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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
ラティアという女
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4.各々の胸のうち(7) 破戒僧の語るところ

今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。なかなか恋愛しませんけど恋愛ものです。

「身の証を立てたく存じます」


 懐から、白銀に輝く装身具を取り出して恭しく差し出した。銀で象った縦長の菱形の輪郭をふたつ、半分重なるようにして横に並べて、それぞれの菱形の中央には右側に赤、左側に青の貴石が象嵌されている――神官の証。カトラと呼ばれるものだ。

 アールシュウィンの顔色が変わった。この短い数日の間のこととはいえ、彼がこうした急激な感情の変化を見せたのは初めてだった。


「これは……」

「そういうわけですので、女犯はちょっと」


 アールシュウィンが立ち上がった。思わず身構えたが、彼はその場に軽く片膝をついて身を沈ませ、その後で直立の姿勢になるという礼をとった。それは貴人が神官に対して示す一般的な礼の方法だった。


「神官様とは存じ上げず、これはとんでもないことを」

「い、いえ」


 気圧されて、何となくギルウィルドも立ち上がった。自分は所詮三年程度しか修行していない下っ端の神官である。確かに神官ではあるが、貴人からこのような礼を受けることが許された立場ではない。

 アールシュウィンはカトラを目の当たりにして、それでもやはり信じられないという顔をしていた。無理もないことだが。自分でも、こんな俗人まるだしの神官がいてたまるかと思わないことはない。

 彼はまじまじとこちらを凝視していた。不躾な視線を隠すことも忘れているようだ。だが不意に気が付いて、彼には珍しく慌てた様子で「ご無礼をお許しください」と言った。


「……手前が神官服を脱いでいる理由については、神殿の秘事に関わることですので申し上げられません。ご容赦を」


 それは嘘である。自分の都合で、神殿にいられなくなって飛び出しただけだ。だが嘘も方便とやらで、ここでは許してほしかった。これ以上自分のことを誰かに明かすことなど望んでいない。本当はカトラだって出すつもりはなかった。必要以上に誰かれ構わず見せるものではない。神殿に救いを求める、死にゆく者や――かつて関わり合いになったユシュリーという少女や、そういったごく限られた相手にだけ示してきた。だがこうなった以上、今はもう非常事態だった。


「無論、詮索はいたしません」


 彼はそう請け負い、それからやや言いにくそうな口調でギルウィルドに向かって訊ねた。


「では、妻とは、その」

「妃殿下に対して畏れ多いことですが、友人のように思っております」


 あるいはきょうだいのように?

 別に、彼女を姉と重ねたことなどはないが。

 でも、どこか面倒を見てやらねばならないような気がして胸が騒いで、今もこうして彼女の事情に首を突っ込んでいる。

 本当は昨夜のルキシスのように人知れずこの宮殿を去ることだってできたものを。


「妃殿下もそう仰っておいででは――いえ、友人などとは仰らないでしょうが、とにかく男女の仲だなどとは絶対に仰らなかったのではないでしょうか」

「確かに神官様のことは、仕事仲間だと申しておりましたが」

「――お疑いでしたら、寝間へおやりになってお確かめになればよろしいかと。殿下にはその資格がおありでしょう」


 その言葉の意図を、アールシュウィンは掴みかねたようだった。彼は怪訝そうに少し目を細めた。


「……以前一度だけ、妃殿下から殿下のお話を伺ったことがあります」


 優しくて格好よくて世界で一番素敵なひとだと言っていた。今でも恋し続けているかのように。そしてそれは実際にそうなのではないのか。


「それから何故故郷を後にされたのかという事情についても」


 意を決してそう告げると、アールシュウィンの顔から一切の表情が消えた。驚いているわけでも衝撃を受けているわけでもない。極めて冷静に、彼は今、ギルウィルドを殺すかどうか考えているのだと分かった。


「あまりにお若くして嫁がれたので、白いご結婚だったと」


 アールシュウィンの表情には気付かなかったふりをして、ギルウィルドは努めて淡々と言葉を続けた。


「妻が貴殿にそれを?」

「はい」


 いつかの夜、小さな焚火を囲んで。

 彼女が妙な気を起こすのではないかと心配だった。実際には彼女は「自分が死ぬくらいなら相手を殺す」と言っていたし、まあそうなのだろうなあとは納得したが、そうは思ってもやはり心配だった。

 それでまた少し秘密を交換した。

 そうすることで少しは彼女の気が楽になることを期待した。それから彼女が別のことに気を取られ、それこそ「妙な気」に引っ張れないで済むようになるのではないかとも思った。


 余計なお世話と言えば余計なお世話である。自分がそんなことをしなくても、彼女は自暴自棄に陥ったりはしない。そう、本当は分かっていた。島を追放されてからずっと、ひとりでそれなりに生きてきた。逞しい女だ。生まれの高貴さに相反して。

 だから結局は自己満足である。

 ただそうしないと自分が安心できないからという、それだけの。


「恐れながら今でも妃殿下は白いおからだかと」

「何故貴殿がそうと」


 感情の窺えない眼差しで睥睨され、ギルウィルドは幾分目を伏せた。貴人と直接目を見交わすのは無礼である。だが、愚問だと思った。誰がどう見たって明らかにそうではないか。


「……男を憎んでおいででは」


 この世の全ての男を。

 唯一、たったひとりの例外が目の前の彼なのではないか。


「それに妃殿下がこれまで誰にも触れさせず操を立ててこられたのは殿下の御為ではないかと」

「神官様」


 彼女の夫の彼は今、何を言おうとしたのだろう。不敬だと分かっていても彼より先に言葉を継いだ。


「ですから寝間へおやりになってお確かめになればよろしいかと」


 彼は彼女の正当な夫なのだからその権利がある。ついでに自分の身の潔白も証明されるがそれはこの際どうでもよかった。

 夫以外の男を、彼女は受け入れられないだろう。逆に言えば夫の彼にならば、彼女も拳を振り上げたり刃物を振り回したりして抗ったりはしないだろう。素直に言うことを聞きはしないかもしれないが、かといってどうしてもと拒みとおすこともできまい。強引にすれば多少は恨めしく思ったり、傷ついたりすることもあるかもしれないが、それはそれとしてきっと諦めるはずだ。諦めるという言葉が悪ければ、納得すると言い換えてもよい。少し時間はかかるかもしれない。でも夫の腕に抱かれて、誠意を尽くして守られて、優しくされれば、いずれその愛情を素直に受け入れられるようになるはずだ。


 元よりそういう女だ。

 一線を引いているようで、心を寄せてくる者を拒めない。不機嫌さを装っていて、冷たく突き放せもしない。


「わたしはあれに何も無理強いしたくないと考えています」


 努めて抑制された声だった。

 なるほど、優しくて誠実な人柄だ。しかしそれは本当に優しさだろうか。急に、苛立ちにも近い感情が胸に湧き起こった。貴顕を相手に、あまりに畏れ多いことだが。


「妃殿下は島へは戻らないと仰っているのではないですか」


 感情が声にも表れていただろうか。押し隠したつもりだが、十分ではなかったかもしれない。


「それは――」


 ルキシスが頷かない理由を、彼の方は姦夫への未練と考えていたのかもしれないが、無論それは事実とは異なる。


「故郷へ、夫君の元へお戻りになるようにと、手前からも申し上げております。ですが追放された女は島へは戻れないと、その一点張りで」


 わたしだって島に帰りたい。

 本当はそう望んでいるくせに。


「けじめを大切にされるのは美点のおひとつでしょうが、それでは妃殿下はいつまでもご帰還なさりません」


 段々言葉に遠慮がなくなってきた自分自身を自覚してはいた。神官という身分が多少は守ってくれるだろうが、それでも無礼討ちにされても文句は言えない。


「いくらか強引にでも、妃殿下を島へお連れになるべきです」

「無理強いはできない」


 それで彼は、姦夫を正式に男妾に迎えてでもと破天荒なことを考えたわけである。そうすればルキシスも合意するであろうと。


「ならば妃殿下がご自身でその道を選び取れるよう、段取りを整えて差し上げるのがよろしいでしょう」


 視線を上げ、彼女の夫を真正面から見返しながら告げた。アールシュウィンは、怪訝に眉をひそめた。穏やかならぬ気配が部屋に充満して、空気自体が重さを伴っているかのようだった。


「妃殿下には忠義者の乳母がいると伺ったことがあります。その方はご健在ですか」

「妻の乳母ですか。老齢に差し掛かってはいますが、息災にしています。それが何か……」


 話の行き先を、彼は掴めないようだった。

 次の言葉を口にするのには本来勇気が必要なはずだった。無礼討ちがまた一段近付くからだ。

 しかし難なく言葉は口から落ちて、そのことに感情をかき回されることもなかった。声の調子もいたって平坦だった。


「妃殿下が島へお戻りにならなければ御乳母のご一族に沙汰があると仰せになれば、妃殿下は従われます」


 アールシュウィンの顔が一瞬、強張った。次には強烈な侮蔑の念があらわになった。


「――下劣なことを仰る」

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