記述14 硬く冷たい壁の中で 第5節
軍事基地の昇降口を出たところで、一週間に渡って担当を務めてくれていた不愛想な職員と別れの挨拶をした。分厚い皮膚に固められた手の平が自分の薄い手の平から離れるとともに、彼はすぐに踵を返し、何も言わぬまま建物の中へ戻っていった。小脇には先に渡した最終日分の報告書をしっかりと抱えている。
「それじゃあ、出発しましょうか」
声がした方を振り返ると、そこには一台の軍用車。運転席では送迎を任された若い軍服姿の男がハンドルを握りしめてこちらを見ていた。車のドアを開けて後部座席に乗り込むと、まもなくして軍用車は駐車場の脇に伸びる灰色の車道の上を走り始める。
軍事基地の正門を抜け、ほどほどに整備された車道を五分ほど走り続け、辿り着いたのは駅のような外観をした横長の建物。入り口に近いところで車は停まったところで、運転席の彼が「着きましたよ」と声をかけながら振り返る。ペルデンテの首都まで送ってくれるという話だったが、どうやら車での移動はここまでのようだった。
車を降りてから、周囲を軽く見渡す。駅にしては線路の類が全く見当たらないことを不思議に思っていると、心中を察してくれた職員が車の窓から腕を伸ばし「上を見てごらん」と駅の上空を指で差した。
示された先にあったものは、黒々とした岩肌を剥き出しにした断崖絶壁。首を限界まで見上げてやっとその切っ先が雲の隙間に見えるほどの、高い高い岩山の頂上部。そこにペルデンテの首都はあるのだという。
「登るには色々な手段がありますけど、一番手っ取り早いのは、この駅から乗れる索道ですね」
「さくどう?」
「ロープウェイとも言うんですよ。ほら、建物の上部からロープが伸びているのが見えるでしょう?」
そう言われてもう一度岩山の方を見上げる。彼が言う通り、建物の屋根からは大きな鉄の柱が生えていて、その天辺から太いロープが数本、岩山の頂上の方へ向けて真っ直ぐに伸びている。ロープは少し離れた先にある別の鉄塔と繋がっていて、その間を……フックにひっかけられたコンテナや丸太が、ゆったりとした速度で引き上げられていく様を見てしまった。
嫌な予感がした。頂上へ向けて運ばれていく荷物の中に時たま混ざる、鉄の箱。コンテナにしては小さくて、なぜか取り付けられた窓の中は空っぽ。他の荷物より重量がないためか、高原に吹き抜ける強風の勢いに負けて絶えず左右にドタバタと揺れている。
「まさか、アレの中に入るんですか?」
「子供はけっこう喜ぶんだよ」
職員はなんでもないという顔でにこやかに笑う。それから「では、達者で」と急用でも思い出したかのようにエンジンをふかし、車ごと走り去っていってしまった。他の手段は本当に無いのかと問い詰める隙など少しも見せてくれない、見事な逃げっぷりであった。
遠ざかっていく車体の後ろ姿を見送ったあと、どうしたものかとその場で少し考えこむ。もう一度上空に吊るされた鉄の箱の姿を見て、駅の窓口を見て、「うーん」と唸る。正直、初めて利用する乗り物なんだから、乗ってみて楽しく感じないわけがないと自分では思う。しかし同行者の方は危ないって騒ぐだろうな。
でもまぁ、とりあえずどうするか聞いてみるか。
「ウルド! 出てきてもいいよ!」
誰もいない駅の入り口方面を見ながら名前を呼ぶと、建物の屋根の上に身を隠していたウルドがひょっこりと顔を出す。声をかけられたことに反応すると、ウルドはすぐさま屋根を飛び降りて俺の側まで駆け寄ってきた。
走行する車の後ろをこっそりと付いてくるという、一般人にはとても耐え難い献身と労力とをねぎらうために、猫なで声ですり寄ってくる黒い頭の天辺を手の平で軽く撫でてあげた。ウルドにはそれが嬉しかったらしく、ここ一週間の中で一番ご機嫌そうな笑顔を浮かべてくれている。
「やっと外に出られたね!」
「まったく酷い一週間だったよ。でも、労働の対価としてしっかりと貰うものは貰ってきたから、とりあえずコレで……えーっと……そこの、ロープウェイっていう乗り物に乗ってみようか」
ウルドが顔を上げてロープウェイを見る。
「あんなの人を運ぶ道具じゃないよ。僕がディアを背負って崖を登った方がずっと安全に決まってる」
「流石に大変そうで申し訳ないよ……」
……と言いかけたところで、そういえばウルドは、俺が作業室でうんうんうなされながら働いている間、軍事施設とペルデンテの首都を往復して情報収集をしてくれていたことを思い出した。
「えっと、ウルドってもしかして、この崖を登ってたの?」
「こんなの楽勝だよ!」
「そっかぁ……さすが、ウルドは凄いなぁ。ありがとうね」
体中から「もっと褒めて」というオーラを放出するウルドを、感謝の意を込めてひとしきり可愛がった。
ウルドの頭をなでなでしながら、改めて、どうしたものかと眼前の断崖絶壁を見上げる。
鉄塔と鉄塔の間に架け渡された鋼のロープ。その間でゆらゆら揺れる鉄の箱。中はどうなっているのだろう。どれくらい揺れるのだろう。ロープを巻き上げながら進むのだから、さぞかし大きな騒音を鳴らしながら登っていくのだろう。少しばかり恐怖が先導しすぎるところがあるが、初めての体験をするという点においては絶好の機会だと、心がどうしても急いてしまう。
「ディアって相変わらず、危険そうなことならなんでもやりたがるよね」
やや心外なことを言われてしまったが、心当たりがないわけでもないため何も言い返せなかった。けれどウルドは不満を口にしつつも、自分が乗ること自体を嫌がっているわけではないようで、結局話し合いが始まった数分後には「ディアが乗りたいって言うならいいよ」とあっさり折れてくれた。
ウルドが言うところの『生き急いだ好奇心』を胸に、俺は駅の窓口で二人分のチケットを購入する。
輸送業者と思しきガタイの良い男ばかりが行き交う駅の内部を真っ直ぐに突っ切って、駅員が待機する改札を抜けると、すぐに空っぽの鉄の箱の中に乗り込みなさいと誘導される。
箱の中はがらんどうで、座席と見られるうすっぺらいベンチが二つ備え付けられているだけ。シートベルトの類が一切見当たらないことを視認したとともに、駅員は手際よく鉄の箱の扉を閉じてしまった。
箱の上部に取り付けられていた金具に大きなフックがひっかけられる音がして、まもなくして箱そのものが地面から離れる浮遊感が体全体に伝わってくる。ガラガラと太いロープが巻き上げられる音がして、二人が乗り込んだ鉄の箱が駅の外へ向けて移動し始める。
頂上まではおよそ十五分かかると聞いた。時間が経つとともに徐々に高度を上げ、揺れも増していくロープウェイ。乗り心地は想像通りというかそれ以上というか、とても良いものではなかったが、五分もすれば酷い揺れにもガタガタとした騒音にも慣れてしまった。
派手に錆びついたベンチにしっかりと腰をかけ、それでいて気になる外の景色を見るために窓の方へ首を伸ばす。転落防止のためというにはあまりに頼りない金網ごしに覗き込む窓の外の景色は、実に雄大であった。
険しい山脈地帯を遠景に望む、広々とした高原の景色からは、そこに吹く風の匂いとも相まって爽やかで明るい雰囲気を感じられた。草木の数は決して多いとは言えないが、それでも今まで旅をしてきた荒野や砂漠と比べれば十分に緑豊かな土地だと表現できる。
俯瞰の視点から見渡せる光景は、普段のフライギアから見るものともまた違った趣きがある。巡回中の軍用ヘリが索道の脇を通り過ぎる時の強風で鉄の箱が左右に大きく揺れる、その乱暴な浮遊感すらも新鮮だ。乗り込む前に聞いた「子供は喜ぶ」という言葉をふと思い出し、自分はまだまだ悪ガキ根性が抜けていないなと楽し気な自嘲を顔に浮かべる。そうして笑っていると、俺の表情を見たウルドもニコリと目を細めて笑い、一緒に窓の外を眺めてくれた。
ロープが巻き上げられるほどに近付いてくる灰色の曇天。標高が高くなってくるにつれて、金網の間から入り込んでくる風の温度も冷たくなっていく。天気はあいにく良いものではなく、空の雲は分厚く薄暗い。やがて索道の周りにはうっすらとした霧が立ち込めてきて、周囲の湿度がじわりと増した。
そこでまた、一台の軍用ヘリが霧の中を突き破って、鉄の箱のすぐ真横を大きなプロペラ音をたてながら通り過ぎていった。随分と近くまで接近していたため、操縦席に腰掛けた男性の精悍な横顔をしっかりと視認することができた。わずかな怒りを滲ませているようにも見えた、真っ直ぐな、真剣な眼差し。それを見て、戦争が始まっていることを思い出した。
「黒軍のヤツらは、どうしてエッジくんを城なんかに連れていっちゃったんだろう」
箱の中はガタガタと激しい騒音で溢れている。そんな中で、ウルドは口を開く。なんとか聞き取れる程度の小さな声量だったが、不思議と不自由なく聞き取ることができた。
「あのね、ディア。僕は、自分が城下から持ち出してきたフライギアが黒軍に追跡されていたことを……知ってたんだ」
思いもよらない告白だった。俺は窓際に寄せていた体の姿勢を正し、正面の席に座るウルドと顔を合わせる。けれどウルドの金色の瞳はこちらと目を合わせることを拒むように、ふらふらと宙を泳いでいた。
周囲に気まずい空気が漂い始める。どう返事をすべきか考えて、少し間を置いてから、俺もゆっくりと口を開いた。
「君のことだから、何か考えがあってのことだったんじゃないかなって、思うんだけど?」
虚空を見つめていたウルドの視線が、一瞬だけ俺の顔に向けられ、すぐに逸らされる。
「……裏切り、とかじゃないって、思ってくれるの?」
「裏切りだなんて思って欲しかった?」
ふるふると力なく首を横に振り、「そんなことない」と小さく呟く。
「実はね、俺もフライギアが追跡されていることには気付いていたよ」
「えっ……?」
「ウルドが手引きしてるんじゃないかって考えたこともあった。でも、違うだろうなって思って見逃してたんだ。だって君はいつも俺のために一生懸命でいてくれてたし、危険なことには近付かせないように、いつも気を回していた。その気持ちが嘘じゃないって、俺は信じてるから」
「信じる?」
「ちょっと楽観的すぎたかなって反省はしているけどね。まさか、追いかけてきている人たちの目的が、ウルドやマグナじゃなくてエッジくんの方だったなんて、少しも考えが及んでいなかった。生まれの特別性とか色々、城にいる人たちの関心を引くような要素があるとは知ってたんだけどな」
フロムテラスにいた頃の自分の生活は監視の目だらけだった。そのせいで俺は、他人に管理されることにも、追跡されることにも慣れすぎていたんだと思う。それが個人から自由の権利を奪い取る、重大な背信行為であると知りながら、危害を加えてくる気配さえなければ放っておけばいいと考えるようになっていた。嫌だと言って聞いてくれる相手ではないことを、十二分に承知しているからだ。
見苦しい言い訳のことを考えているなと、苦笑いが溢れる。
「選択を間違えてしまったのはウルドだけじゃない。俺もいっしょ」
だから大丈夫だよと、静かに言い聞かせる。怒ってなんかいないし、失望だってしていない。
ウルドはそれでもまだ居心地が悪そうな様子で、ソワソワとベンチの上で体を揺らす。沈黙の間にも、鉄の箱は風に揺られながら岩山の頂上へと引き上げられていく。やがてウルドは彷徨っていた視線を俺の方へ向ける。二つの金色の瞳には、俺に何かを伝えようという真摯な意思がこもっているように見えた。
「エッジくんを連れていくように命令したのは、黒軍隊長だよ」
「黒軍隊長?」
「うん。黒軍隊長ダムダ・トラスト。僕の……黒軍にいた頃の上司だった、嫌味な男。あのフライギアは僕が城下街を出る時にトラストから貰ったものなんだ。だから変な細工がしてあったとしたら、ソイツの仕業」
「どこかで噂を聞いたことがあるな。確か、前回のグラントールとの戦争で大きな功績を納めた『英雄』だったよね」
そう言うと、ウルドは心底イヤそうな顔で首を横に振った。
「ただの腹黒ジジイだよ」
「腹黒ジジイ」
ウルドからそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
「僕はエッジくんが心配だよ。ソウドのヤツはアルレスキュリア城には近付くなって釘を刺してたみたいだけど、そんなの無視しちゃえばいい。トラストはエッジくんを使って、何か、悪いことをするつもりに決まってる。だから……ペルデンテでの用事が片付いたら、アルレスに戻ろうよ、ディア」
今度は真っ直ぐに俺の目を見つめながら、ウルドが訴える。表情は真剣ながら、少しの不安も宿しているように見えた。俺は目を閉じ、考え込む。ガタガタと足元の鉄板が左右に揺れる。風が強くなってきた。頂上が近いのだろう。
自分には、エッジのことを心配に思う一方で、アルレスキューレには戻りたくないという気持ちもあった。こちらには奴隷としてコロッセウムから逃げてきたばかりのマグナがいる。ウルドだって重大な裏切り行為をしてまでして、俺に協力してくれた。今戻って兵士に見つかりでもすれば、ただでは済まされないだろう。
国王が暗殺されて情勢が不安定になったうえに、何を考えたか戦争まで始めてしまったような場所に近付かない方が良いというソウドの言葉ももっともである。
危険であることは十分に理解している。それはウルドだって同じ。マグナも、ライフも同じように意見するだろう。けれど、エッジのことを心配する気持ちだって、みんな同じなのだと感じてはいた。
自分が理性と感情であれば、後者の方で動く人間であることも、よく知っていた。
「わかった。フライギアに戻ったら、もう一度全員で話し合ってみよう」
「ありがとう、ディア!」
喜びの声を上げたウルドが勢いよくベンチから立ち上がり、俺の体に飛びついてきた。その反動で鉄の箱が大きく斜めに傾く。足下がぐらつき、鉄の箱全体がぐわんぐわんと振り子のように揺れ始めた。
「わっ、わっ、わっ、ウルド! 揺れてる、揺れてる!!」
「ディアだいすきーっ!」
頂上に辿り着いたのは、その二分後のこと。大きく左右に揺れ続ける鉄の箱を見て驚いた駅員が大急ぎでロープを巻き上げてくれたが、扉を開けて揺れの原因を確認するとともに大きな溜め息を吐かれてしまった。
「次に同じことをしたら二度と乗せてやらないからな」と厳重注意された後、俺とウルドはちょっと反省した調子でペルデンテの首都へ足を踏み込んでいった。