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女傭兵は殺し足りない  作者: 綾瀬冬花
ラティアという女
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1.混乱と過ち(6) 破戒僧の語るところ

今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。なかなか恋愛しませんけど恋愛ものです。

 そこまで言ったところで開けっ放しだった扉の遠く向こう、続きの間の更に続きの間からひとりの女が猛烈な早足でこちらへやって来るのが見えて思わず口を噤んだ。

 この屋敷には殆ど廊下と言えるものはない。部屋と部屋が直接繋がり合っている。大陸中で概ね一般的かつ伝統的な構造である。

 近づいてくる人物の気配に気づいたのか、それともこちらの視線からそれを察したのか、ルキシスも自らの背後を振り返った。


 やって来たのはあの侍女だった。イーディマだかイッディマーだか、そんなような名前で呼ばれていた。異教風の響きは、恐らく彼女の故郷の古い形式をよく受け継いでいるものなのだろう。

 彼女は部屋に飛び込んでくるなり何事か、ギルウィルドの知らない言葉でルキシスに向かって話しかけた。話しかけるというよりはもはや悲鳴じみた勢いすらある。

 それを聞いてルキシスは露骨に不快な顔をした。鼻の頭に皺が寄っている。

 その後で、件の侍女はこちらに顔を向けた。その表情が物語るところは他でもない、たったひとつだ。


(こりゃまた……)


 実のところ、自分はそれを懸念していたのであった。だから早くこの豪奢な宮殿を後にしたいと思ってもいた。

 侍女の目には見るからに忌々しげな、荒ぶる感情が宿っていた。


(――絶対リリの間男だと思われてる)


 金輪際、神々にかけて、絶対に違う。彼女には指一本触れたこともない――ということもないが、とにかくそのような目的で触れたことは一度だってない。だが、だがである。悲しいかな、それを証明できないのだ。


(いや)


 ひとつだけ証明する方法はある。

 でもそれは自分自身ではどうすることもできないし、自分がどうにかしてくれと言える類いのものでもない。


(このままじゃ成敗されちまう)


 正式な夫が、妻の姦夫を成敗することは古今東西どこでも認められた正当な権利である。もちろんこの自分が彼女の間男であるなどというのは事実無根ではあるが、疑惑を持たれた時点で夫には大義名分が立つ。

 よって自分としては、彼女の夫の逆鱗に触れる前に何とか逃げ出したいところなのだが。いや、もう触れているという可能性もないことはないが、一応医師を手配して治療を施してくれたからには今すぐ命まで取るつもりはないだろう。

 果たして彼女の方は、この疑惑に気付いているのかいないのか。


 侍女はまた何事か、しきりにルキシスに向かって訴えかけている。ギルウィルドの知らない言葉で。彼女たちの故郷の言葉なのは明白だった。

 ルキシスは今度こそ意図的に、表情を押し隠そうとしているようだった。目を細め、平らな眼差しで、しかし唇をかすかに歪め、微動だにしない。


「ギルウィルド」


 懸命に訴え続ける侍女を無視して、ルキシスはこちらに向き直った。


「とにかくおまえは少しここで静養させてもらえ。いいじゃないか、金もかからないしのんびりできるし。エルの面倒も見てもらえるし」

「いや、おれは」


 とてものんびりなどできない。生きた心地がしない。今も件の侍女のナイフのような眼差しが突き刺さってなかなか身の置き所がない。


「わたしはさっさとこんな服脱いで出ていくけど」


 言い捨てるなり、彼女は巧みに侍女の横をすり抜けて部屋を出て行ってしまった。この侍女とふたりきりになどされても困る。視線だけでも殺されそうなのに。などと思っているうちに、遠ざかりつつある後姿のルキシスがぴたりと足を止めた。

 その隣の部屋から、また新たな人物が姿を見せたからだ。

 彼はルキシスの正面からやって来ると、ごく当たり前のように彼女の腕を取って自分の腕に掴まらせ、ふたり連れだってギルウィルドの前までやって来た。件の侍女は畏まってお辞儀をして、脇へと下がっている。

 ルキシスは逆らわなかった。夫のすることに対して。


 彼は――かなりの長身で、そういう意味では人形のように小柄なルキシスとはあまり似ていない。面立ち自体は、似ているところと似ていないところがあるが、どこか共通する雰囲気はある気がする。やはり一族の血と言うのか。全体としては柔和で優しげで、特に口元や顎のあたりにその雰囲気が強い。しかし頬には厳しさがあり、丸顔のルキシスとはここが一番違うと思った。だが、よくよく見比べると彼は額に丸みがあった。その丸みを帯びた額の形はふたりともそっくりだった。

 ついでに、眉のあたりにはどこか頑固そうな、意志の強そうな気配が窺え、この点もルキシスとはよく似ていた。そしてその意志の強そうな気配と全体的な穏健さとの塩梅が、彼の品格に繋がっていた。威圧的ではない。だが堂々として、自信に溢れているように感じられる。物理的な腕っぷしというのでなく、別の種類の強さを十分に備えている。それは貴族的な――ほんの一言や眼差しひとつで他者の人生を左右できるような――、上に立つ者としての力なのだろうと分かった。


 髪の色も同じで、瞳の色も同じ。

 よくよく注意を払って見れば、やや三白眼気味なのも同じだった。三白眼はこの時代の美男美女の一種の条件なので、得な一族である。


「外せぬ用があり、こちらへ来るのが遅くなったことを申し訳なく思います」


 穏やかな微笑みをたたえて、彼女の夫の殿下――そうとしか言えない――がそう言った。


「過分なお言葉を賜り勿体ないことです」


 さて、どうふるまえばよいのか。迂闊な一言が命取りになりそうだし、そうでなくてもこれほどの貴顕と相対したことなどほとんどない。単純に、適切な物言いや立ち居振る舞いに自信がない。所詮は北国の田舎者である。


(せめて下級貴族ぐらいならさあ)


 心の中でしょうもない愚痴を垂れてしまう。もしくはここが戦場でさえあれば。戦場でなら、ある程度は高貴な王侯貴族ともそれなりに渡り合える。そこではどうせ皆戦争にしか興味がないし。

 だがここはそうではなく豪奢を極めたような宮殿で、自分はいささか妙な経緯で足を踏み入れてしまったものの、場違いにもほどがある。


「この度は当家の者がご迷惑をおかけし、貴殿を負傷にまで至らしめたことを重ねてお詫び申し上げたい」


 イッディマ、と彼は傍らに控えていた侍女を呼んだ。


「おまえからも」


 詫びなり感謝なりを述べろということであろう。だが当の彼女の眼差しはどこまでも激しく苛立っており、名家の侍女というそれなりの身分ある立場の婦人でもこうまで感情を剥き出しにするのだなあと妙な感慨が生まれたものだった。


「ご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」


 まったく感情のこもっていない冷ややかな早口で、だが癖のない美しいリーズ語で、彼女はそう述べてギルウィルドの前に腰を折った。

 どうぞお気になさらず、とだけ応じておく。心から、自分のことなど気にしないでほしかった。そのついでに自分がルキシスの間男であるなどという事実無根の疑念もどこぞへ捨て去ってもらいたかった。無理だろうが。


「おまえはもう下がりなさい」


 侍女の態度には、彼も何か思うところがあったのかもしれない。だがそれは匂わせもせず、ただ退室だけを命じた。部屋中細やかに飾り立てられた室内に、夫と妻と、妻の姦夫疑惑の男の三人だけが残される。


「お掛けを」


 宮殿の主はそう言ってギルウィルドに椅子を勧めた。あまりありがたい気分ではなかった。言われるがままに本当に座ってよいのか分からなかったし、そもそもがこの宮殿を去ろうとしていたところなのだから。


「……いえ、もう失礼するところですので」


 果たしてこの返答は礼にかなったものだったか。もちろん、自分は答えを知らない。


「先をお急ぎになる旅で?」


 そうと問われ、ちらりとルキシスの様子を窺う。彼女は顔を半ば壁の方に向け、夫にもギルウィルドにも関心のなさそうなそぶりを見せていた。

 だが、夫に取られた腕を振り払おうとはしていなかった。黙ってそこに立っていた。


 はてさて、旅路自体は強いて急ぐものではない。しかしいつまでもここに留まって成敗の口実を与えたくもない。それにそこまで急ぐ旅ではないとはいえ、王侯貴族の物見遊山の旅行とは違う。飯の種を稼がなければならない。


「医師の手配をしていただき、お心遣い痛み入ります。しかし診察ももう終わりましたので」

「医師から報告は受けています」


 平民相手に、彼は丁重な口調を崩さなかった。ある種の用心深さや周到さを感じさせる。なかなか手強そうな――大人の男だ。


「しかしもう少し怪我がよくなるまで、滞在していただきたいと考えていたが」


 それは本心からの厚意か、それとも隙をついて姦夫を成敗するためか、はたまたほかの目的があるのか。


「そのような過分なおもてなしを頂戴するわけには」

「過分などということはあるはずもないことですよ」


 彼の話すのはもちろん宮廷リーズ語だが、その中でも特に遠回しな、貴族的な、婉曲的な文法だった。


「せめて数日だけでも」


 これを更に断れば非礼に当たると、王侯貴族の礼儀作法に知見があるわけでもない自分でもさすがに分かった。しかし受け入れる理由もない。返答に困っているうちに、彼の方から言葉を継いだ。


「貴殿には、妻が大変お世話になっているようですから」


 相対する相手の穏やかな微笑みは今も変わらない。


(――ああ)


 絶望的な気分になった。

 まだ、せめてと一縷の望みを託していたのだ。つまり、彼女の姦夫であるなどという根も葉もない思い込みはあの侍女だけのもので、ルキシスの夫の方はそのような誤解はせず、単なる傭兵仲間であるという自分たちの関係を正しく理解してくれているのではないかと。

 しかしその望みは完全に断たれたと言ってよいだろう。


(絶対リリの間男だと思われてる)


 間違いなかった。

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