浮かべて、悲しくて寂しいだけだったなどと言う。
何て哀切な言葉だろう。
島にとって必要なラティアと、彼にとって必要なラティアはそれぞれ違う色合いを持っている。
それを一瞬で理解させる言葉で、いずれにせよ島に戻ることを拒むルキシスからその根拠を奪おうとする。
『あなたのそのお言葉で、わたくしはどこででも生きていけますわ』
もう一度目元を拭った。彼の手が伸びてきたのを制し、居心地の良い椅子から立ち上がった。
『ラティア』
『あなたはお優しいから、わたくしが負い目など感じずに済むように、どこまでも手を尽くしてくださる』
それがわたくしにはどこまでもつらい。
そう続けると、彼は明らかに困惑した顔を見せた。
『あなたがこの先、クロフィルダイの島主としてお役目を果たしていかれるうえで、わたくしは必ず妨げとなります』
『そのようなことはない』
彼も立ち上がり、ルキシスの手首を掴んだ。もちろん、振り払おうとすればできた。そうしなかったのは、彼の方から手を放してもらう必要があるからだ。
そうでなければ彼のこの先の人生を、自分に縛り付けることになってしまうかもしれない。ギルウィルドの言ったとおりに。そう思うからだ。
『何も心配はいらない。わたしももう無力な少年ではない』
再会した時にも言ってくれた言葉だった。
今ならルキシスを――ラティアを守ることができると。
『そうではないのです』
この恋しい人の重石になりたくない。
彼の未来を妨げたくない。
帝国との関係においても。島の内側の権力抗争においても。
それは本心だが、全てではない。
『わたくしはどこまでも……、自分ばかりが恋しくて、大切で、他の方のことよりいつも自分のことばかり』
『何を言う』
『わたくしはきっと石女です』
アールシュウィンが眉をひそめた。突然何を言うつもりかと怪訝に思ったのだろう。
『あなたのおそばに上がっても、子をなすことができないと思います』
『それは……、分からないだろう』
『もしわたくしが子を授かったとしても、わたくしは果たしてクロフィルダイの島主の子の母にふさわしいでしょうか』
あまりに多く殺し過ぎた自分が。
『おまえ以外に誰がいると言うのだ』
『こんなにも血塗られた母では、生まれる御子があまりにお気の毒でございます』
『おまえが子を産みたくないというのなら養子を取ればよいだけだ』
『それはいけません。呆れます』
島主の血筋を何だと思っているのか。
島の民がひれ伏すのはその高貴な血統ゆえだ。彼自身とて、その血統により形作られているものを。分家筋から養子をとるというのはこれまでも島の歴史の中で何度か行われてきたことだが、それによって家門の本流は変わってしまう。そしてその度に政変が繰り返されてきた。
『おまえには代えられない』
さっき、言ったばかりだった。
彼はラティアのためにどこまでも手を尽くしてくれようとする。道理さえ捻じ曲げて。
そんなふうに彼の重石にはなりたくない。
(それはわたくしの望みではない)
彼の未来を妨げることなど。
『もしわたくしが再びあなたのおそばに上がって……、御子を授かることができなかったら、いえきっとそうなるでしょうけれど、できなかったとしたら、わたくしはあなたに他の女人をお勧めせねばなりません』
上手く言えず、言葉がもたついた。
それはきっと、こんな言葉を口にしたくなかったからだ。想像もしたくなかったからだ。
『何を』
『いずれあなたもそのことをお考えになるようになるでしょう。クロフィルダイの島主なら当然そうですわ。そうならなかったとしたら、その方が軽蔑すべきことでございます』
彼はずっと、他のどんなことよりもラティアを優先しようとしてくれていた。
でも――それはもう、ルキシスの望みではないのだ。
『あなたはお優しいから……、わたくしが胸を痛めないよう、側室のことはお隠しになるかも。でもその方がわたくしにはつらい』
『ラティア』
『お隠しにならなくて堂々とされたってつらいのです』
『他の妻を娶るようなことはしない』
『それをあなたにお勧めしなければならないわたくしのつらさを分かってはくださりませんの?』
アールシュウィンはあまりに優しい。きっと、迎えた側室にも優しく接するだろう。ラティアだけのものだった優しさを他の女に分けたからといってラティアが得る愛が減るわけではない。それでも自分にはきっと耐えられそうにない。
それにもし――もし、優しさを分けるだけに留まらなかったら。彼の心を奪われて、顧みられることがなくなったら?
(生きていられない)
だから自分はどこまでも自分のことしか大切にできないのだ。
自分が耐えられないから。
彼の悲しみよりも。
『そのようなことにはならない』
その言葉だけで身に余る幸福だ。
彼を愛したままで別れたい。
彼のそばに戻って――苦しみを味わって生きていくことはできない。いっそ気が触れて、夫を憎む日が来るかもしれない。
『あなたのおそばにいればわたくしは、胸引き裂かれる思いをすることになります』
自分のような重荷を背負って、彼の愛は失われるかもしれない。そうでなくても、自分が彼を憎むようになるかもしれない。
あなたを二度失うことには耐えられない。
もう、一度だけでたくさん。
そうだから、失ったものは失ったままでいたい。
『わたしはおまえを苦しめるだけか』
ルキシスの手首を掴む彼の手が震えていた。
蒼白になった面に見えるのは驚愕と落胆と失望と――諦観だった。
ルキシスは強いて微笑んだ。
みっともなく目元が潤んだままだったが、せめてそうしたかった。
『同じようにわたくしもあなたを思い悩ませるだけです』
安らぎをもたらすことができない。
ラティアのためにと心を尽くしてくれる彼の重荷になることしかできない。
一生をかけて彼の心を奪い尽くすだけ。
『どうかお別れしてください』
身を寄せ合って、どんな困難も乗り越えていきたかった。
でも今はもう、それはできない。
――彼の元に戻りたい。
(でも、それはもう、わたくしの望みではない)
彼の妨げになるだけなのだから。
ならば、彼を再び失うことになる前に。
するりと彼の手が滑り落ちた。
『どうしても無理なのだな』
『はい』
『そのためにもう一度わたしにおまえを失えと言うのか』
『はい』
夫に背いて今度こそ永遠の別れを。
残酷だとは思う。お互いにとって。けれど。
『これまでか』
彼をラティアから解放したい。
誰よりも愛を注いでくれた彼のために。
『……はい』
アールシュウィンはルキシスの横を通り過ぎ、窓辺に向かって立った。こちらからは彼の後ろ姿だけを臨むことができる。
『ならば行ってくれ。わたしの決意が鈍らぬうちに』
『はい』
彼から見えないと分かっていても、ルキシスはその場で一礼した。クロフィルダイの貴婦人の取る礼だった。男装姿なので正式なやり方にはならなかったが。
同じ一族の瞳。一族の髪。
顔立ち自体はそう似ているとは思わないが、でもいくらか似通った感じもあった。
もう二度と相まみえることはない。
これが永の別れだ。
『どこにいてもおまえの幸福を祈っている』
ミージャを取り部屋を出ていく直前で、彼がそう呟くのが聞こえた。
『アールシュウィン殿下、万歳』
わたくしも、いつ、どこにいても、あなたの幸福を。
世界で一番美しい場所を。
春を告げるミモザ。
春まだ浅きうちに花嫁に選ばれて、木々の葉が染まり始める秋に嫁いで、次の夏にはもう終焉を迎えた。
最愛のひとへ。
あなたに繋がるすべてへ。
彼との永遠を夢見たかった。
それは今となっては都合の良い夢。
そんな夢は見ない。
今はもう。
失ったものは失ったままで。




