5.餞別(1)
今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。なかなか恋愛しませんけど恋愛ものです。
高く澄んだ音色がかすかに漏れ聞こえていた。
それは故郷に伝わる、ミージャという名の小型の竪琴の音色だった。
まだラティアという名前だった頃、自分もよく奏でることがあった。特に嫁ぐ前には刺繍をするか竪琴を弾くか語学の学習をするか、大体それくらいしかしていない娘だった。
クロフィルダイの島を追放される時には一切の財産を持ち出すことを許されなかった。唯一の例外はその時身に着けていた衣服と靴だけだった。
だからその時以来、故郷の竪琴を目にすることはなかった。当然、弾いてもいない。もう指は覚えていないだろう。いや、どうだろうか。時々、例えば戦勝の宴会で、機嫌がよければギタルを弾いて歌を歌ったりすることもあった。大して上手くもないが、音楽の素養はやはりミージャを習っていたことで培われたものだろう。
だがいずれにせよ、今ミージャを奏でているのはルキシスではなかった。扉の向こう側、そのかすかな隙間から漏れ聞こえているだけだった。
ルキシスは小さく呼吸を整え、目の前の扉に手をかけた。自分や、客人であるギルウィルドに宛がわれた部屋の扉ほど重厚ではないが、それでもやはり重々しい扉ではあった。
竪琴の音色が止んだ。
窓辺近くに寄せた簡素な木の椅子に腰かけていたイッディマが驚いた様子で立ち上がった。
「御方様」
『入ってもよろしい?』
島の言葉はもう使うまいと思っていた。
今日で本当に最後にしようと思う。
イッディマは困惑し、呆然と立ち尽くしている。無理もない。ここは彼女の部屋であり、要するに私的空間である。女主人が立ち入ることは却って許されない。
『畏れ多いことでござります。お呼び立ていただけましたら、すぐにも』
『お邪魔かしら』
『そのような……、ああ、どうしましょう』
結局、イッディマが折れた。部屋で一番上等な椅子を、彼女はルキシスに勧めた。
首を横に振ってそれを固辞し、ルキシスはじっとイッディマを見つめた。
彼女の肩越しに窓から朝の眩い光が差し込んで、白を基調とした室内は明るく爽やかだった。祝福のように。
『御方様』
『医師に聞いたの。今朝ならば面会してもよろしいと。でも具合はどう?』
彼女が卒倒したのは一昨日の朝のことだった。本当は一昨夜のうちに宮殿を抜け出そうと思っていて、結局ギルウィルドの横槍が入ってその気も萎んでしまったが、イッディマのことは気がかりだったので却ってよかったかもしれない。でも、わざわざあいつを迎えに行ったのは失敗だった。あんな奴放っておけばよかった。放置しておけばあの若造が困った立場に置かれるかと思って自分らしくもなく気遣ったのが裏目に出た。ずけずけずけずけ言いたい放題言ってくれて、耳に痛いこともあって、その場で上手く反論できなかった。一昼夜明けて少し気を取り直したが、胸の奥底の重苦しい感覚がすべて消えたわけではない。あれ以来様子を見に行ってやろうという気も当然失せていたが、次に顔を見たら一発くれてやろうと思う。
それはさておき、イッディマはまだおろおろとしている。腕にはミージャを抱えたまま。
『起き上がっていてつらくはないの? せめて座ってちょうだい』
頭を打っていたが、さいわい大事ないということだった。ミージャを弾くのが気晴らしになるのならばよいが、できればしばらくは安静にしていてほしいと思う。
『御方様のお見舞いを賜るなどあまりに勿体ないことでござります』
『いいから座って』
重ねて勧めたことでようやくイッディマはその言葉に従った。そうは言ってもためらいためらい、ひどく気が引けている様子ではあったが。
ルキシスは努めて穏やかな微笑みを浮かべた。
『おまえには苦労ばかりかけました』
イッディマは神妙な面持ちでルキシスの言葉を聞いていた。瞳が光って見えるのは涙が滲んでいるからだ。ルキシスの言葉や態度や身なりから、話の行く末を悟っているのだろうとこちらにも伝わった。
『……ここをお発ちになるのですね』
『ええ』
ルキシスが身に着けているのは、イッディマの女主人としてふさわしい衣類ではなかった。いつもの流れ者の傭兵の、男の装束だった。これを着てイッディマの前に出てまた倒れられでもしたらといささかの懸念はあったものの、そうならなかったのはさいわいだった。
『どんなにお願いしてもお聞き入れいただけませんか』
『ええ』
『何故でござりますか』
『追放された者は戻れない』
『御所様のお許しがござります』
『だとしても』
ルキシスは首を横に振った。イッディマの目には厳然と映ったことだろう。
イッディマが唇を震わせた。彼女は何かを言おうとして、言いたいことが多すぎたのか、竪琴ごと胸を押さえて俯いた。
『おまえにはすまないと思っているの』
『わたくしのことなど』
『でもそう思うのは、こうして今おまえと会う機会があったからね』
次の言葉を発するのにはいささか胸が痛んだ。彼女のこの様子を目の前にしておきながら、よくもまあ言えるものだとさえ思う。
『わたくしはこの十二年間、おまえのことなど思い出すこともなかったのよ』
本当のことだった。島を追放されて、夫のことを恋しく思うことこそあれど、あの現場を目の当たりにさせてしまった哀れな侍女のことはほとんど思い返しもしなかった。彼女がずっとラティアのことを忘れられずにいたのとは対照的に。
『御方様』
イッディマが顔を上げてルキシスを見た。その眼差しが何を訴えているか、分かっていて気付かないふりをした。
『わたくしはいつも自分のことばかりよ』
『それはおかしなことではござりません』
『いいえ。そんな者はもうおまえの主人ではないわ』
『わたくしのような些末な者のことなど御方様がお気になさる必要はございません!』
悲鳴のような声だった。それが彼女の心からの叫びであることも理解できた。
『同じようにわたくしはもう、御所様の――、殿下の、アールシュウィン様の妻ではないの』
その資格がない。
ラティアの起こした事件で、クロフィルダイが帝国に対してどれほどの負債を負ったことか。一分の隙も許されない交渉の末、それでも莫大な代償を支払ったはずだ。それなのにその原因となった自分が戻れば、島の者たちはどう思うだろう。諸手を挙げて歓迎されるわけがない。疎ましがられるだけならばまだよい。恨みの思いをアールシュウィンに向け、攻撃の手段とする者もいるだろう。あるいは野心を持った親族や貴族たちは、島主の地位さえ狙うかもしれない。
それにもしも、帝国がラティアの存在を掴んだとしたら。
その時こそもう取り返しがつかない。ラティアは表向きには死んだことになっている。それに加えて天文学的な賠償を支払うことで、内密に手打ちとなったはずなのだ。それを反故にするということは、帝国に内政干渉の余地を――引いては侵略の口実を与えることになりかねない。
いずれにせよ許されない。
どれもこれも。
アールシュウィンにそれが分からないはずはない。それでもと望んでくれた思いだけを抱えて、自分は彼の元を去る。今度こそ永遠に。
彼の思いがあれば自分はどこででも生きていける。
本当はそれだって身に過ぎたことであるものを。
『どうか御所様を支えて差し上げて』




