2.また別の秘密(2) 破戒僧の語るところ
今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。なかなか恋愛しませんけど恋愛ものです。
ルキシスは少し眉をひそめたが、何か言おうとはしなかった。そのためこちらがまた言葉を続けた。
「きみは筋が通らないと考えてるのかもしれないけど、もっと柔軟になってもいいんじゃないのか」
ラティア――というのが彼女のかつての名前だ。その名の女は死んだ、自分は今はただの傭兵だ、というようなことを、彼女は主張している。だがそんなことに何の意味があるのか。
彼女の夫は島を統べる王だ。その王が戻れと言うのなら、戻って何が悪いというのだろう。王が白と言ったら黒いものも白だし、右と言ったら左も右なのだ。世の中どこもそうではないだろうか。
「何が言いたいのか分からない」
「つまりきみの旦那さんがきみに戻ってほしいと望むならきみは気後れせずそれに応じていいって話だよ」
「死ね」
直球の罵言が飛んできた。別に痛くも痒くもないが。
「おれにもまだやることがあるから今は死にたくないけど、きみにだってやるべきことはあるだろ」
「ない。なーんにもない。どこで生きても死んでも、誰にも関係ない」
「じゃ、言い方を変える。きみが旦那さんの手を取ることで、きみの旦那さんやあの侍女のご婦人も幸福を得ることができるんじゃないのか」
その言葉は、ルキシスにある種の衝撃を与えたようだった。彼女は目を見開き、食い入るようにこちらを凝視した。二、三度ばかり唇が開閉したが、結局は何も言わなかった。
「それにリリ、きみは戦場を去ることができるんだ」
何よりもそれが一番大切なことだった。剣を握らなくて済む。人を殺したり殺されたり、命のやりとりをしなくて済む。流れ者として各地をさすらって戦争を探すこともなく、夫に守られて大切にされて、衣食住に不自由することなく、それどころかいくらでも贅沢を許されるだろう。
そんな未来の何が気に入らないのか。
ラティアという女は死んだ――というその一点だけならば、それはもう無効ではないだろうか。
「そんなこと、誰が望んだって言うんだ」
彼女がそう言葉を発するまでにはずいぶんと間があった。
彼女はもうこちらを見てはおらず、そっぽを向いている。その視線の先にあるのは雨に濡れた庭の地面の、何も生えていない辺りだった。
「きみは今、からだも健康で、名前も売れていて、仕事には不自由してない。それなりに稼ぎもあるだろう。でもそれがいつまでも永遠に続くわけじゃないってことくらい分からないわけないだろ」
「おまえだってそうだろ」
「おれの話はしていない。それにおれは最悪、神殿に戻ろうと思えば戻れる」
だが彼女はどうだ。
戻る場所がどこにあるというのだ。
――故郷のほかに。
「もし大きな怪我でもして剣を握れなくなったら?」
蓄えが底をつけば、野垂れ死にか、あるいは――。
「わ、わたしだって」
「からだでも売ればいいって思ってる?」
きまり悪そうに何か反論しようとしたのを遮って斬り込んだ。図星だったのか、ルキシスはまた黙り込んだ。
(馬鹿なことを)
彼女にそれができるものか。そんな生半なことでできる仕事ではない。
「どんな苦労があるか分かってんのかよ」
「それは、やったことがないから分かっているとは言えないかもしれないが――」
「そうとも、何も分かっちゃねえだろうが。もし戦場で、足でも腕でも失ったら? 四肢が無事でも容色を損なうような怪我だったら? つまり普通の娼婦として客を取るのが難しい状態になったとして、それでもできるって思ってる? そういう娼婦たちがどういう場所に行くことになるか知っててか?」
「いや……」
彼女は弱々しく首を横に振った。
先日後にした街で、禁欲を訴える神官が娼婦たちの顔を傷つけようとする場面に出くわした。幸いそうなる前に取り押さえることができたが、もしも実際に顔に傷をつけられていたとしたら娼婦としては致命的だ。ルキシスはきっと、客を取れない娼婦は野垂れ死にだ、という程度にしか考えていないだろうが、実際はもっとひどい場所がある。ただでさえ過酷な娼婦の世界の一番の下層だ。そこへ行くことになれば長くは生きられないというだけではない。いっそ殺してくれと願うような汚穢の中で泥水を啜ることになる。
そもそもそうでなくても、彼女に男の相手などできるものか。
「せめてきみがどこかの団にでも所属してりゃ話は別だけど、どうせそんな気はないんだろ」
「あるわけない」
「それでも一応訊くけど、白蹄団に入って経理でも学んで剣を捨てるような気はないんだよな?」
白蹄団の経理係のトマは彼女に気がありそうだったし、彼女がそうしたいと言えば否やとは言わないだろう。彼女がそれに気づいているかどうかは不明だが。
「なんでわたしがそんなことしなくちゃならないんだよ」
ルキシスはふてくされたような顔で、いつの間にかまたこちらを見ていた。
「きみが怪我でもして剣を手放さなきゃならなくなっても、そうでなくても年老いて引退しなきゃならなくなったとしても、団に属していれば安心だろ」
彼女が真面目に勤めさえすれば、そこに至るまでの団への貢献というものがある。それに彼女には複数の言語に長けているという長所もあるから、戦場から身を引く時機がいつであれ、その長所を活かして事務方で活躍するということもできるだろう。つまり、戦えなくなっても団に面倒を見てもらうことができる。
「ひとは楽に死ねるとは限らないよ」
戦場で戦って、ぽんと首を刎ねられて終わり、などということはめったにない。死ぬには足りない、だがひとりで生きるにも足りないという羽目に陥るのは珍しい話ではない。
「わたしだって散々戦場を見てきた」
「だったら分かるだろ。そんな場所からは早く去るべきだ」
特に今ならば、最も望ましい、夢のような形でそれが実現できるのに。
ギルウィルド、と彼女がこちらの名前を呼んだ。
「おまえが持ち前のお節介焼きを発症しているのはよくよく分かった」
お節介焼きって。しかも病気か何かのように言う。
「でも、わたしは駄目なんだよ」
「なにが」
「どうあっても島には戻れない」
「きみの夫が望んだとしても?」
ルキシスは目を伏せながら頷いた。強情なことだ。
「きみは夫の言うことが聞けないの?」
「追放された女は島へは戻れない」
「でも、その島の王がそれを望んでいるというのに?」
「……望もうと望むまいと、ならぬものはならぬ」
ルキシスの言葉に少しばかり宮廷語風の言葉遣いが混じった。昨日からしばしば、彼女にはそうした様子が見受けられた。
「それに殿下はお優しい方で……、ご自身がどう重荷を背負われようと、そう望まねばならないと思い込まれておいでやも」
ならばその重荷を取り除いてやるためには、自分が今度こそ永遠に彼の前から姿を消すしかない。
そう思っているのだろうか。
「それは、だって、分からないじゃん」
「では島に戻って何をする?」
「奥方の仕事は色々あるだろ」
夫を支えて、家政を差配して、子どもを産んで育てて、忙しくもやりがいのある日々ではないだろうか。
「わたしではなくて、もう新しい奥方がいるかもしれない」
それは確かに確認していなかった。何と言っても高貴な家柄の当主であるからには、そういうこともあるかもしれない。言われて初めて思い至った。しかし自分としては、その可能性は低いのではないかという気がしていた。けれどその説明をするより早く、ルキシスが言葉を続けた。
「御子だっているかもしれない。殿下は重要なお立場にあられるのだから、奥方も御子もあって当然だ」
「それは……」
万が一そうとなると、彼女の方が側室の立場になるということなのか。それは我慢ができないのだろうか。
「もしいなかったとしたらその方が悪い。一刻も早くお世継ぎを作らねば」
「それなら立ち入った言い方をして悪いけど、きみが産んであげればいいだろ」
側室よりは正室の方がよかっただろうが、そこは目をつむるとして。いや、それだってもちろん確定事項ではない。まだまだ正室の芽だって残っている。
しかし彼女の返答はまるで予想外のものだった。
「わたしは石女だと思う」
「は?」
考えを整理するのに少し時間が必要だった。いくつかの呼吸の間をおいて、ようやく次の言葉が出てきた。
「……なんの根拠があって?」
処女のくせに。




