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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
記述2 薄暗がりな月夜の下で
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記述2 薄暗がりな月夜の下で 第5節

 成人男性一人を抱えあげたまま建物の五階から飛び下りる。普通に考えたら骨を折るとかどうとかいう問題ですらないはずなのに、便宜上「彼女」と心の中で呼ぶことにした黒い影の人物は、なんてことはない、これくらい当たり前、といった涼しい顔でストンッと着地してみせた。

 窓から飛び下りてすぐの場所にあったのは軍用の駐車場で、無骨な外装の乗り物がたくさん並んでいた。彼女は雨上がりでぬかるんだ地面の上を猫のように軽い足取りで走って行く。隠密行動が得意なのか知らないが、かなりの速さで走っているのに足音どころか布擦れの音一つすら鳴らさない。一方で暗闇の向こうからは、ガタイの良い男たちが水溜まりの泥を蹴飛ばしながら走り回る乱暴な音が、いくつもいくつも聞こえてきていた。

「向こうの方だ!」

「さがせっ!」

「足跡は無いのか!?」

 一台の軍用車を挟んだ反対側の道を、複数の兵士が大声をあげながら駆け抜けていく。

 誰かを探している様子だったが、それは十中八九俺たちのことだろう。俺たち……いや、なぜ俺は、この暗殺者のような風貌をした怪しい人物と『一緒に逃げている』みたいな状況に陥っているのだろうか。

 軽々と小脇に抱えられた姿勢のまま、斜め上に視線を向けると、暗闇の奥にじわりと浮かびあがる彼女の顔を見上げることができた。するとその視線に気付いたか気付いてないか知らないが、不意に彼女の方から俺に話しかけてきた。顔は正面を向いたままだ。

「どうしてここにいるの?」

 戸惑う。それは返答に困る問いかけだった。どうしてもこうしてもなく、俺にだってどうしてこんなことになっているのかさっぱり見当がついていない。

「……街中で人に襲われたんだ。その時に助けてくれた人たちが、俺のことを見た途端に目の色を変えて……それで、この砦まで連れて来られた」

「あんな薄汚い豚小屋に、君をたたき込んだって?」

「豚小屋?」

 いや、確かに良い部屋ではなかったけれど最低限必要なものは揃っていたし、広さも十分だったし、立場のわりには悪い待遇ではなかったと思うけれど。

「君はこんな場所にいちゃいけない。そうでしょ?」

「君の言う通り、だと思うけど……どうして君がそんなことを気にするんだい?」

「僕は……」

 意地悪なことを聞いてしまったかもしれない。言葉に詰まった彼女はその場に立ち止まり、額に手を当てながら夜空を仰いだ。答えに迷い、考え込んでいるように見える。

 そんな彼女が、やがて意を決したようにこちらを振り向きながら、口を開いた。

「君のことが好きだ!」

「んえっ!?」

 予想外の言葉に面を食らった。思わず喉の奥から変な声を出してしまった。

 それってつまり……えっと……なに、そのまんまの意味なのか?

「俺のことが、好き?」

 うまく言葉の真意を理解できず、確認のためのオウム返しをすることしか出来ない。驚きで目を丸くする俺に向けて彼女はさらに何か大変なことを告白すべく、息を吸う。

 そのすぐ後、彼女が再び何かを言い出すより先に、頭上で何かが大きな音をたてながら爆ぜ散らばった。

 軍事用の照明弾。それもかなり強力なものだった。

 途端に黒々としていた夜空が真昼のように明るくなる。目映い光の中に闇が溶けてなくなり、世界から淡い月の輝きが消し飛んだ。夜闇の中にいたはずの二人の姿が、暗幕を切り裂くように照らしあげられた。

 俺が見上げた視線の先に、彼女の顔があった。

 

 美しい。

 真っ先にそう思った。

 

 この世の全ての「美」の概念を凝縮したような、完全無欠な美女が目の前にいたのだ。

 艶やかな常闇色の黒髪。鳥の羽根のように柔らかく瞳の上に広がる長い睫。少しツリ上がった力強い目元、涼しい眼差し。その中に埋め込まれた、見るもの全ての心を奪い、吸い込んでしまいそうなほど魅惑的な黄金色の双眼。満月よりもなお丸く、大きく、はっきりと見開かれた瞳の奥には……俺の姿が映っている。

 どこからどう見ても文句の一つも付けることができない完全無欠の美貌。その彼女の端正すぎる顔だちが、キッと瞳孔を広げて暴力的に歪んだ。

「見つけたぞ! 捕まえろ!!」

 警備兵が一斉に駆け寄る声と足音。集団で水たまりの上をバシャバシャと走り、こちらへ近付いてくる。

 彼女は俺の体を小脇に抱えたまま光の中を駆け出す。

 今や障害物と化した軍用車の向こうから、武装した兵士が一人二人と銃構えながら飛び出してくる。その引き金が引かれるより先に、彼女は俺の体を小脇に抱えた状態のまま兵士の懐に飛び込み、二人まとめて胴体に回し蹴りをぶち込んだ。俺よりも遥かに大きな図体をした二人の男があっけなく宙を舞い、遠く離れた地面の上に酷い音を立てながら体を打ち付けて転がった。

 さらに間髪をいれず、騒ぎを聞きつけた別の兵士たちが多方向から群がるように姿を現わす。数が多い。しかし彼女には怯む様子など一切なく、素早い手付きで黒いマントの中から数本のナイフを取り出すと、新しい獲物めがけて真っ直ぐに投擲した。飛ばされたナイフの刃先は、迫り来ていた兵士たちの、首……に、刺さった。

 人間の首から大量の赤い血が噴き出した。絶命。叫び声を上げるより先にできあがった死体は、足をもつれさせながら地面に崩れ落ちた。

 たったの一瞬と一撃で急所を切断された体はぬかるんだ地面の上へうつ伏せに沈み込み、流れる血液が首元の泥と混ざって不気味な色の水溜まりを作っていった。その「死体」の数が三つ、四つ、五つと、俺の目の前でどんどん増えていく。

 何が起きているんだ。どうして人が死んでいるんだ。

 一体、なんで、何のために?

「黒軍のバケモノめ!!」

 思わず塞ぎたくなった耳の奥に誰かの声が飛び込んでくる。

「なぜこの場所がバレたんだ!?」

「あのキンイロの仕業に決まってる!」

 

「同じ目の色だ!!」

 

 周囲で声にならない声をあげながら死んでいく男たち、その仲間が発した罵声が、豪雨のように落雷のように俺の頭の中にうるさく降り注ぐ。

 俺のせい? そんなの悪い冗談だよな?

 

「殺せ!!」

 一際大きな怒声が耳をつんざき、振り向くと、あの取調室で向かい合っていた軍服の男が立っていた。隠す必要が無くなった敵意を剥き出しにしながら、鬼のような形相で俺の顔を睨み、喉が切れるくらい大きな声で部下たちに指示を送る。

 殺せ!! 殺せ!! ここで討ち殺せ!!!

 その絶叫めいた罵声の嵐に脅威を感じた。怖くて涙が出そうなくらい、それは確かな現実味を帯びた恐怖だった。しかしそれ以上に、彼らの声を耳にした黒髪の美女の相貌が、ギラギラと燃え盛る火炎の如き怒りの形相へ変わっていく様をすぐ近くで見上げていたことの方が、俺にとってはよっぽど恐ろしく感じられた。

 彼女の綺麗な金色の瞳の奥に「殺意」が瞬くのを目の当たりにしたのだ。

 背筋が凍り付く。こんなにもわかりやすい嫌悪の感情がこの世に存在していたとは。

 走るのを止めて身を翻し、軍服の男の方へ向かって何かをしようと手を掲げる。その姿と態度があまりに見ていられなかった。

「やめて!!」

「っ!?」

「あんなヤツは気にしなくていいから! 俺をここから逃がしてよ!!」

 もうこれ以上事態を悪化させたくないという思いと、巻き込まれたくないという思いと、彼女にあの男を殺してほしくないという思いが交錯した言葉が、悲鳴のような声色を奏でながら喉から吐き出された。

 彼女の動きがピタリと止まり、それとともに照明灯の最後の一つが空に飛び散り、消え失せ、世界に再び夜が戻ってきた。

 突然暗闇の奥から飛び込んできた銃弾が、俺たちの背後にあった装甲車のボディに複数の穴を開けた。それを合図に彼女は再び走り出した。銃弾が飛んできた方向とは正反対の場所にある、敷地の外へ向けて。

「構わんっ! 撃て!!撃て!! あの黒い悪魔を逃がすな!!」

 兵士たちは構えた銃の引き金を一斉に引き、銃弾の雨が俺たちの背中に襲いかかる。しかし当たらない。当たるわけがないとでも言うくらい簡単に避けてしまう。次々に撃ち出される鉛玉のことごとくが空を切り、軍用車の装甲に傷を付け、味方の体に穴を空けた。

 黒い影は俺の体を流れ弾から守るように両腕で抱え持ち、大きくジャンプする。背の高い塀の上に着地すると、そこより先には昼間見た廃墟然としたアルレスキューレの街並みが広がっていた。敷地外との境界線。背後からは俺たちのことを追い回す足音と騒ぎ声。彼女は後ろの騒ぎを振り返らず、楽しそうな声色で俺に話しかける。

「出口だよ! さぁ、ここを抜けたらこっちのもの。君は今からまた自由になるんだ!」

 彼女はどうして俺に笑いかけてくれるのだろう。どうしてこんなに嬉しそうにしているのだろう。出会ったばかりのはずの俺には、理由も原因も、彼女の心中もさっぱりわからないままだ。胸の中で、どうにも居た堪れない感情がザワザワと騒ぎ立てている。

 君のことが好きだから……なんて、ハッキリと伝えてくれたあの告白は、タチの悪い冗談などではない、純粋無垢な本心だったのだろうか。

 じゃあこの子は本気で俺のことが好きで……好きな人のために人が殺せる人なのか。

 すっかりと混乱しきった頭では、楽しそうに笑う彼女にどんな言葉をかけるのが正解なのか、皆目見当がつかなかった。だから何も言わず黙っておくことにした。それが卑怯な選択であることならば理解していた。けれど、どうしても、彼女に否定の言葉を浴びせることだけはしたくなかった。

 彼女は砦の塀をぴょんと飛び下りて、そのまますぐ近くにあった路地裏に駆け込んだ。そのまま狭い通路を驚くべきスピードで走り抜けていく。軽快に蹴っ飛ばされたゴミ箱がガラガラと転がりながら静かな夜の街中に騒音を打ち鳴らす。

 振り返れば遠くの方にこちらを追いかける兵士たちの姿が見えたが、既に小粒ほどに小さくて、それも曲がり角を過ぎた所でいよいよ見えなくなる。

 あのうるさかった怒声すら一つも聞こえなくなるくらい遠くまで駆け抜けた頃、彼女はやっと路地裏の一角で立ち止まった。そして俺の体を手放すように地面に立たせる。

「好きな方向に逃げて。今なら君一人でどこへでも行けるはずだから」

「でも……」

 わずかな月明かりの下、向かい合った彼女の表情が嘘偽りない笑顔で彩られていた。靴を履いていない足の裏がひんやりとした冷たい泥を踏みしめる。並んで立ってみると、やっぱり背の高さは同じくらいだった。

「君は、どうするんだい?」

 なぜ、不安より心配の言葉が先に出たのだろう。その理由もわからなかった。

「もちろん、アイツらが君を追いかけてこないように精一杯の邪魔をしてやるんだよ!」

 彼女は屈託のない笑顔を俺に向けながらそう答えた。

「……あんまり、死なせちゃダメだよ?」

「どうして?」

「俺のためにも」

 少し震えた声でそう伝えると、彼女は納得したように、そして嬉しそうに首を縦に振って「うん!」と可愛らしい仕草で頷いた。

「ねぇ、また会える?」

「……会える。すぐに会えるよ、きっと。俺も君のことを探すから。その時には……」

「わかった。僕も後から君のことを探しに行くね」

 満面の笑みで、心底嬉しそうに笑う彼女の顔はこれ以上ないくらい幸せそうだった。


「ありがとう、ディア! だーいすき!」


 最後にそうやって感謝の言葉を伝えると、彼女はくるりと身を翻して夜の路地裏を引き返すように走って行った。黒いマントを翻した後ろ姿が夜闇に溶けるように消えていく様を見送りながら、俺はぽつりと何かを思い出したように呟いた。

 

 俺の名前、いつ教えたんだっけ?

 


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