記述13 手繰りよせた糸の先 第2節
流通量が多く詐欺の心配もさほどする必要がない繊維製品の買い手を探すことは、宝石を適正価格で買い取ってくれる善良な商人を探すことに比べて、随分と簡単だ。実際に俺とエッジは、砦前のテント村にできた仮設市場に二人で入り込んでから、数分間ぶらりと歩き回っただけで、すぐに持ち込み買取の受付看板を二、三個ほど見つけられた。
そのうちの一つを選んで、古びた革張りテントの中へ入っていく。扉代わりの重たい天幕を一枚めくってみたら、すぐに中で客を待っていた商人の男が地べたから立ち上がり、こちらへ声をかけてきた。
当然のことながら、エッジは手続きや交渉というものにとても慣れている。荷物持ちにすぎない立場の俺が、テントの入り口付近に控えて立っている間に、商談は実にテンポよく進んでいった。
商人が机の上に品物を置くようにと指示し、その通りに両手いっぱいに抱えていた織物と手芸品の山を手放す。まもなくして、エッジの作品たちの買値を決めるための査定が始まった。
しかし、査定が始まってからすぐに困ったことが判明する。ここへ来る途中でも「手持ちが軽くなれば十分」と口にしていたエッジは、あまり自分の自信作に付けられた額に関して頓着していないようだったのだ。
素人目ではあるものの、俺からしてみればどれも見事な作品ばかりのように見える。相場そのものの値段で、悪く言えば買いたたかれるようなかたちで手放すのは良いことではないように思えた。
本当にこんな値段で売ってもいいのか? と、心配に思いながら大人しく見物していると、それまで何の気配もしていなかったテントの奥から、不意に一人の腰が曲がった老婆が姿を現わした。置物のように静かな佇まいをしたこの老婆は、商人がエッジと商談を進めている様子を無言で見つめていた。それがしばらくして不意に動きだし、二人の商談の間に割り込んでいった。
何か言おうとした商人の口を黙らせ、老婆はしばしの間、机上に広げられた織物の質を、細い目を何度もしばたかせながら吟味していた。胸ポケットにしまってあった分厚いレンズの眼鏡を目にかけて、布の織り目を懸命に凝視する。しわがれた指先で表面を何度も撫で、裏生地までしっかりと確認する。
先に査定していた商人はそんな老婆の様子を珍しげな眼差しで見守っていた。一方でエッジの方は、先程よりもずっと不安そうな表情をしている。その不安の理由が、俺にはわからなかった。
「金を積むから、あるだけ全部置いていきなさい」
老婆の突然の提案を耳にして、驚いたのは先に値踏みをしていた商人の方だった。彼は困った様子で口出しをしようとしたが、老婆の細い瞼の奥に見えた瞳がぎらりと光るのを見て、すぐに怯んでしまった。
「アンタもこの生業を続けたいっていうなら、よく見ておきなさい。アタシだって長いことやらせてもらってるけどね、それでもね、こんなに立派なモンは何十年ぶりかってところなんだ。それこそ、あの神童を彷彿とさせるほどのもんさ」
「神童……?」
聞き覚えのない言葉をぼやかれ、ますます困惑の調子を深めた商人が首をひねる。
「知らないのかい? いや、その若さならムリもないねぇ。アレが名を馳せていたのは、今からもうウン十年も昔のことなのさ」
老婆はそのまま、やや興奮した様子すら見せながら、『幻の神童』と呼ばれた一人の天才機織士の話を始める。昔を懐かしむように、あるいは嘆かわしく愚痴を言うように。
「女癖の悪い色男だって言われていたよ。それとも美少年と言った方が正しいのかね。ともかく綺麗な顔をした男の子。今では機織士として名を残しているけれど、なんでも出来たって噂だった。なんでも、なんでもね。物知りで器用で楽器も弾けて、細っこいくせに腕っ節もよくて、喧嘩には負けたことがないって話だった。怖いもの知らずで随分と不遜な性格をしていたけれど、どういうわけか男にも女にも好かれて、どこへ行ったって評判がよかった。だからこそ、上京してすぐに王様に見初められたりしたんだろうね」
老婆は話す。当時の国王陛下の名はルークス・アルレスキュリア。それは王族にも関わらず見事な濡羽色の黒髪を持つ、気難しい麗人であった。姉にあたる先代女王の崩御を契機に王位に就いてから、数々の国難を知性と手腕によって乗り越え、荒廃したウィルダム大陸の上に一時でも太平の世を築き上げた、アルレスキューレ最後の名君。
文化発展に尽力していたルークス国王は、城下内外で話題にあがった優秀な人間を、定期的に自らの玉座の間に招待し、歓談をする習慣があった。そんな彼の元に件の神童の噂が届かないわけもなく、上京してまもなく、この若き天才は国王陛下への謁見を果たした。
神童は一度の謁見のうちに国王との親睦を深めることに成功し、王城への自由な立ち入りを許可されるまでにもなった。それはこの天才がまだ年若く無害な少年であると見られたからこその、特別な待遇であると見られた。これが大きな過ちとなった。
「ルークス様の一人娘、ガラス細工のように透き通った髪と肌、群青の瞳を持つ可憐なお姫様。名前はなんだったかな。とにかくその娘と、恋に落ちてしまったのさ。それで、駆け落ちまでしてしまった」
駆け落ち。だけど、そこまでの話で終わってくれれば良かったのだと、老婆は笑う。
「それから六つ……七つの年が過ぎ、もう誰もが王女様は城には帰ってこないだろうと呆れかえっていた頃、行方知れずとなっていた二人のうち一人、男の方が、城前に姿を現わした。その後のことだよ……今では誰もがあの悪夢を知っているだろう。そう、アレさ。王族大虐殺。名君だったはずのルークス国王の首が刎ねられ、大臣の体が二つに裂け、守ろうとした兵士のことごとくも臓物を弾けさせて死んじまった。あの悪夢。世界の終わりみたいな、いやぁな事件。その犯人こそが、稀代の天才機織士その人だったって話だよ。名前は確か……レトロ・シルヴァと言ったかねぇ」
レトロ・シルヴァ。
その名前を耳にした途端、意識がフッと遠のくような感覚がした。
「機織りの腕は確か。自分に正直で、情熱的で真っ直ぐで、好い子だったはずなんだ。それなのに、最後には他人の血をたらふく流した罪を問われて処刑されちまった。実を言うと、アタシはね、あの子に会ったことがあるんだ。ほんの少しの間だけ、この小さな天才がつまらない田舎村から外へ出るのを荷車の後ろに乗せて、手伝ってやった。あぁ……遠い、遠い、昔のことさね」
昔日の記憶に想いを馳せながら、老婆は手元の織物の表面を何度も何度もしわがれた手の平で撫でていた。
けれどもその細めた瞼の間に見える、小さな黒い瞳の中には、真っ直ぐに、目の前に座っているエッジ・シルヴァの姿を映し出していた。