記述14 硬く冷たい壁の中で 第4節
「最近顔色が悪いよね」
手元のノートに向けていた視線を上げると、すぐ側にウルドの整った顔があった。爪の先まで綺麗に切りそろえられた手の平の中には、蓋を開けたばかりのボトルケースが一つ。差し出されたそれを受け取って、ぐいと中身を口の奥へ流し落した。
ごくり、ごくりと細い喉が鳴る音が、体の内側を通って鼓膜を揺らす。自分では気付かなかったけれど、随分喉が渇いていたみたいだ。ボトルの中に入っていたものは、雨水を飲める程度のギリギリに加工しただけのまずい飲料水。それでも今の環境では身に染みるほどありがたく感じられた。
この小汚い作業室に放り込まれてから、もう四日の時が過ぎた。居心地は相変わらず『最悪』の一言。
換気の行き届いていない室内にはいつも濁った空気が充満しているし、水もないのに常時湿っぽい。部屋の隅にはこんもりと積もった埃くずと一緒に鼠の糞尿が散らばっていて、その上か横かに就寝用の簡易ベッドが置かれている。先人たちが寝溢した汗と垢が染みついたままになっているマットレスからは、鼻を摘まみたくなるほどかぐわしい臭いがこびり付いているた。だからまぁ、寝不足の日も続いているわけだ。
「こんな酷い労働環境の中で仕事漬けにさせられてたら、流石に疲れも溜まるよ」
おどけた調子で言ってみたところで、ウルドは笑い返してくれなかった。
「ここへ来る前からだよ」
ぱっちりと開いた金色の瞳が真っ直ぐに俺の瞳を見つめている。その真ん中にある色鮮やかな丸い瞳孔が、かすかに艶やかな潤いを帯びて、震えていた。避けるようにウルドの眼差しから視線を逸らすと、代わりに黒い染みがいくつも滲んだコンクリートの壁が目に入った。
その通りだよ、としか返事ができない。
「ここへ来てからずっと、そこの解析機に張り付いてるでしょ。あんまりムリしないで、ちゃんと休まなきゃダメだよ」
「ありがとう、心配してくれて」
「……笑ってるから心配なんだよね」
ウルドの手が俺の顔へするりと伸び、手の平で覆うように頬に触れる。ウルドの手の平は温かかった。けれど、それはきっと自分の体温が低下しているから温かく感じるだけなんだってことは、よくわかっていた。ウルドの白い眉間にほのかな皺が寄る。唇の端を軽く触れられ、それで、自分の口角が上がっていると気付いた。本当だ、笑ってる。
「そろそろ見回りが来る時間だから僕は外へ出てくるけど、何かあったらすぐに通信機で教えてね。すぐに駆け付けるから」
「わかった。ウルドの方こそ、気を付けてね」
ベッドの上に広げてあったマントを手に取り、背に羽織る。その後に、ウルドはもう一度こちらを振り返って、近付いて来て、俺のん体をぎゅっと柔らかい力で抱きしめた。八秒間の無言の時間。それから「じゃあね」と一言残してから、天井の通気口の中へ入って行ってしまった。
ウルドがいなくなってすっかり静かになった部屋の中に、まもなくして廊下を歩く誰かの足音が聞こえ始める。作業室の鍵を開ける音がガチャンと大きく鳴って、ぶっきらぼうな顔をした見回りの職員が入室してきた。今日初めて顔を合わせる大柄の彼は挨拶をするより先に、開けた扉のすぐ側の床に四角い箱を放り捨てる。薄暗い部屋の中で目を凝らしてみると、その箱が残り三日分の食事が入ったレーションボックスであることがわかった。
「何かわかることはあったか」
簡素で事務的な質問だ。俺は椅子から立ち上がり、作業机の上に広げたままになっていた報告書を軽くまとめて職員に手渡す。職員は渡された報告書の束をパラパラとめくり、中身が文字でぎっしりと埋まっていることだけ確認すると、満足して部屋を出て行った。
忘れずにしっかりと鍵をかけていく音が静かな作業室の中に、ガチャンともう一度よく響いた。後に残ったのは地べたに放置されたレーションボックス。そのそっけない鈍色のパッケージをみるだけで気分がげんなりとする。
勤務初日に渡された四日分のレーションボックスの中身は、薄いビニール袋に包まれた真四角の固形物。固形物といいつつ、手に取るだけでぐちゃりと崩れる柔らかさで、崩れた内側からは茶色い汁が漏れ出てくる。本当に栄養がこもっているのか甚だ疑問な外見をしているけれど、貴重な食糧だと言われてしまうと無下にはできず……かといって成分表がどこにも添えられていない食品を、アレルギー体質にも拘わらず不用心に食べる勇気は無く。
結局前回支給された分は自分では一切手を付けず、ウルドに食べてもらっていた。今回もその通りになるだろうと思いつつ、俺は地べたに直置きっされたレーションボックスを手に取って、カバンの中にしまい込んだ。
「美味しくないよ」と口では言いつつ残さず食べきってくれていたウルドの姿をふと思い出し、育ちが良いんだよなと、誰もいない部屋の中でほんのり笑ってしまった。
この作業室の中でろくに運動もしないまま一週間を過ごすことになった俺と違って、ウルドは今も軍事基地の外で走り回ってくれている。技術者雇用の契約期間が満了したら、帰り支度をするためのペルデンテ首都滞在許可が一日だけもらえることになっている。だからそれまでに、ウルドにはここに来た一番の目的である、アーツ画伯の居場所を探ってもらっているのだ。
一週間がんばって、一日の猶予期間。故郷でやけくそになりながら仕事に明け暮れていた数年前の自分のことをつい思い出してしまった。実に滑稽で、楽しくもなんともない記憶の欠片だ。
過去を思い出してわずかに冷たくなった意識の端に、小さなアナログ時計の中で回る針の音がチクタク顔を覗かせてきた。盤面を見ると、意外に時間が過ぎている。
レーションボックスをしまったカバンの別のポケットから、自前の携帯食料を取り出して机の上に置く。飲料水が中途半端に入ったボトルケースも隣に置いて、少し早めの晩御飯を食べることにした。
密封包装された袋の端を指で切ると、空気が入ってスティック状の固形食が嵩を増して膨らんだ。フロムテラス製の完全食は水が無くても快適に咀嚼できるよう調節されているが、水があって困るものではない。一口二口とスティックに噛みついた後に、机上に置いたボトルに手を伸ばす。
「あっ」
と声を出すより先に、揺れた指先が硬いものにぶつかり、倒れたボトルが床を転がった。まだ蓋を開けていなかったから中身は無事だったけれど、金属製の物体が生身のコンクリートの上に落ちる ガコンッ という派手な音は心を凹ませるに十分なものであった。自分がしてしまった失敗を反省しながら床に落ちたボトルを拾いあげると、案の定端っこのあたりが歪に凹んでしまっている。
顔色が悪い、どころの話ではない。俺はボトルを取り損ねた自分の利き手の平を見つめ、溜め息を吐いた。手は、体は、小刻みとは言えな振れ幅で、上下左右にふるえていた。
そのまま、できる限り何も考えないようにしながら食事に戻る。食べかけのスティックをもう一度かじり、凹んだボトルの水で喉を潤す。ものの五分としないうちに食事は終わり、俺は空になった携帯食糧の袋を小さく畳んでカバンの中に詰め直した。
食後の薬をしっかりと摂取してから、作業に戻る。
部屋の真ん中にどっしりと鎮座したままになっている、謎の球体。その外装を取り外し、出てきたマザーボードを少しいじって解析機につなげ、抽出したデータを緑色の画面の中へ流し込む。表示された記号あるいは数字の羅列をキャプチャし、変換、解析、変換を繰り返し……メモを取りながら上から下へ読み進めていく。
そうした作業を四日間に渡って続けていた中で判明したのは、この謎の機械装置の正体が、環境調査用のサンプルを集めてその場で解析、結果を別所にある本体へ送信する収集端末であったこと。
空気や水、毒素の含有量はどれほどのものか。地層構造はどのようになっているか。強度はどうだ、地盤はどうだ。土地は痩せているか、肥えているか。地下水はどれほど存在しているか。あるいはそのさらに下、マグマの温度や運動量はどのようなものか。
端末の中に残留していたデータのほとんどは、そういった戦時中のペルデンテ人にとって直接的な価値があるのかどうかわからない地質検査の結果ばかりだった。
どこの勢力が残していったものなのか、それさえわかれば少しは報告文が書きやすくなるんだけどな……などという戯言を頭に浮かべながら、作業は今日も黙々と進行していく。
机上に置かれたアナログ時計の秒針が揺れる、カチカチと音を立てる。作業室の中はやっぱり静かで、自分が動いた時に出る衣ずれの音なんかが、妙に大きなもののように感じられた。
世界にはまるで自分しか存在していないんじゃないか、と、ふとそんな焦燥感が込み上げてきてしまうほどの静寂。その中で一人、ペンを揺らし、文字を書き、溜め息を吐く……ところが、自分の意思とは裏腹に、溜め息の代わりに口から出てきたものは鉄の味がする咳だった。
げほん、ごほん。咽るような咳をいくつか鳴らし散らした後に、口端から漏れる赤い液体。ぽたりぽたりとノートの上に円を描いて広がっていく様を見て「あーぁー」と声をあげた。ポケットから取り出したハンカチで拭いとっても、沁み込んだ赤色の全てまでは拭きとれない。
部屋に漂う空気の悪さのせいで、喉を傷めてしまったのだ。そんな風に労働環境の方へ責任を押し付けていると、なんだか急激に真面目に働くのが厭になってきた。
椅子の背もたれにだらりと背中を預け、ついさっきまで真剣に睨めっこをしていた緑色の画面を、意味もなく、適当に上下にスクロールしていく。
「何をしているんだろうなぁ」なんて、思いながら。
そんな風に脱力していると、ふと、スクロールした画面の下部に、外とは少し違った趣きを持ったデータの塊があることに気付いた。一見してみれば、見たことがない言語で書かれているようにも見える、無秩序な記号の羅列。
気になって範囲をキャプチャしてみると、意外とあっさり読める文章に変換できてしまった。
データの内容は……そう、おそらく、この機械を開発した何者かが書き残し、誰かに宛てた手紙のような文章だった。
新人類開発プロジェクト。
SAMPLE:■-■■■は確かに我々の長年に渡る研究を破綻させたが、同時にその存在自体がプロジェクトの方向性の正しさを証明した。我々の研究は、理想は、悲願は、決して間違いではなかった。故に、今度こそ必ず成功させなければならない。
十三年前に一度は解散したこのプロジェクトが再起を果たせたのは、監視局幹部ジャンク・ローザ・ツークンフトの尽力的な貢献あっての賜物である。外部の圧力により一度は失ってしまった研究資料も、すでにそのほとんどがほぼ完全な状態での復元に成功しているのだ。
あなたならばわかるでしょう。我々フロムテラス人の体は、他の人類種と比べて優秀である一方、脆弱だ。
汚染物質遮断スーツを着用せずにシェルターの外で活動すれば、まもなくして肺は穢れ、肌は焼け焦げ、脳すらも蝕まれる。健常な個体であれ、良くて一年が期限であろう。
アブロードとして、このウィルダム大陸という特殊な領域の中で生きる人類種として、残念ながら常に劣等な立場にある我々は、この衰退世界の大地に生身のまま足を踏み入れる権利すら持ち合わせていない。
故に、生まれながらにミュータント適性を獲得した新人類の開発は、人工隔絶都市フロムテラスに生きる全てのものたちにとっての悲願である。
難題だ。しかし我々の手元には、智慧がある。記録がある。情報がある。エトランジェでは一生かかっても到達しえない科学力と、文明力とがある。
汚染物質遮断スーツに代わる新たな汚染領域介入手段をこの手に収めたあかつきには、我々フロムテラス人は再び大地に足を降ろし、霊長としての尊厳を取り戻すことであろう。
ミュータント適性を獲得したフロムテラス人に弱点は無いのだから。