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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
ラティアという女
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2.また別の秘密(1) 破戒僧の語るところ

今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。なかなか恋愛しませんけど恋愛ものです。

 明け方近くにひと雨来た。

 熱く乾いた空気が冷えて落ち着いて、中庭の低木の緑も色艶を増し生気を放っている。

 中庭は長方形の回廊状になっていて、それは一部の神殿やこうした南方地域の上流階級の邸宅に多い構造だ。


 雨が止んだ後で馬の様子を見に行った。葦毛の愛馬は元気そうで、主の顔を見ても特に何の感慨もなさそうだった。ルキシスがそばに行くと目を閉じて頭を寄せて甘えたりするくせに、まったく、主人のことを何だと思っているのか。ルキシスの愛馬の栗毛のクラーリパの方がまだギルウィルドに愛想がよいくらいだ。

 クラーリパは少し元気がなかった。街中とは違う異質な雰囲気に落ち着かないらしい。とはいえしばらくここで過ごせば彼女も慣れて屈託なく過ごすようになるだろう。

 だがいずれにせよ、丁重に扱われているのは確かだった。餌も水も新鮮なものがたっぷりと、馬房も奇麗に掃除され、ブラシもかけてもらっている。


 ――さて、これからどうするか。

 まだ早朝としか表現できない時間帯だった。神官というものは朝が早いので、早起きは苦にならない。というよりも、自分は大体朝が早い。

 自分としては、何はともあれ成敗される前にこの華麗な宮殿を後にしたいところだった。なりゆきで一夜の宿を借りてしまったが、これ以上留まる理由はない。

 ただ、ルキシスのことはいくらか気がかりではあった。彼女は夫と故郷に帰るだろう。当然、そうするべきだ。本人は何を意地を張っているのか不本意そうにしていたが、彼女は大体いつも不機嫌でこの世のすべてが気に入らないという態度を取りがちなので、いつもの感じといえばいつもの感じではある――、だが。


(それが彼女のすべてじゃない)


 さすがにそのことが分かりはじめていた。

 ここのところ少し、一緒に過ごす時間が多かった。彼女がいつも不機嫌そうに装っているのは、つまりはそうするのが都合がよいからだ。特に戦場では。

 ある程度彼女を知っている人間ならば、不機嫌そうな彼女に余計なちょっかいを出したりしない。いつ剣を向けられるか分からないからだ。そしてそう思われている間は、彼女は比較的安全だ。


 そうする必要がないところでの彼女は、必ずしもその限りではなかった。短気なのでちょっとしたことで機嫌を損ねがちではあっても――それは装いでなく心から――、楽しそうだったり嬉しそうだったり、はしゃいだ姿を見せることだってあった。

 そう言って今ぱっと思い出すのは、どこぞの海沿いの街で蛸とかいう不気味で悪魔的な生き物を生のまま食べて上機嫌にしている姿だった。美味しいのに、食べてみれば、と彼女にしては珍しく気遣いを示して勧めてくれたが、あんなぶよぶよした生き物は恐ろしくて絶対口にしたくなかった。よって自分は食べなかったが、彼女はもりもり食べて嬉しそうだった。健康的で、元気でもあった。


 彼女のそうした一面は、もしかしたらこの旅で初めて知ったものかもしれない。ならば以前はどういう女だと思っていたかというと、それはもう自分でも掴めない。知らなかった頃には戻れない。


 しかし彼女にまつわることを自分が考える必要はもうないのだ。彼女は夫と故郷に戻る。夫に守られて幸せに暮らす。もう二度と戦場で剣を握って命のやりとりなどはしない。

 別れの挨拶くらいはして、自分はひとりで東に向かおうと思う。怪我こそしているが、自分だってこれまでひとりでそれなりにやってきた傭兵だ。この程度のことで寝付いたりはしない。

 そんなことを考えながら宛がわれた部屋に戻ろうと中庭を通りかかったところで、厩舎に向かう時にはいなかった人物の姿を見つけた。


 ルキシスだった。回廊の内と外を区切る低い石塀の上に中庭の方を向いて腰掛けて、辺りの緑に目を向けている。くすんだところの少しもない明るい水色のドレスを着ているが、たぶんあれは部屋着の類いに分類されるのだろう。布地がたっぷりとして襞が幾重にも寄せられてフリルのように華やかだが、貴婦人が人前に出るには薄着だし装飾が足りていない。それでもなくても、長い黒髪を結わずに垂らしたままだ。


 不審を持たれないよう、彼女の視界に入るように少し遠回りをして前から近付いた。

 やあ、と声を掛けると、彼女はわずかに顎を上げてこちらを見た。


「もう、気安い口なんかとてもきけないような気がするよ」


 なんだそれは、と彼女は小声で呟き、こちらから視線を外した。

 どことなく病みやつれたような風情があった。雨の似合うような。

 昨日と違って今朝はまだ化粧もしていないし、装身具の類いもほとんど見当たらない。それでも誰がどう見ても、紛うことなき貴婦人だった。高貴な女に特有の、辺りを払う空気があった。


 高貴な女とそうでない女を分ける条件は何なのか、もちろん自分のような庶民には分からない。だが決定的に、持ち合わせる雰囲気が違っていた。それは些細な声の調子や指先の所作といった、ひとつひとつは見逃してしまいそうなささやかなものからもたらされるのか。

 ついでに彼女はいつもより、いくらか実年齢に近く見えた。いつもは童顔で、二十歳かそこらか、下手をすると自分よりも年下に見えるくらいなのに、年相応とまではいかなくても二十二、三歳くらいには見えた。


 それは装いのせいなのか。高貴な女が纏う雰囲気のせいなのか。あるいは、病みやつれた風情がそう見せかけるのか。

 何にせよ、自分とは無関係の世界の住人だ。貴族の令嬢を見たことはあるが、よくよく考えてみれば彼女ほど高い門地の姫君を見たことはなかった。まして言葉を交わすことなんて。


「付き添いのひとがいなくて大丈夫なの?」


 高貴なお家の風習など知らないが、普通、貴婦人というものの周りには四六時中誰かしらが付き添っているものだろう。だが、今彼女の周囲には誰もいなかった。自分のほかには。


「だから誰か来る前に部屋を出た」


 同じ流れ者の傭兵同士、かつては同輩と呼べなくもなかったが、今となってはもう﨟長けた貴婦人としか形容のしようのなくなったルキシスは、ふと目を上げてじっとこちらの顔を見た。

 なにかとこちらが問うのと、大丈夫だったかとあちらが問うのと、ほとんど同時だった。


「大丈夫って何が?」

「そりゃおまえ、怪我の具合とか。それに昨日の夜、一度は様子を見に行ってやろうと思ってたんだ。ちょっと、色々あって、行けなかったが……」


 次第に歯切れが悪くなってくる。遂には語尾が弱くなって、彼女はそのまま黙り込んでしまった。


「怪我の方はお陰様で」


 様子を見に行ってやろうなどと、彼女がこちらを気にかけているのは意外だった。それどころではあるまいに。


「……ご主人とはよくお話できた?」

「ご主人じゃないし」


 またそんなことを言っている。

 彼女が誰を愛おしく思っているかなど、どこの誰がどう見ても明らかだというのに。


「リリ」

「お言葉ですが神官様、お得意の神殿に照会されてみては? わたしが、いつ、誰と、結婚した記録がある?」


 神官としては痛いところを突かれた。

 彼女の現在の名前は、大陸中どこの神殿を当たっても登録などされていない。

 彼女のかつての名前であったとしても――以前聞いたところの話だと、彼女の結婚は神殿での宣誓を経ていない、氏族の中だけで成立する伝統婚だ。子どもが生まれればいずれ正式に神殿で婚姻を結ぶということだったが、そうなる前に彼女は島を出ることになった。そして神殿の婚姻法においては神殿で神々の前に誓った婚姻以外は全て私的婚、あるいは婚前交渉に当たるとされ、そもそもが結婚として認められていない。それどころか不道徳的なものとさえ見做されている。腐っても神官の端くれである自分としては、その立場としては彼女の結婚を認めるわけにはいかないのだった。

 結局話をすり替えるしかなかった。


「どうしてそういう態度を取るわけ?」


 せっかくまた愛する人と巡り会えたのに。

 広い大陸の中、故郷から遠く離れて、見出されたのだ。そして彼女の夫は彼女を取り戻そうとしている。ならば素直にその手を取って、故郷に帰るだけの話ではないか。

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