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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
ラティアという女
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1.混乱と過ち(7)

今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。なかなか恋愛しませんけど恋愛ものです。

 あろうことか、眠ってしまった。

 自分でもこの状況で何故眠れるのか、ちょっと意味が分からなかった。

 ただ、少し疲れて、長椅子に座って、何かを考えるのも面倒でぼうっと目の前を見つめているうちに、いつのまにか眠ってしまった。

 目を覚ますと、ずっとそばについていたのだろう。部屋の隅からイッディマが歩み寄ってきた。


『お目覚めでござりますか』


 島の言葉だ。穏やかな波のような音の強弱が懐かしかった。

 でもそれももう、ルキシスという女傭兵には関係のないことだ。懐かしいなどと馬鹿げた感傷に浸っている暇はない。


『晩餐にお出ましになれますか。もしお疲れでしたら、お部屋にお持ちしますのでそちらでご一緒にと、御所様が仰せです』


 晩餐。もうそんな時間か。日没の遅い季節なので、部屋の中は昼間とそう変わらない明るさだったが。


『寸法をお直ししたご衣裳が少しずつ揃って参りました。お夕食には何色をお召しになりますか』


 ご衣裳。昼間通された衣裳室とやらを思い出した。もちろん、この宮殿には元から奥方用の衣装室が準備されていたわけではあるまい。急遽一室を空けて仕立て屋を呼んで、そこを突貫で衣装室にしただけだ。だが、ルキシスが初めてそこを訪れた時点で既に数着のドレスが準備されていた。この短時間で一から仕立てて間に合うわけがないので、さすがに見本品か何かを持ち込ませたものだろう。そのうちの一着をルキシスに着せて仕立て屋がその場であちこち寸法を直して、そうしながら美容師と宝飾屋までが一緒になって駆け付けてきて、美容師が髪を結って化粧をして香水を振りかけて、宝飾屋の方は次から次へと数えきれないほどの宝石を部屋中に並べた。それで形ばかりは一人前の貴婦人らしき何かが誕生したのだが、もちろんそんなことはルキシスの望んだことではなかった。


 ただ、魔法のような仕事だった。仕立て屋にしろ美容師にしろ、熟達した腕前と言えるだろう。ついでに宝飾屋も、ルキシスが選ばないので代わりに見立ててくれた装身具の一切合切が、イッディマに言わせれば「大層お似合い」「御方様のお美しさをよく引き立てて」「最新の流行でありながら軽薄でなく優美で上品」でどうたらこうたらという話なので、さすがにクロフィルダイへの出入りを許されるだけの洗練された感覚を持っているのだろう。そのあたりの美的感覚には明るくないのでよくは分からないが。


 この一瞬でどれほどの大金が動いたのだろうと思うと、傭兵稼業であくせく稼ぐのが多少は馬鹿らしくもなった。しかし自分には他に金を稼ぐ術はないし、傭兵としての実入りも悪い方ではない。度を越した贅沢はできないが、駆け出しの数年を除いては食うに困るほどのことはなかった。


 だから、もうよいのだ。自分ひとり生きていくことさえできれば。

 ドレスも化粧品も香水も宝石も、お菓子もご馳走も。

 ――いらない。それは別の世界のもの。


 御方様、とイッディマが呟いた。呼びかけの言葉ではあったが、どういうわけかそうは聞こえなかった。彼女自身の独言のように聞こえた。


『わたくしにお怒りでござりますね』


 怒っているというよりは呆れているというか、さらに正確に述べるならばただ単に面倒だとだけ思っている。こんな場所に来るつもりはなかった。もう二度と、島の者に会うつもりなどなかった。


『御方様のお怒りは……、ごもっともで、お詫びの言葉もなく、ですがただただ申し訳なく、いつか償いの機会を賜れればと――』


 詰まり詰まり吐き出された言葉に違和感を覚え、つい彼女の方へと目を向けてルキシスはぎょっとした。

 イッディマは顔面を蒼白にして、瞳からぽろぽろと涙を流していた。唇はわななき、胸元に握りしめた拳も同じように震えていた。

 彼女が、ギルウィルドに怪我をさせたことを言っているのでないのは明白だった。それよりももっとずっと昔、十年以上も前に島で起こった出来事について述べているのだ。

 夕陽の差し込む図書室。

 男たちに押さえつけられて、彼女は人質にされて、いつの間にか姿が見えなくなっていた。

 イッディマはルキシスよりひとつふたつ年上だったか。つまり、彼女だって当時はまださして年端もいかぬ少女だったものを。


『わたくしがお目障りでございましたら、もう二度と御方様のお目につく場所には参上いたしません』


 ですからどうかお怒りをお鎮めになって、島へお戻りになって、と、彼女は言いたいのだろう。

 ルキシスはため息をついた。


『そういうことではないのよ』


 もう二度と島の言葉など話すつもりはなかったのに。するりとごく自然に、慣れ親しんだ故郷の言葉が舌から零れ落ちた。


『おまえが気に病むことではないの』


 そう言われてもなかなかそうはならないだろうが、だとしても言ってやるのが彼女のかつての主としての務めだ。


『今更このようなことを申し上げられる道理もございません。ですが、御方様をお守りする立場でありながら――』

『おまえに何ができたって言うの』


 大勢の粗暴な男たちに取り囲まれて刃物を持ち出されて。命を奪われなかっただけ上等ではないか。


『勘違いしないで。おまえが無力だったと責めているのではないの。ほかの誰であったとしても、何ができたって言うのよ』


 帝国の中枢に食い込む名門貴族の子弟たちだった。皇族の流れを汲む者さえいた。


『だからおまえが、気に病むことではないのよ。あんなことは』


 男たちのひとりからナイフを奪って、全員皆殺しにしてやった。気が付けば自分は素っ裸のまま、噎せ返る血だまりの中にひとりだった。イッディマは、恐らくその騒動の中で男たちの手から逃れ、屋敷の者に助けを求めに行ったのだ。彼女とはあれきり会うことがなかったから確かめる機会はなかったが、間違ってはいないだろう。


 息苦しい気分だった。

 自分はこれまで――彼女のことなど、大して気にかけてはいなかった。思い出すこともほぼなかった。

 でも彼女の方は、女主人を救えなかったことをずっと気に病んでいたのだ。言い方を変えれば、苦しんでいた。命を賭してでも自分が守るべきであったのにと。

 そんなことは想像もしていなかった。だから今、こんなにも息が苦しい。


『わたくしは誰にも怒ってなどいない』


 あの男たちを除いては、という注釈はつくにせよ。


『イッディマ、おまえはもうわたくしのことは忘れなさい。おまえの人生を生きなさい』


 ラティアなどに囚われる必要はないのだ。その名前の少女はもういないし、いたとしても散々人を殺して酒を飲んで博打を打って、哀れな侍女に思いを馳せることもなく好き勝手に戦場で生きているのだから。


『同じことを御所様にも申し上げなさるのですか』


 非難がましい口調ではなかった。ただ、痛々しい響きだけがあった。


『何を言っているの』

『御所様にも、御方様のことを忘れて生きよと申し上げなさるのですか』


 またため息が出た。

 イッディマは瞬きもせず、ただ涙だけを零しながらルキシスを見つめている。


『あんまりでござります』


 責める言葉でありながら、やはり非難がましさよりは哀切なものだけが伝わってくるようだった。だから返事に窮して、黙り込むしかなかった。

 イッディマがルキシスの腰掛けている長椅子の前に回ってそこで膝をつく。


『あの者に御心をお移しですか』


 またもやため息が零れ落ちる。もはや数えきれない。

 何を言われているのか、分からないわけではなかった。つまりは単なる腐れ縁の旅の連れであるギルウィルドと夫婦者だと思われているのだ。まあ、そうでもなければ血縁関係のない男女二人連れでの旅などありえないというのが世間一般の常識ではある。

 もちろん、断じて、違う。そのようなことはありえない。しかし現実に、ふたりで連れだって街をうろついていた。いくら抗弁したところで説得力など皆無だった。


 果たして、そのように思われていることにギルウィルドは気付いているのだろうか。たぶん、気付いているのだろうなあとは思っていた。何か言いたげだったし、そうでなくても小賢しく目端だけはきく男なので。いや、でも今はまったく頭が回っていないようなのでどうだろう。いまいち自信がなくなってきた。

 そう言えば、あいつは今頃何をやっているのだろうか。ひとまず今夜はこの屋敷に留まることにして、客室を宛がわれたはずだが。後でまた様子を見に行ってやらなければなるまい。


『御所様はお許しになりますわ』

『いや、あの――』

『離れていた間のことを、女々しく咎め立てするようなことはなさりませんとも。ですから御方様がご心配になることは何もありません』


 またはらはらと涙を流しながらそう言い募るので、何をどこから話せばよいのかよく分からなくなってきてルキシスは途方に暮れた。


『ああー、その、えーと』

『何もご不安になることはござりません』


 いや、何も心配していないし不安にもなっていない。しかしどう説明すれば通じるだろうか。

 と、そこまで考えて、ルキシスはそれ以上考えるのをやめた。よくよく考えれば、別にどうだってよいのだ。この屋敷の者たちに――かつての夫やイッディマに、何をどう思われていたところで。それは、あんな小賢しいだけの若造と夫婦者だと誤解されるのは不本意であり不愉快でもあるが、それが何だというのか。自分はここを出ていくし、もう二度とクロフィルダイの者たちとも関わらない。誰と夫婦者だろうが愛人関係だろうが、それが真実だろうが誤解だろうが、全てはどうだってよい。誤解でも何でもさせておいたところで、自分にはもはや関係ないのだから。


『ご未練でござりますか』


 どうでもよい、関係ないと言ったところで、しかしやはりそう言われると癪に障るのだった。イッディマが言うのはつまり、ルキシスがギルウィルドに恋慕していて、その思いを捨てられずにいるのではないかということだが、最初から持ってもいない、この世に存在もしない腹の内を推量されるのは極めて業腹である。


『そういうことではないの』

『ではあの者とは、もうお会いにならないとお約束いただけますね』


 そういう話ではないのだが。そもそも、自分があの小賢しいだけの若造を恋い慕っているなどということは断じてないわけで。


『そういうことではなくて、イッディマ』


 落ち着かない心地だった。指先で耳朶に触れた。いつもと違う耳飾りがやはり気詰まりだった。


『島を追放された人間がどうして島に戻れるって言うの』


 誰かに怒っているとか、他に恋する相手ができたとか、そんなのは全くもって的外れだ。

 ラティアという娘は死んだ。そうでなかったとしても、一切の財産を持つことなく未来永劫島を追放されたはずだ。

 当然だ。緊張関係にある帝国の貴族たちを何人も殺した。クロフィルダイが領地の割譲も、帝国への臣従も強いられなかったというのは奇跡的なことだった。

 そのような危機的事態を招いた忌まわしい女が、どの面下げて島へ戻れるというのか。


『ただその一点だけよ』


 本当にそれだけなのだ。話は単純だ。

 イッディマは何か反論しようとしたようだった。しかしルキシスがそれを聞く必要はなかった。


「晩餐には出ない。食事はチーズとパンと安酒でも寄こしてくれれば結構。それが不服であれば、食事はいらない」


 リーズ語でルキシスはそう告げた。


『御方様』

「ああそれと、わたしの連れは下戸なので、葡萄酒じゃなくて水か果汁を出してやってくれ。以上。お下がり」


 もう二度と島の言葉は使うまい。

 イッディマの顔が痛々しく悲嘆に満ちた。

 彼女のそんな顔を見慣れてきて、段々、さほど心も動かされなくなってきた自分に気付いている。いや、元よりこんなことに動揺させられる自分ではなかったはずだ。傭兵なら、いつでも落ち着いて的確な判断を下せなければ命にかかわる。当たり前のことだ。


 でもそれは本当だろうか。彼女の悲嘆に自分がただ背を向けているだけではないのか。

 そうかもしれない。そうでないかも。

 でももうどうだってよかった。

 明日にはこの宮殿を出ていこう。ギルウィルドは置いておくとしても。

 ひとりで東に向かう。

 新しい戦争を探す。

 今までずっとそうしてきたように。

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