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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
ラティアという女
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4.各々の胸のうち(5) 破戒僧の語るところ

今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。なかなか恋愛しませんけど恋愛ものです。

「遅い!」


 声を潜めつつ、ルキシスが怒鳴った。指の持ち主である。

 彼女は外開きの鎧戸の隙間から巧みに身を滑らせ、室内へと踊り込んできた。ここは二階である。ついでに、この部屋にはバルコニーはなく、取っ掛かりになるような彫刻なども外壁には刻まれていない。おまえはヤモリかと言いたくなる。さすがは城壁でも市囲壁でも梯子なしでするする登って猿さながらの活躍を見せる女傭兵殿である。


「なんでここに」


 こちらも声を潜めて、その中で最大限語勢を強めて言った。


「なかなか開けないから落とす気かと思った」


 と、彼女は違うことを言った。


「ちょっと、困るんだけど」

「何が」


 彼女が自分の部屋にいるところなど見られたら、いよいよ成敗である。しかも時刻は夜。辺りは真っ暗で、誰に見咎められることもなかっただろうとは思うものの、夜だからこそなおさら悪いのだ。


「出てってよ」

「だからそのつもりだって」


 まだ灯りを落とす前だったとはいえ、いくつかのランプや蝋燭だけに照らされた暗い室内である。気付くのが遅れたが、彼女は男装姿だった。長い黒髪もひとつに括って邪魔にならないようにしている。その上、腰と背中にはいつもの荷物袋も認められた。


「何分で準備できる」

「何分でって」


 出ていくつもりだと彼女は言った。それはこの部屋をではなく、この宮殿をということか。


「なんでおれのところに来たの」

「なんでっておまえ、置いていっていいのか?」


 確かに置いていかれれば今以上に込み入ったことにはなりそうだ。


「早く荷造りしろ。本当に置いていくぞ。猟犬が庭にいるんだ。犬たちが騒ぎ出す前に厩から馬たちを連れてこないと」


 ルキシスは苛立たしげに足の爪先をぱたぱたと上下させながらギルウィルドを睨みつけた。


「リリ」


 そう名前を呼んだはよいが、次に続く言葉が思いつかなかった。何を何から言うべきか。彼女がますます苛々した目でこちらを見る。


「……どうして出ていくの?」

「ここにいる理由がないからだ」

「おれはそうでも、きみは違うだろ」

「違わない。大体、どうでもいいだろ。それともなんだ、おまえしばらくここに滞在したいのか? なら心置きなく置いていくけど」

「おれはこの件についてはきみの味方はしないよ」


 予期しない言葉だったのだろう、彼女は目をぱちくりとさせた。


「それとも何? おれのこと味方だと思ってた?」

「ええー……、おまえなんていつひとのこと売り飛ばすか知れたもんじゃないから……、でも、この面子の中だと一番味方かと思ってた」

「この面子って?」

「イッディマやエ・ク・リ――御所様」


 彼女は聞き慣れない発音の知らない言葉を発しかけたが、途中で気付いてリーズ語に切り替えたようだった。しかし宮廷リーズ語としても随分と古風な、大衆にとっては全く聞き慣れない言葉である。


「要するにきみの身内か」

「身内じゃない」

「身内だ。おれよりもね」


 つまり、彼女の一番の味方だ。そう言外に含ませる。


「おれはきみがここを抜け出すのに協力しない」

「あっそう」


 ルキシスはぶすっと口を尖らせた。頼りない灯りのもと、不服の意を全面に滲ませてギルウィルドを睨みつけ、わざとらしく肩をすくめてみせる。


「じゃあご勝手に。わたしも勝手にする。別にひとりで困ることなんてないし」


 そう吐き捨てて踵を返し、ルキシスは今乗り越えてきたばかりの窓枠に手をかけた。その小さな背中に向かってため息まじりに声をかける。


「大声出すけど?」


 あん? とまるっきり破落戸のような威嚇の声を発し、ルキシスがこちらを振り返った。


「きみが逃げ出そうとしてるって。そうしたら猟犬は騒ぐし衛兵たちも大勢駆け付けてくるだろうね」

「おまえ」


 彼女の顔が一気に険しくなった。


「何のつもりだ」


 きみのためだ――などと口に出して言えばただでは済むまい。だから無言のまま彼女を見つめ返した。

 だが憎々しげに歪んでいた彼女の顔が、ふと緩んだ。口角を吊り上げ、口元だけで笑ってみせる。過去何度も見たことのある顔だった。皮肉っぽく、侮蔑を滲ませる表情だった。


「出したいならどうぞ? わたしも大声出すけどな? さて、その場合どちらが困ったことになる?」

「えっ。ちょっと、それだけは勘弁してくださいよ」


 もちろん、こちらの方が困ったことになる。彼女を手籠めにしようとしたとか何とか、つまりはそんなふうに思われることになる。成敗、いやさ今度こそ打ち首だ。間違いない。


「だったら態度には気をつけろ」


 ルキシスはそう勝ち誇った。彼女が声を上げるか否かで自分の命運が決まる。世の中は何と不平等にできているのか。


「おまえが残りたいなら勝手にしろ。ただしわたしの邪魔はするな。じゃあな」

「待て」


 慌てて彼女のからだを窓から引き剥がし、その間に割って入った。


「ひとつ確認したいんだけど」


 あん? と彼女は再び威嚇の声を発した。


「きみの旦那さんは」

「旦那じゃないけど」

「旦那さんは、ふたりきりの時、きみにむごく当たったりすることがあるの?」

「はいぃ?」


 ルキシスは渾身の力を込めて、といった様子で顔をしかめた。

 柔和で温厚で親切な顔は外に見せるばかりで、妻や子どもには厳しい――というのを通り越して、おぞましいほどに粗暴にふるまう人間というのは古今東西どこにでもいる。時には拷問さながらに妻子を責め苛み、死に至らしめるような輩もいる。神殿にはそうした父親や夫から逃れるため着の身着のまま裸足で駆け込んでくるひとびとも少なくなかった。


 ルキシスの夫の彼はとてもそんなふうには見えなかったしルキシスの態度からもそうとは窺えなかったが、そういう人間ほど周囲からはそうは見えないものだ。まあ、例えば自分の父親なんかは村中に頭のいかれている奴だと知れ渡っていたし、その子どもの自分も同じように思われているだろうから世の中には様々な例があるとは思うが――それはさておき。

 念のために確かめたかった。万が一そのようなことがあるのだとしたら、もちろんそんな男の元に彼女を置いておけない。ここを抜け出すのに協力しないと言ったが、その話も変わる。


「何を意図した質問か分からないが、御所様は誰かにむごく当たるようなおふるまいをなさる方ではない」


 夫にけちをつけられたと思ったのか、ルキシスは不快げにそう答えた。


「そう。なら、よかった」


 本当に、心からそう思う。


「じゃあなおさら、彼とはちゃんと話ができたの?」


 自分が見る限り、彼女は対話を拒否している。もちろん見える範囲が全てでないのは分かっているが、彼女の態度は一貫していた。あちらがどれほどの歩み寄りを示そうとしても、撥ねつけてばかりいる。


「おまえには関係ない。何度言わせるんだ」

「きみのことを大事にしてくれるご主人のところに戻ろうとしないきみが理解できない」

「おまえにご理解いただく必要はない。そこをどけ」

「少しは彼の気持ちを考えたのか」


 ルキシスが唇を引き結んだ。その視線がさまよう。彼女は引き結んだばかりの口元を緩め、大きく息を吸い込み、また吐き出すということを繰り返しながらゆるやかな動作で顔を背けた。

 いちいち言葉にしなくても分かるだろう。

 十年以上もの月日を彼がどんなふうにして過ごしてきたか。こうして巡り合えたのがどれほどの恩寵か。長い年月を隔てても過たずに見つけ出して、彼がどれほどの歓喜に震えたことか。それをどうして無下にして、また絶望に押し戻そうとするのか。

 すべては彼女の決断ひとつではないか。それでどれほどのひとびとが救われることか。


「――なぜ、分からないの」


 床を見つめて彼女が呟いた。


「おまえも、イッディマも、御所様も」

「そう言うならきみの気持ちをちゃんと説明したらいいじゃないか。それで話し合えばきっと何か……その、着地点が見つかるさ」

「いい」


 ルキシスが右手で宙を払うようなしぐさを見せた。


「これ以上話したくない」

「きみの気持ちをちゃんと伝えもせずに、話し合いも尽くさずに逃げ出そうとするなんて卑怯だと思わないのか」

「それ以上口を開いたら殺す」


 言いながら、窓から出ることは諦めたらしいルキシスは踵を返し扉の方へ向かって歩き出した。その腕を掴んで押しとどめる。彼女のもう一方の手が腰からナイフを抜こうとした。掌底で打ち、抜きかけたナイフをどうにか弾き飛ばす。弾き飛ばされたナイフが床に落ちて音を立てるよりも先に彼女の手首を捕えて掴み上げた。このまま次の刃物を取り出されたらたまったものでない。だが危ないところだった。一瞬でも対処が遅れればナイフを抜きざまに心臓を狙われていただろう。


「何のつもりだ」

「分からないようだからはっきり言ってやる」


 眉を吊り上げてルキシスはこちらを睨みつけている。向き合う体勢で、先ほどよりもさらに距離が近い。


「きみが今黙って姿を消したら彼はどうなる」

「おまえには関係な――」

「一生きみを探し求めることになる」


 一度は確かに取り戻しかけたのだ。それをまたも失って耐えられるものか。一度があったなら二度目もあると、今度こそ叶わない願いに望みを託して一生を囚われることになる。この広い大陸の中で、此度の再会が生涯ただ一度きりの奇跡だと理性で分かっていたとしても。


「きみが今しようとしているのは彼の残りの人生全てをきみに縛り付けるってことだ」


 それは呪いと言い換えてもよい。

 二度と手に入らない彼女のために。

 それでは生きながら地獄にいるのと同じではないか。

 ルキシスは何も言わなかった。瞬きもしない。いつの間にか表情がぽっかりと抜け落ちていた。いつかも彼女のこんな顔を見たことがあったような気がした。こういう顔を見ているとこちらの方が心乱される心地がしてひどく落ち着かない。


「それがどういうことなのかよく考えろ」


 それでも何とか最後にそう告げて彼女の両腕を解放した。

 しばらくの間彼女は無言のままそこに立っていた。今突き付けられた言葉について少しは考えているのだろうか。

 床に落ちたままのナイフを拾い上げ、ギルウィルドは再び彼女の前に向き直った。


「このまま姿を隠すなんて考えは捨ててちゃんと旦那さんと話し合うって約束するなら返す」


 ルキシスはやはり黙ったままギルウィルドの手の中のナイフを見つめているようだった。

 無言の時間が続いた。

 そう長い時間ではなかったはずなのにまるで永遠のようだった。

 しかしやがてそれも終わり、彼女がぽつりと小さく口を開いた。


「おまえの言う話し合うというのは御所様の仰せに従えということか」

「違う」


 だが正直に言えばそういうことだった。

 彼女は戦場を去って幸せになれる。

 彼女の夫も満たされる。

 それの何が悪いのか。


「ナイフを返せ」

「約束は」


 彼女はこちらの顔を見ない。それはこちらとしても望ましいことだった。

 また少し沈黙が落ちた。

 そうと思ったそばから、ルキシスが何事かを呟いた。ギルウィルドの知らない言葉だった。

 何と言ったのか分からない。

 彼女は軽くかぶりを振り、再びリーズ語に戻った。


「ナイフは返さなくていい」

「リリ」

「でも今夜は出ていかない。……それは本当」


 最大限、彼女が譲歩できるのがそこまでということなのだろうか。

 物足りなかったがそれ以上を無理強いすることも不可能だった。

 彼女は今度こそ踵を返し、扉の方へ向かって歩いていった。

 部屋を出ていくところを誰かに見咎められでもしたらまずい。よく確かめてからにしてほしい――と、言おうかどうか迷っているうちに、彼女は束の間足を止めてこちらを振り返った。

 茫漠とした瞳で彼女はギルウィルドと目を見交わした。


「おまえも、イッディマも、御所様も思い違いをしている」

「――何を?」


 わたしだって島に帰りたい。

 ほとんど唇の動きだけで彼女はそう答え、かすかに微笑んだ。

 あんなに空虚な微笑みを見たのは人生で初めてだった。

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