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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
記述14 硬く冷たい壁の中で
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記述14 硬く冷たい壁の中で 第6節

 崖と崖の間に架けられた吊り橋の下に流れる用水路の水は、虹色の光沢をまといながら泡立っていた。いつもより近く感じる灰色の空も、街のいたるところから伸びた煙突から排出される黒い煙に染色されて、まだら模様に曇っている。

 アルレスキューレともラムボアードとも、もちろんフロムテラスとも異なる趣きをもった石造りの街並み。炭鉱から漏れるガスと汚水に塗れたそれは、決して「美しい」と形容できるものではなかった。とはいえ未知を求めて旅を続ける自分の心には何かしら響くものがあって、起伏の多い土地の間に設置された鉄製の陸橋も、不格好な電信柱も、トンネルの奥に向かって引かれたトロッコのレールも、目に見えるもの全てが真新しく新鮮なものに感じられた。

 そんな風にペルデンテの首都を見物しながら歩き回ること二時間弱、俺とウルドは街の外縁部にある断崖絶壁地帯までやってきていた。一歩足を踏み外せば崖下まで真っ逆さまに落ちてしまうようなギリギリの足場の上に建つ、古びた石造りの長屋。そのうちの一室がアーツ画伯のアトリエであるらしいと、ウルドが情報をつかんでいたのだ。

 ウルドの案内で崖沿いを歩いていると、岩だらけの景色の奥にトタン屋根の四角い建物が姿を現わす。あれがそうなのかと思って近づいてみると、これがまた人が住んでいるのかいないのか判別が難しいほど古ぼけた佇まいをした建物であった。

 中に人がいるかどうか探るために建物の周りを一周してみても、ふるびた石壁と誰かが書いたペンキのラクガキと、薄い鉄板の扉くらいしか見当たらない。なんとか見つけた小さな窓も半透明のガラスで覆われてしまっているため、中を窺うことはできなかった。

 とはいえこの長屋の前にはシャツやズボンといった洗濯物が吊るされたままになっているし、昨日の晩に家の外で焚火をした後も残っている。いまだ人の気配はまるでしないが、誰かが生活しているのは確かなようである。

 ガスマスクをしたままでいる俺の代わりに、ウルドが建物の中の臭いを嗅ぎ取り、複数ある部屋の内、一番真ん中にある部屋から油絵具の臭いがすることを教えてくれた。そこに画家が住んでいるのだろう。

 長屋に再び近付き、玄関にひっかけられたベルを鳴らす。しかし、反応がない。日中は出掛けていることが多いのだろうか。以前にウルドが探りに来た時も不在だったという。

 念のためにもう一度ベルを鳴らそうと手を伸ばすと、隣の部屋の中からガタンという鈍い音が一つ聞こえてきた。しばらく待ってみると、物音がした部屋の扉がゆっくりと開き、背の高い痩せた男が顔を出した。

「何かご用かい?」

 ボサボサの髪に無精髭を生やした、少し粗雑な印象を受ける人物。けれど声色は穏やかであった。

「ここにアーツという名前の画家の方が住んでいると聞いて、訪ねてきました」

「アーツさんなら半年前に出ていったよ」

 半年前。肩から力が抜けるような、ガッカリとした一言の後に、痩身の男はアーツ画伯について知っていることを教えてくれる。

 なんでも彼はかなりの高齢で、年々不自由になっていく体のせいで近年は絵筆も満足に握れなくなってしまっていたらしい。そんな画伯の悩みを聞いた旅の医者が、自身が在籍するキャラバン隊に同行すれば旅をしながら治療を受けられると提案し、彼をペルデンテの外へ連れて行ってしまった。もともと古い付き合いのあった医者であるらしいから、不安なことは何もなかったという。

 行き先は大陸西部。グラントール公国の跡地があった辺りを、今頃は彷徨っているであろう。

「おいらはアーツさんの弟子のひとりでね、師匠からアトリエの留守を頼まれているんだよ。様態が良くなれば帰ってくると口では言っていたけれど、まぁ、あの様子じゃあ難しいだろうなぁ」

「そうですか……」

「あんたらはどこでアーツさんの名前を聞いたんだい?」

「ラムボアードの美術館です。展示されている絵画の中にアーツ画伯の作品を見つけ、是非ともお会いして話を聞きたいと思い、こうして足を運びました」

「なるほどつまり、アーツさんの“フアン”ってヤツだね? だったら爺さんも歓迎してくれるだろうさ」

 そう言うと男は自分の部屋に一度戻り、奥から鍵束を取って再び出てきた。俺とウルドの横をよたよたした足取りで通りすぎ、アトリエの部屋に続く扉の鍵を開けてくれる。

「中を見ていくと良い」

「えっと……失礼します」

 砂埃がしっとりと降り積もった床に、足を踏み下ろす。静かな部屋だ。硬く、冷たい石材の床に、温かみのある土塗りの壁。絨毯代わりに敷かれた爬虫類の皮。木製の箱椅子。絵の具の瓶がたくさん置かれた、四角いテーブル。

 火気厳禁の室内は昼間でも薄暗く、手元を照らす明かりというと、一つしかない小さな窓から射し込んでくる鈍い太陽の光だけ。天井に照明器具の類は見当たらず、部屋の隅には、おそらく電池で動くタイプだと思われる大振りのランタンが置かれていた。今はそのランタンにも埃が積もっている。

 さらに奥へ踏み込んでいく中で目に入ったのは、壁にかけられたいくつもの絵画。どれも一見すると素朴であるが、光と影のコントラストが繊細で、長く見つめ合うほどに美しく感じられるようになっていく、不思議な作品ばかりであった。額縁というには少々粗末な金属フレームの中に収まってさえいなければ、ここを美術館の展示フロアと錯覚してしまうほど。

 黒く塗りつぶされた空。明るい雪景色。その中に佇む一人の女性。あたたかな冬用ドレスに袖を通し、白いスカートと銀色の髪を風になびかせながら、夜明け前の空を見つめている。

 あるいは牢獄。鉛色の鉄柵。荒々しい石壁。灰色の床。やはりここにも佇む銀色の髪の女性。同一人物だろうか。彼女の青い眼差しには不安の色は少しも見られない。窓の外から入り込む粉雪が二つ、橙色のランプの光の中で静かに揺れている。女性の顔は瞳から下が全くの白紙で、何の表情も浮かんでいなかった。後から部屋に入った弟子の男が、それは途中で描くのを止めてしまった絵なのだと横から耳打ちする。もう一度同じ絵を見る。女は笑っているように見えた。

「ねぇディア。この布がかかっているのも絵だよ」

 振り返ると、部屋の奥に置かれていた一台のイーゼルの前にウルドが立っていた。イーゼルには薄い麻布が一枚覆いかぶさっていて、ウルドはその布端をひょいと指先でつまみ、中を覗き込む。

 確認のために弟子の男の方を一瞥すると、彼は「どうぞ」と小さく呟いた。ウルドが麻布をめくりあげる。

 布の下から出てきたものは、既視感のある構図で描かれた、製作途中の絵画だった。ラムボアードの美術館で見た、あの絵に似ていると、一目見て思った。そしてこの絵にもまた、銀色の髪の女性が主役として描かれている。

 青色の瞳、白い肌。薄い生地のドレス。真っ暗闇に染まった新月の空。どこからか射し込む不思議な光と、薄靄のようにキャンバス一面に広がった黒い影。美女は石造りの塔の窓から、どこかに向かって手を広げている。表情はわからない。美女の顔には青色の瞳以外には何も描きこまれていなかった。

「この絵はね。アーツさんがアトリエを出ていく前日の夜まで、ずっと描いていたものなんだ。結局完成はしなかったけど……まぁ、時間があったところで簡単に仕上がるようなものじゃあなかったろうさ」

 弟子は言う。アーツ画伯は長年に渡って、この絵と同じコンセプトやテーマを持った絵を描き続けていた。美術館にあった『神女の天翔』はそのうちの一つに過ぎなかったらしい。

「昔、アーツさんに直接聞いたことがあるんだ。師匠は大昔に自分でこさえた傑作を越えるために、同じような絵を描き続けているのかって。そしたら爺さん、つまらなそうな顔でおいらの方を見て、笑ったんだ」

 

『同じ絵しか描けねぇし、描ける気もしねぇだけだ。俺はもう、とうの昔に気が狂っちまったんだからな』

 

「キャンバスの裏側を見てごらんよ」

 弟子にそう言われるがままに、描きかけの絵画の裏側へ回り込む。すると、木枠の間にぴっしりと張り付けられた画布の裏側に、薄い鉛筆の文字で何かが書かれているのを見つけた。

 文字を読む。『私はこの事実を語り継がねばならない』と、たったそれだけ。

 彼が何を思い、何を伝えたくてこの文字を書いたのか、弟子には何もわからなかったらしい。

 だが、自分には不思議と意味がわかるような気がした。彼は、アーツ画伯は、若い頃に得体のしれない何かと出会い、誰にも信じてもらえないような体験をしたのだろう。その時の出来事をキャンバスの中に描きとめ、誰かに語り継ぐために同じ絵を何度も描き直している。

 自分でも現実に起こったことかどうか自信を無くしてしまうほど、儚い、夢幻のような神秘との邂逅。夢だと思い込まないように、幻のようにかすんでいく記憶をたよりに、白い布地に筆を這わせる。忘れないように。忘れないように。あるいは、自分自身を信じ続けるために、描き続けた。同じ絵を、何枚も、何枚も。

 その結果として生み出されたものが、『神女の天翔』と題打たれた傑作絵画。その中には間違いなく『龍』と呼ばれるに相応しい姿をした異形の生物が描き込まれていた。

 俺はやはり、彼に会いに行かねばならないのだろう。会って、話を聞かなくてはならない。

 あなたが描いている絵画の中の、あの黒い生物は何だったのか。あるいはあの、美しい銀色の髪の乙女は実在したのか。

 そして自分もまた、逆さ氷柱と呼ばれる大陸の真ん中で、同じような神秘との邂逅を果たしたと、伝えなければならないと、考えた。

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