記述15 狂王の花嫁 第2節
城の上空には変わらぬ様子で浮かぶ灰色の雪雲。室外を歩いているとどこからか吹いてくる寒風の感触は、今日も冷たく乾いている。移動のために回廊を歩いている最中、なんとなく横目に見た窓の外の景色には、まだ数日前に降り積もった雪の山が溶けずに残っている。このまましばらく雪が降らなければ少しは暖かくなるだろうか。白銀に染まった庭園の様子を見下ろしながら、ぼんやりと考える。
ここに来てからもう十日分の時間が経過した。アルレスキュリア城の中で過ごす時間は、体感として随分早く過ぎていくような気がする。
城を訪れた最初の夜にあった出来事の後、エッジはイデアールの世話をすると自らの口から言い出した。
「彼にはもう、エルベラーゼ以外に支えになってやれる人がいないのだ」
それ以来エッジは昼も夜も付きっきりで、あの情緒不安定な未来の王様の側で過ごすようになった。イデアールが城のどこかで癇癪を起せばすぐに駆け寄って怒りを宥め、不愉快な妄想のために眠れぬ夜を過ごしていれば傍に寄り添って朝まで話し相手となった。
エッジの甲斐甲斐しい介護のおかげで、この短い期間のうちにイデアールの状態は心身ともに快復の兆候を見せるほどになり、国王らしく机に向かって執務をこなせるようにもなった。長らく病に臥せっていたとはいえ、それ以前はまぁまぁまともな性格をしていたらしく、為政者としての能力も高い部類の人間であったらしい。
それでも情緒が不安定なのは変わらずで、何か少しでも気に障ることがあれば時と場所を選ばずに暴れ始めることは多かった。
パリーンッ
昼食のために食堂へ向かう途中、壁一枚を挟んだ部屋の中から皿の割れる音が聞こえてきた。その後に続く男の怒声。「またか」と思い、飽きれながら音がした部屋の方へ足を向け直した。
開いたままになっていた部屋の扉の前にはすでに数人の野次馬が集まっている。人だかりの一番後ろに立って中で何が起きているのか覗こうとしていると、俺の存在に気付いて振り向いた兵士が驚いた顔をしながら自分がいた場所を譲ってくれた。奇妙に思いながら彼が立っていた場所に遠慮なく入り込んでみると、部屋の中の様子がよく見えた。
「申し訳ございません! そのようなつもりは、まったく……本当にっ、申し訳ございません!」
白いエプロンをかけた若い侍女が床に額を擦り付けながら謝罪している。声色は必死で、添えられた手には真新しい切り傷があり、赤い血がにじみ出ている。彼女の周りには割れた皿の破片が散らばっていた。
テーブルを挟んだ向かい側にはあの男、イデアール・アルレスキュリアが立っている。今まさに癇癪のピークを迎えたと思われる彼は、目の前に丁寧に並んでいたテーブルセットのフォークを手に取ると、怒りの感情おもむくがままに侍女へ向けて投げつけた。運よく体には当たらなかったが、床に深々と刺さったフォークを見た侍女はヒィッと声をあげて動転する。
「貴様も私を陥れるつもりなのだな! わかるぞ、その悪意に満ちた眼は誤魔化せない! 貴様が食事に毒を混ぜたのだろう!? 答えろ!」
「そんなっ、滅相もございません! わたくしは、決してそのような」
「こんなものを口に出来るものか! 貴様が自分で飲み干すがいい!!」
スープがつがれたままの皿が侍女に向かって投げつけられ、まだ熱さを保っていたスープが彼女の顔面にかかり、湯気があがる。
「きゃ、きゃあぁっあっ、あつっ! あ、ぁあっ……」
侍女の顔が赤く染まり、清潔にしていたはずの衣服に染みが広がる。皿は床に落ちて音をたてて割れた。飛び散った皿の破片が侍女の頬を掠め、また小さな傷を増やす。
「おやめください、お兄様」
そこへ見知った声が割って入る。視線を返すと、野次馬が群がった扉とは別の扉の前に、煌びやかなドレスを身に纏った仮面の女が立っていた。
照明の光を浴びてほのかに光る純白のドレス。上品な青色のケープを肩に掛け、その下に隠れた白い腕には繊細な刺繍が施されたシルクのグローブ。水晶のように輝く氷色の髪は丁寧に結い上げられ、頭の上には雪の結晶を象ったティアラを添えている。目元を隠す銀色の仮面のおかげで顔はわからず、表情も掴みづらい。けれども凛とした立ち姿と落ち着いた口調は美しく、その場にいた誰もに神秘的な魅力を感じさせた。
誰がどう見ても女性としか言いようのない完璧な仮装だ。しかし俺はあの人物がエッジであることを知っているために、他の野次馬たちと同じように感嘆の声を上げることなどできなかった。代わりに込み上げてくるのは、同情の気持ちにも似た苦々しい感情ばかりだ。
「おぉ、エルベラーゼ! 一体どこに行っておったのだ! 聞いてくれ、この女が私を……」
姿も口調もまるごとエルベラーゼに扮したエッジの姿を目に入れた瞬間に、イデアールは声色をコロリと変えて彼にすり寄っていく。そのままあぁだこうだと思いついたばかりの妄想をエッジに言いつけるが、エッジはその一つ一つに返事をかえし、丁寧に諫めていく。
「落ち着いてください、彼女はこの通り必死に頭を垂れているではありませんか。赦しを請う民を蔑ろにするなど王としてあってはならないことですよ」
「しかしな、エルベラーゼ……」
イデアールが口ごもっている間に、エッジは床に座り込んだままの侍女の元へ近付き、そっと優しい声をかけて手を差し伸べる。
「ここは他の方に任せて、お前は今のうちに逃げなさい」
それをきいた侍女はボロボロと涙を流したまま立ち上がり、数度頭を下げてから傍にいた同僚に連れられて部屋を出ていった。
「お兄様、食事がまだ終わっていないのでしょう? しっかりと栄養を摂らなくては、またお体を崩してしまいますよ」
まだ何か言いたそうにしていたイデアールを宥め、席に座らせる。すぐに給仕の侍女が新しい食器を持って現れ、テーブルの上に改めて料理を並べていく。
その様子を静かに見つめていたエッジの側に、様子を見計らっていたらしい一人の灰色の髪をした侍女が近づいて行く。あれは確かエッジの世話を任されているデニスという名前の女だ。これといって特に目に付く箇所もない侍女であったが、いつもエッジと一緒にいるものだから自然と名前を覚えてしまう。デニスはエッジに何かを耳打ちして、報告しているように見えた。
エッジを傍らに立たせたままイデアールは食事を再開する。毒盛り疑惑の騒動はこれで顛末を迎えたらしく、以降はカチャカチャと小さな食器の音がなるだけのつまらない部屋になってしまった。
興味津々な様子で見物していた野次馬たちは、それぞれが溜め息なり文句なりを口にしながら、一人、また一人と部屋の前から立ち去っていく。
「本当に言うことを聞くのだな」
「不気味なもんだ」
すれ違いざまに小声で交わされる会話が自然と耳を掠めていく。ここに来てからはこんな陰口めいた噂話もよく聞いた。国王の乱心に振り回され辟易している城仕えの民にとっては、突然現れたエッジもまた面倒な王族の一人にすぎない。随分昔に国を捨てた王女の子孫だなんて、そんな得体のしれない者を急に信用しろというのも無茶な話なのだ。
ただ、エッジが持つ氷色の髪は特別だ。アルレスキュリアの王家に連なる者だけがもつ、銀とも白とも単純に表現できない、淡い青色の光沢を持つ、繊細で美しい髪色。
それを見たものは誰もが王族であることをすんなりと認め、疑う素振りすら見せなかった。それほどまでにこの国にとって王族の容姿は重要視されるもののようだ。それはもう立派な信仰と言っても過言ではないらしく、人々の中にはエッジの姿が伝説に伝わる救国の聖女に似ていると称賛するものすらいたくらいだった。良くも悪くも、周囲からの評価なんてそんなものだった。
この国に住むものにとって救国の聖女と姿形が似ているということは、それだけで救いとなりえる。王とは国を動かす旗印であり、この国の民にとっての聖女は最大のプロバカンダである。この国の城に「王女」として具現したエッジの姿は実際の性別こそ違えども不自然なほどこの国の景色に馴染んでいた。まるで、あるべき場所に帰ってきたように。
誰もいなくなった扉の前の空間に一人で立ち尽くし、食事を続けるイデアールと、側で寄り添うエッジの様子をまだしばらくの間見つめていた。そうしていると、不意にエッジがイデアールから視線を逸らし、俺の方へ顔をこちらへ向けた。仮面のせいで視線も表情もわからなかったが、確かに目が合ったことがわかった。
昨日は会うことが出来なかったことを思い出し、軽く手を振って挨拶する。エッジの口元が微かに弧を描いた。挨拶を返したりは出来ないのだろう、彼の申し訳なさそうな声と言葉が自然に頭に浮かびあがってくる。それからまたエッジはイデアールの方へ向き直ってしまう。
再びイデアールが暴れ出すような様子は無い。これ以上俺がここにいる必要も無いだろう。そう思い、静かにその場を後にした。