記述11 望むがままに巡れ、世界 RESULT
自分は一体どれだけの間、あの冷たい湖の浅瀬に体を浸していたのだろう。意識の覚醒とともに、まず最初に思考の真ん中に浮かび上がってきたものは、途方もないほどの空虚感だった。両目は確かに開いているはずなのに、視界の全てが塗り潰されたように真っ白に染まっていたことを覚えている。
黒く濁った雲の向こう側で閃く遠雷の音が、耳鳴りみたいに頭の中を反響していた。そして自分の孤独に気付く。仰向けのまま静止した顔に降り注ぐ雨水が、ひどく冷たく感じられた。濡れた衣服が肌に張りつく感触が、現実よりもずっと重たく感じられた。
手足は動いた。心臓は動いた。頭は回る。口は開く。呼吸ができる。雨の温度も、自分の体温も感じられた。言葉がわかる。思考ができる。
だがそれが何の足しになるというのか。きっと「途方に暮れる」とは、このような状態のことを指す。
俺には自分が何者なのかがわからなかった。そしてこれから何をすればいいのか、何をしたいのかもわからなかった。
本当に、何もわからない。何もできない。拒絶も否定も絶望もなく、ただただ静かな虚脱の中に四肢を投げうって座り込んでいた。
自分にかけられた言葉だって理解できていなかった。迎えに来たと言われても、その言葉にどれだけの意味と価値があるのか少しもわからなかった。教えられた『自分の名前』すら、受け取った手の平の上から、指の隙間から、流れ落ちていくだけのように思えた。
だからこそ、あの者の輝きは異常であった。
エッジ・シルヴァという存在が、ただ目の前に現れた、それだけで、真っ白だった視界に色と形とを持った全てが浮かび上がり、一つの新しい世界すら創造されたような錯覚すらした。
けれどそれからのことは、まるで覚えていない。なぜだろう。何も覚えていない。
ただ、途方もないほど巨大な感情の波がどこか見知らぬところから押し寄せてきて、自分の意識を呑み込んでいく感覚はあった。自分ではない何者かに心と体の制御を奪われ、覚えのない悲哀の濁流が瞼の下から溢れ出てきて、気を失うように同じ言葉を繰り返していた。
その言葉の意味など少しもわかっていなかった。それなのに、赦されたことが途方もなく……苦しかった。
苦しい……そうだ、自分はずっと苦しかったのだ。哀しかったのだ。辛かったのだ。
そしてその苦しみに、心地よさを感じてしまうほど、罪深い存在だったことを思い出した。
思い出して、思い出して、思い出して……また簡単に手放して、しばらく。気付けば俺は、あのディアやウルドといった者たちとともに、フライギアと呼ばれる場所に帰っていた。
「ソウド。中へ入っても良いか?」
自室と言われた船室のベッドで横になっていると、不意に廊下に続く扉の方からエッジ・シルヴァの声が聞こえてきた。俺は「入っていいぞ」と一声返事をしてから、ドアに設定されていたロックを外し、エッジを室内に招き入れた。
「調子はどうだ?」
「悪くない。オマエが色々と世話をかけてくれたおかげかもな」
そう言うとエッジは少し照れくさそうにはにかんでから、部屋の中へ踏み込んできた。
「ディアたちはついさっきここを出立して、湖の方へ向かったよ。だから今は船内には、俺とソウドの二人しか残っていない」
「確か、祭に行くとかなんとか言っていたな」
「あれだけ歓迎された後では、無下に断るのも悪いだろうと」
「オマエは……エッジは、いかなくても良かったのか?」
「俺はいいんだ。今は、ソウドの傍にいたいからな」
フフッと嬉しそうな笑顔を向けられ、なんだかこそばゆい気持ちになる。
部屋の中に入って来たエッジは、俺が横になっているベッドの横を通り過ぎ、机の方へ向かっていく。何をするのつもりかと思いながら見守っていたら、机に備え付けられていた引き出しをおもむろに開けて、中から何かを取り出した。
それは敗れた紙切れが何枚も間に挟まった、古びた日記帳だった。
「以前に、記憶を失くしてしまう前のソウドから、もしも何かあったらこの日記帳を見せてほしいと頼まれていたんだ」
エッジに日記帳を手渡され、中を開いてみる。しかし中には白紙のページがいくつもいくつも続くばかりで、まるで自分の記憶と連動するように、何も記録されていない。
……と、思ったら、日記帳の最後の方のページまでめくったところで、浮かび上がるように唐突に文字が書かれたページが現れ始めた。
「ソウドと出会った時の日記だ。読んでみると良い」
ページの上部に描かれた日付を見たエッジが言う。エッジに期待のこもった眼差しで見つめられ、俺は促されるまま、日記帳に描かれた記述に目をおろした。
珍獣ビートロマジロの出現。崩壊するラムボアードの街並み。自警団による空襲、戦車の出撃、敗走。親子の再会、出会いと別れ。タマス式ロボトニクス・KABA-next-MarkⅠ&Ⅱ。爆砕。
「なんだこれ」
あまりの胡乱なワードの羅列を目にして急激に不安になり、エッジの顔を見る。エッジは「そんなこともあったなぁ」という程度のほんわかとした表情で微笑んでいるだけで、内容に関して全く疑問をもっていないようだった。つまり、本当にあったことなのか。本当に?
日記帳の信憑性とかつての自分の精神状態に対する一抹の不安を感じたまま、さらにページをめくっていく。
そこでふと、エッジが俺の頭部……特に髪の毛のあたりをジッと見つめていることに気付いた。
「どうしたんだ?」
思わずたずねてみたら、エッジは虚を突かれたような反応を見せた後に、少しだけバツの悪そうな調子で謝り始めた。
「不躾に眺めてしまってすまない。随分長く伸びたものだなと思って……」
言いながら、エッジは再び俺の長く伸びた青色の髪に視線を送る。何か気になることでもあるのだろうか。試しに自分の髪を手で梳くようにして触ってみるが、何の変哲もない髪の毛のようにしか見えなかった。思うことといえば、これだけ長ければ動くときに邪魔だろうなという感想くらいだ。
「切るか」
「えっ!?」
「なんでオマエが驚くんだ」
「いや……もったいないなと思ってしまって。とても、綺麗な髪だから……」
俺からしてみればエッジの水晶みたいに透き通った氷蒼色の髪の方がよほど綺麗だと思うけれど、本人の目から見たらそうでもないのだろうか。
とはいえ褒められたことに関しては悪い気がしない。ならばどうしようかと考えていたら、エッジが「結ぶのはどうだ?」と提案してくれた。試しに両手で長い髪をかき集め、一本の束にまとめてみた。その一連の動作が、なんだか不思議としっくりくるような気がした。もしかしたら過去の自分も髪を一本に束ねていた時期があったのかもしれない。
「オマエが言うとおり、結ぶのも悪くないな。考えておくよ」
束ねた指を手放すと、ほどけた髪の毛がパサリと音をたて、背中を覆うように広がった。それを見たエッジが「よかった」と小さな声でつぶやくのが聞こえた。どうしてそんなに俺の髪型なんかが気になるのか、不思議に思ってエッジの顔を見つめ返す。するとエッジは唐突に俺から目を逸らし、何かを誤魔化すようにしゃべり始める。
「あの……休んでいる最中だったところに急に入ってきてしまって、驚いただろ。もう出ていくから、あとはゆっくり休んでいるといい。夕食前になったら、また様子を見に来る」
いや、別に。迷惑でもなんでもない。そう言い返すより先にエッジはその場から立ち去り、あっという間に部屋から出て行ってしまった。一体どうしたんだろうと少しばかり心配しながら、しばらくの間エッジが出ていったドアの方を見ていた。
時間が経ってもエッジが引き返してこないことを確認してから、俺は改めて、手元にある古びた日記帳のページに目を落とした。
日記帳の続きのページには、エッジと『友達』になった時の出来事が書かれていた。
友達……とは、なんだかくすぐったい言葉だ。
俺はエッジのことを、顔と名前以外何も覚えていなかった。だが、あの湖の浅瀬で彼と出会ってから今にいたるまでの短い時間だけで、彼がとても心優しい人物であることは把握できた。
意識がハッキリせず、朦朧としたままフライギアに乗り込んだ時も、この部屋に連れてこられてベッドに初めて横になった時も、エッジは必ず傍に寄り添ってくれていた。心の底から心配した様子で、不安そうに、優しい眼差しと献身とを俺に届けてくれていた。単に様子を見に来てくれることの他にも、食事を届けてくれたり、乾いた洗濯物を持ってきてくれたちなどもしてくれた。
自分だって、あの激しい雨の中を動き回った後で疲れているだろうに。「あまり無理をしなくてもいいんだぞ」と、逆にこちらの方が心配になって声をかけても、彼は「こう見えて丈夫なんだ」と返すだけであった。
豪雪地帯で長い間暮らしてきたから、人一倍に体は上部。人生の中で病気になったことはほとんど無いし、怪我をした時の治りも早いのだとか。
『それもこれも、全ては良心が丈夫に生んでくれたおかげだ』
エッジは誇らしげな声色で、そう言っていた。
「両親か……」
開いたままの日記帳のページをめくりながら、誰にも聞こえない小さな声で、そっとつぶやいた。その言葉の意味については、きっと思うところがあるのだろうが、自分ではよくわからなかった。
カツン……カツン……
そこでふと、部屋のどこかから小さな物音が聞こえてきた。
カツリ、カツリ、軽くて小さな物音は、耳の奥を続け様にトントン叩く。気になって顔を上げてみると、部屋の隅に設置されたクローゼットの上に、何か黒くて小さなものが動いているのが見えた。
それは人間の手の平より少し小さいくらいの大きさをした、真っ黒な体色のトカゲだった。
瞬間、体全体が、何か大きなものを上から乗せられたように、ずっしりと重くなる。指の先も、瞼も動かず、全てが静止した錯覚を覚えるほどの空白がその後に続いた。
トカゲは大きな両の眼を目一杯に見開きながら、こちらをじっと見つめている。その視線からは、まるで嘲笑でもされているような、奇妙な冷たさを感じる。
異常を感じ、もがく努力をしてみても、やはり身体が自由に動かない。いや、身体が動かないというより、どう頑張っても脳に動く気が起きないのだ。まるで動けないことが当然であるかのように、時が止まってしまったかのように、この静寂を受け入れている。
「――――――」
風によく似た雑音が、耳を通り越して、頭の中で直接響いた。それはトカゲの発した声だった。
その声の意味は、わからない。にもかかわらず、俺はトカゲの発した言葉に驚き、目を見開いた。
乾いた瞳をやっとのことで閉じた時、たった一度のまばたきの間に、トカゲは視界の中から消えてなくなってしまった。逃げたでもなく、飛び跳ねたでもなく、急に消えてなくなった。
そんな馬鹿なと思った俺の体は自然とベッドから起き上がり、クローゼットの方へと向かっていく。トカゲがいた場所を確認してみると、クローゼットの表面にかすかなひっかき傷が残っている。きっとあの時のカツカツした音は、ここにトカゲの詰めがぶつかる音だったのだろう。黒いトカゲはそうやって器用に音を作り出し、俺に存在を気付かせたのか。
いや、そんなわけがないだろう。相手はただのトカゲだった。いくら不気味な雰囲気をもったトカゲであろうと、自分の考えすぎに違いない。
そう思い直してから俺は改めてベッドに腰かけ、再び日記帳のページをめくり始めた。