記述15 狂王の花嫁 第3節
またしばらく時間が経つ。エッジは変わらずイデアールと共に過ごし、その様子を俺が遠くから眺めるだけの日々が続いた。それどころか日に日にエッジと会える時間は減っていっているように感じる。イデアールがエッジを手放さないせいでもあるが、俺も俺で軍事訓練の手伝いを任されるようになってしまったために自由に活動できる時間が少なくなってきていた。
会話の一切が無くなったわけではないが、以前に比べて距離が開いてしまったような気がする。手が届かないほど遠ざかってしまったなんて、そんな大げさな話ではないけれど、このままでいいのかという焦りと……寂しさを感じるのは確かだ。そして自分がなぜこの城にやってきたのかも考えてしまう。一人では心細いから嬉しいと同行を喜んでくれた彼の心は、今も変わらずにいてくれるだろうか。
「それで、この後は走り込みだから旦那の手はいらないよってさ」
前を歩いていたディノが、端末の画面に目線を落としながら振り返る。彼は俺がアルレスキュリア城にいる間の世話役兼監視役を任されているトラスト直属の黒軍兵士だ。
「日が沈む前には帰ってくるけど、その後も特にやってもらいたいことは無いから勝手にしてくれってさ。お暇がもらえてよかったなぁ、ソウド・ゼウセウト様」
「急にそんなものを貰ってもやることなんて無い。予定が狂うだけだ」
「そう言うもんじゃない。確かさっき向こうの方に……ほらいた」
ディノがわざとらしく周りを見回す仕草をし、ある方向を指さす。その先を見ると、深緑の低木に囲まれた庭園のベンチに誰かが座っているのが見えた。エッジだ、間違いない。
「積もる話もあるんだろ? ま、精々がんばりな」
大きなお世話だ、といつもなら言い返してやるのだが、今は素直に感謝してしまう。
俺はすぐにディノとの会話を切り上げて、エッジがいる庭園の中へと足を踏み込んでいった。すると彼の方もこちらに気付き、ぼんやりとしていた表情がパッと明るく華やいだ。今は仮面をつけていない。素顔を見たのは久しぶりの気がする。
「空いているのか?」
久しぶり、なんて言葉はかけたくなくて、始めに何と声をかければいいか迷ってしまった。
「あぁ、少しだけだが」
エッジは返事をしながらベンチに置いていたひざ掛けを抱えあげ、「ここに座れ」と隣を開けてくれた。心遣いの通りに隣に腰掛けると、心底嬉しそうにニコニコと笑う。こういう所は変わらないなと思えば、張り詰めていた気がカクンと緩む。その笑顔の下に続く女物の衣装にはどうしても怪訝な顔をしてしまうのだが。
「また新しいドレスを着ているんだな」
「似合わないだろうか?」
「好んで選んだわけでもない服を褒められても、オマエは喜べるのか?」
「どうだろうな? ソウドになら悪い気はしない。それに……こういう女性らしい服装の方が自分にはしっくりときてしまうのだろうなと、ずっと昔から思っていた。その通りだったんだろうな」
複雑そうな口振りだ。
俺はエッジの顔をもう一度見つめる。男性というよりは遥かに女性に近しい、柔和な印象をもてる整った顔立ち。エルベラーゼという、今はもうこの世にいないとびきりの美女と、彼の顔立ちは見間違えるほど瓜二つであるらしい。息苦しさがあったと、エッジは言う。この容姿のせいで悲しい扱いを受けたこともたくさんあったと、教えてくれた。
男性に生まれながら女性としての人生を周囲から強いられ続ける、違和感と葛藤。
こういう顔で生まれてきたせいで、女よりも男に迫られることの方が多かった。それが妥当だと自分でも思っていた。自分を置いて死んでいった母親という存在の大きさのせいで、女という異性そのものを素直に好きになれないことも、悩ましく思っていた。
けれど幼い頃の彼は迷わなかった。愛する人を失った母親のために、父親を失った家庭のために、男として生きることを進んで選んだ。子供の頃にできあがった性質というものは大人になっても簡単には変われないもので、エッジは今も自分の性別に迷い続けている。
履き慣れないひらひらとしたロングスカート。櫛を通してリボンを巻き、侍女の手によって丁寧に丁寧に結い上げられた髪型。青紫の生地に大粒の宝石がふんだんに散りばめられた豪勢な服は少し派手すぎる気がするが、エッジが着ていると不思議と嫌味を感じない。人柄がにじみ出るとでもいうのか。
言葉では今の彼を肯定できないままでいるが、それでも心の中は、女性的なドレスを身に纏ったエッジの姿を『美しい』と称賛したくてたまらなくなっていた。
「このドレスはな……この間招かれた夜会で、たまたま話をした富豪の男性に貰ったんだ。最近商売が上手くいっているのは国王とエルベラーゼ様のおかげだと、感謝をされた。好意を無下にはできないだろうと思って、一度だけでもと袖を通してしまったんだ」
「悪意は無くとも下心はあるだろうに。でもまぁ、そうだな……最近はオマエの評判も随分よくなった。前みたいに陰口を言ったり、露骨な嫌悪がこもった視線でオマエを見るヤツらは減ってきている。評判が急激に高まりすぎて、この国も少しずつ変わっていけるんじゃないかって、勝手な期待をする連中も出てきてしまっているけどな」
「本当に変わってくれたらいいのだが」
優しげに、けれど寂しげに目を細めるエッジ。その横顔を見つめていたら、本音の言葉を伝えたくなった。
「エッジがこの国から離れられなくなるような変わり方は、俺は嫌だからな」
権力者が、支配者が、皆が皆エルベラーゼを偽るエッジの存在を見つめ、肯定するようになるのが良いことばかりであるわけがない。彼らはエルベラーゼという王女の偶像に依存し始めている。このまま民にまでエルベラーゼの存在が知れ渡り、受け入れられてしまったら……国はエルベラーゼを……エッジを手放そうとしなくなる。
「今ならまだ逃げられるんだぞ?」
この話をするのは今が初めてではない。エッジにはここに来てからもう何度も、何度も同じことを問いかけ続けている。そしてどうするのか尋ねる度に、エッジは困った顔をして「ありがとう」とだけ返す。「俺は平気だ」と笑い飛ばす日もあった。弱音を溢す日もあった。
エッジは迷っている。このままでは自分がこの国に食い潰されてしまうことに気付いているのに、迷っているだけで逃げ出そうとしない。今までに何度も俺に相談してくれたのに、嫌だという意思表示もしてくれたのに、逃げ出すことができないでいる。
その身に宿る血の流れが枷となり、彼とアルレスキューレの国とを繋ぎ止める。
「イデアールを理解してやれるのは俺だけなんだ」
エッジは口を開き、静かに語り始める。どこまでが本心なのか推し量るのは難しい。
「どんな人でも大切な人を失ってしまったら悲しいに決まっている。大切な人が、自分ではない他の誰かのために何処かへ行ってしまったら、そのまま帰ってこなくなってしまったら……わかるんだ。俺も、エルベラーゼという人が好きだったから」
抱えたひざ掛けの生地を手の中でぎゅっと握りしめている。憂いをおびた表情の中で、彼が父親譲りだと自慢する琥珀色の瞳がきらきらと濡れて光る。
「イデアールは、母さんの婚約者だったらしい。そして今も、本当に心の底からエルベラーゼという女性のことを愛している。昔から、ずっと変わらず。幾らか想いを屈折させてはいるが、想いは深くて、今もまだ胸の奥の一番大切なところを愛する婚約者の残り香で埋めている。母さんにとってもイデアールは実の兄のような存在だった。婚約者を裏切ってしまったことが唯一の気がかりであったと、彼のことを話してくれたことがあった。それに彼はな……俺と二人きりになるとボロボロと崩れるように泣き出すんだ。帰ってきてくれてありがとう、エルベラーゼ、愛している……と」
「オマエはエッジだろ?」
「……それだけが問題だな」
もしも必要とされているのがエルベラーゼではなくてエッジだったら、迷いなんて無かったのかもしれない。違うからこそこんなにも苦々しく思うはめになる。イデアールは決してエッジ・シルヴァという存在を認めてくれない。例えそれが自身と同じ境遇を持つ同志であったとしても、その眼を見るだけで怯えて逃げ出してしまうのならば、心を通わせることなど夢のまた夢。
イデアールだけではない。この国の全てがエッジを必要としているのに、エッジ・シルヴァという一人の存在を受け入れてくれない。必要な部分だけ切り取って、いらないところは仮面を被せて隠してしまう。その下にある感情を、人格を、覗こうともしてくれない。
そんなところにいるべきではない。わかっているのに、絡みついた鎖が彼を放してはくれないでいる。彼の体には同情する想いとは別に、もう一つ重い「責任」の枷が絡みついている。イデアールからエルベラーゼを奪い、アルレスキューレの国から王族の命まで奪ったのは、他でもない、エッジの実の父親レトロ・シルヴァなのだ。
因果というものは、誠に面白いものですね。
初めの夜に聞いたトラストの言葉が脳裏をよぎる。親のしがらみなどとはこれっぽっちも縁が無い俺には、血縁のつながりなどまるきり理解できないけれど、少なくともエッジの胸にはそれが重たくのし掛かってしまっている。
大好きな母親を奪っていった父親のことなんて、もっと恨んでしまえばいいのに。
いつか告げたその言葉をエッジは「その通りだ」と笑い飛ばし、「私は情けない男なのかもな」と自嘲した。
人を恨むことが出来ない。怒ることが出来ない。与えられた理不尽も、不条理も、全部全部受け入れて……それも時に良いものではないだろうかと愛してしまう。そうすれば楽になれると、ずっとずっと、そう信じて生きて来た。もう後戻りが出来ない程に長い間。見捨てられようと、虐げられようと、不要だと無視されようと、それでも他人を嫌いになれない自分は、やっぱりヒトとして出来損ないなのだと、胸の内を語ってくれた。
そんなエッジにかける言葉が分らないならば、俺もまた無力で身勝手な出来損ないの内の一人なのだろう。他人の気持ちが分からないまま生きていてはいけないと決めたのは、一体どこの誰だろう。
段々と辛気臭くなってくる空気が嫌で、何とか場をなごませようと楽しい話をしようするが、軍事訓練用の落とし穴にラングヴァイレが嵌った話は前にしてしまった。
「なぁ、エッジ……」
「こちらにいらっしゃったのですね、エッジ様」
なんとか話題を掘りだして口を開いたところで、庭園の奥から一人の侍女が姿を現わす。トラストからエッジの世話係を任されていた、あのデニスという背の低い侍女だ。彼女は俺たちが座っているベンチの方へやってくると「検査の準備が整いました」と、甘ったるい声でエッジに伝えた。
「いつでも始められる状態にしてありますが、いかがなさいますか?」
「今日はイデアール様の定期メンテナンスの日だ。できれば本日中に受けておきたい」
言ってからエッジは隣に座る俺の顔を見て、「用事ができてしまった」と眉尻を下げながら詫びを入れる。
「一体何の『検査』なんだ?」
怪訝に思って直接きいてみると、エッジは少し答えに迷った表情を見せてから、素直に内容を教えてくれた。
「俺の、人とは違う奇妙な体質の謎について調べてもらおうと思っていたんだ。以前にも……確かペルデンテでテディに会う前に話していたかな。いつまで経っても歳をとらないことや、傷がすぐに治ること。トラスト側はどうやら俺のそういった秘密についてもある程度調べがついていたらしくて、向こうの方から検査をしてみないかと提案をされた。俺もずっと気になっていたことだから、せっかくだからと了承することにしたんだ」
「あの腹まで真っ黒な黒軍隊長の言うことだろ? 信用できるのか?」
「それは……まぁ、俺も不安ではないと言ったら嘘になる。だが、今を逃したら次に調べてもらえる機会があるかどうかと考えると、どうにも断り切れなかった。俺自身、自分のことが気になって仕方ないでいるのだ」
「検査だけで済むならいいけどな……不安なら、俺も一緒に検査について行ってやろうか?」
「いいのか? 急な予定になってしまうが……」
「訳あって丸一日ヒマになったばかりだったんだ。だからむしろちょうどいい」
エッジは「ありがとう」とはにかむと、早速横で話を聞いていたデニスに俺が同行することの許可を取る。デニスは一度俺の顔を覗き込んでから、すぐに目を逸らし、エッジと再び向き合ってから「地下研究所への通行許可証がもう一つ必要ですね」と返事をした。