記述13 手繰りよせた糸の先 第3節
荷物を売り払って身軽になった両手をぶら下げながら歩く、帰り道。テントを後にする時の「待たせてすまなかったな」という一言以来、エッジはずっと、何も言わずに黙り込んでいた。
話すことなく手持ち無沙汰になった意識を空へと向けてみると、太陽はちょうど真昼を示すように空の真ん中に浮かんでいた。午前中と比べて一段と強くなった白い陽射しが、肌の表面をチリチリと焼いていく。
やけに静かなような気がした。寄り道をせずに通り過ぎようとしている市場の中は、今もまさににぎやかな滞在者たちの声で溢れているはずなのに、隣を少し遅れて歩くエッジだけが黙っている。それだけで、周囲の雑踏のことなんて少しも耳に入らなくなってしまっている。
この静寂と沈黙の正体が『疑念』であることは、俺にもわかっていた。あの老婆の昔話を聞いてから、エッジは何かを真剣に考えこんでいるのだ。今自分の胸の内に発生した疑念が、本当のものであるかどうか、慎重に検証している。その思考の邪魔をしたくなくて、俺の方も黙って彼の横を並び歩くことにしていた。
そうして二人は、結局何も会話しないままにぎやかな市場を通り過ぎ、少し開けた人通りの少ない岩場に出る。ごつごつとした道の真横には粗末な鉄柵一枚ごしの断崖絶壁が広がっており、隣の岩山の頂上とその先の景色が遠くの方までよく見渡せた。
相も変わらずつまらない無色の空とそっけない岩の塊ばかりが連なる、大陸西部の山脈地帯。隔たりが少ない山の隙間に吹く風の勢いは強く、羽織った外套の裾がバタバタと激しく音をたてて何度も翻る。
初めて見た景色ではないような気がした。だからといって、過去にペルデンテへ来たことがあるかどうかは、少しも思い出せなかった。はがゆいような、不思議に思うような複雑な感情が芽生えはしたけれど、なぜだか不安な気分にはならなかった。
不安な感情の代わりに思い出したのは、ラムボアードでエッジから聞いた言葉。「良い眺めだな」という、ただそれだけのささやかな一言。それだけを、できそこないの脳味噌が綺麗に切り取り、額縁にでも入れているかのように大切に保存していた。
「ソウドは、レトロ・シルヴァを知っているのか?」
沈黙と感傷は、不意にこちらへなげかけられた一つの質問によって打ち破られた。
急に口を開いたエッジの方を振り返ると、彼は正面の何もない岩場へ顔を向けたまま、静かに目を伏せていた。
俺は眉をしかめ、少し返事に迷ってから、首を横に振った。
「どうして覚えていると思ったんだ?」
「見ていたからだ」
「見ていた?」
「あのご老人の口からレトロ・シルヴァの名前が出た時に、ソウドは驚いているような反応をしていた。自分では気付かなかったのか?」
「……言われてみれば、何か……」
どうだろうかと思い、頼りにならない記憶をたどる。すると確かに、彼の名前を初めて聞いた時、何か奇妙な感覚をおぼえたような気がしてくる。だが、その時のことをうまく思い出せない。なぜだろう。さらに深く記憶を遡ろうとすると、老婆が話した言葉の数々すら、ほとんど忘れてしまっていることに気付いた。ついさっき聞いたばかりにもかかわらずだ。
「彼女がその名前を言った時、俺は少しだけ後ろにいるソウドの方を振り返ったんだ。そのことにすら気付いていなかったとしたら、相当だろう」
「全然気付かなかったな」
「ふふっ。お前、素直なやつだな」
重たく沈んでいたエッジの顔にほのかな笑みの色が浮かぶ。けれどその温かな感情はすぐに冷えてどこかへ消え失せ、エッジは瞬く間に真剣な表情を取り戻して、言葉を続けた。
「あのご老人の話にでてきたレトロ・シルヴァという人物は、俺の実の父親だ」
困ったことに、嘘を吐いているようには見えなかった。
「一応言っておくけど……人違いなんじゃないのか?」
「母さんがまだ生きていた頃、俺は何度も何度も繰り返し、愛する夫の自慢話を聞かされていた」
「それでも、やっぱりおかしいだろ」
「五十七年前だ」
「……」
エッジは自分自身の発言のおかしさを深く理解している。そのうえで、矛盾なんて一つもないと、真剣な眼差しで話を続けた。
「王族大虐殺事件。誰もが知っているこの凄惨な悲劇が起きたのが、今から五十七年前のこと。そして先のご老人が言っていた、レトロ・シルヴァの城入りが六十八年前。俺の母エルベラーゼが最愛の恋人と出会ったのもまたこの年だった。夫のことを何よりも愛していた母は、彼が訳あって家を出て行き、行方不明になった後も、ずっと、ずっと、繰り返し、愛するレトロの話を俺に語り聞かせてくれていた。二人出会ってから四年後の冬に駆け落ちしたこと。追っ手から逃れるために誰もいない山奥の集落に身を隠したこと。各地を転々として日々を生きていく中で、俺という愛の結晶が腹の内に芽生えたということ……」
頭上で照り輝く真昼の太陽が、エッジの顔に濃い影を生み出す。話している間も帰路につく二人の足は前へ進み続け、周囲の景色もゆったりと後方へ流れていく。
俺は少しうつむいたエッジの顔をもう一度覗き込む。しかし、エッジは俺の方は俺から目を逸らし、何もない灰色の空へ視線を飛ばしてしまった。瞬きはせずに、琥珀色の瞳を天にかざし、ゆったりと目を閉じる。長い睫毛に陽射しが直に当たって、キラキラと銀色に光っていた。
「生まれてから……六十三年か…………何度数え直してみても、途方もない数字のように思える。俺は確かに六十三の時を生き、過去を持ち、色々なことを経験してきた。それでもなお……どういうわけか……変わらぬ姿形のまま生き続けている。どんな過酷な環境にあっても病気にはならず、どんな酷い負傷をしてもすぐに治り、どれだけ時が経っても老いることなく、若い青年の姿のまま、今も生きている。実に、ばかばかしい話だろう」
どうか笑い飛ばしてくれと、エッジはまるで縋るような口振りで己のことを嘲った。
「どうしてそんな大事なことを、俺に話してくれるんだ?」
「アシミナークの湖でお前が記憶喪失になった時、ソウドは、どういうわけか俺のことだけは忘れずに覚えていてくれただろう? だが……それはきっと、俺に特別な理由があってそうなったわけではないと、思っているんだ」
エッジは言う。何かあったとしたら、それはきっと自分の父親であるレトロ・シルヴァに起因するものだ、と。なぜなら彼は何事においても特別で、不思議で仕方ない存在であったから。
「俺の母親であるエルベラーゼは、夫であるレトロのことを話すときに、彼のことを頻繁に『魔法使い』や『神様』のようだったと表現していた。彼にはなんでも願いを叶えられる不思議な力があって、この世の中にできないことなんて何もないというくらい完璧で、万能で、完全無欠の天才だったと」
雨が止めばいいのにな。病気が治ればいいのにな。幸福な暮らしができたらいいのにな。
些細なおまじないのような祈りから、壮大で漠然とした願いまで。彼には自他の願望を実現させる奇跡の力がある。間違いなくそれは存在している。レトロ・シルヴァは特別で、不思議で、神秘的で仕方ない、私の愛しい恋人。
まだ行方知れずになる前だった父の姿は、エッジの目から見ればただの家族愛に溢れた優しい父親でしかなかった。けれど、母はそうではないと言っていた。他の人だって決まってそう言うのだ。特別であると。
「俺がいつまで経っても年をとらないのも、やけに体が丈夫なのも、そんな父親の力をほんの少しだけ受け継いでいるからだと思っているんだ。願いを叶える、などというスケールの大きなことはわからないが、少なからず、自分が『人間ではない』ことくらいなら、把握できているつもりなんだ」
随分なことを言われたものだと思い、口をつぐむ。そんな俺の様子を見て、エッジは自嘲的にはにかんだ笑顔を浮かべ、もう一言だけたずねかける。
「なぁ、信じてくれるか?」
「信じるも信じないもないだろう」
こちらを見つめるエッジの表情が、静止した。
「エッジがこんなに面白い冗談を言えるヤツだとは思ってない」
続けざまに言う。俺にとって嘘偽りのない、正直な感想を聞かせるだけだ。
「人間じゃないかもしれないなんて、作り話にしたって自虐が過ぎる。それに、両親の話をしている時のオマエ、尊敬していると口で言う割に楽しそうじゃなかったぞ。愉快な嘘を吐いてる最中のものとはとても思えなかったな」
「だが……自分で言うのも何だが、何の証拠もない、夢物語のような話ばかりだっただろう?」
「真偽なんて、正直俺にはどうだっていい。本当に、どうでもいいと思ってる。けどな、信じてやることに意味があるんだったら、信じてやる。信じないことでエッジが傷付くようなことがあるんだったら、そんなことはしたくない。それ以上のことはないぞ」
言ってみてから、なんだかやけにキザっぽいことを口走ってしまったことに気付いた。一拍遅れて恐る恐るエッジの方を見てみると、案の定彼は反応に困っているような、ぎこちない表情をしてしまっていた。
「……ありがとう、ソウド」
エッジはバツが悪そうに呟くと、逃げるように崖の向こうに広がる山脈地帯の方へ視線をそらした。