記述2 薄暗がりな月夜の下で 第4節
夜。洗濯して返された服に袖を通し、枕元にカバンを置いてからベッドに横たわった。鉄格子の向こう側に見える空は真っ黒で、その真ん中に月が浮かんでいる。
この国でも月は見れるんだなぁ。
と、少し考えたら当たり前なことに感銘を受けながら、瞼を閉じた。
部屋の中はとても静かだ。耳をすまして聞こえてくるのは、夜行性の鳥や獣が遠くの方で鳴く声くらい。昼間はあんなに凄まじかった雨音も、今はどこにも存在しない。
あの雨を浴びてからか、あるいは街中でマスクを無理矢理剥がされてからか、それ以来体の調子があまり良くない。汚染された空気や水を吸ったせいで肺に異常が出たのかもしれない。呼吸する度にチクリと感じた喉の痛みなら今はなくなっているが、代わりに風邪のような気怠さが体全体に広がっていた。発熱、吐き気、悪寒といった症状も少しずつ感じ始める。
本当に風邪だったらいいんだけど。
そんなささやかな願いを込めて、カバンから取り出した常備薬の錠剤を口の中に放り込んだ。おまじないだ。
思い切って故郷を飛び出して来たというのに、旅が始まって早々に体調を崩して倒れてしまうなんてあまりにも格好悪いじゃないか。明日になったらまた色々な問題が押し寄せてくるに決まっているだろうし、何をするにも体力は最重要だ。今はとにかく体を休めよう。
……とはいえ、見知らぬ土地、見知らぬ部屋、見知らぬベッドの上ではどうにも落ち着かないのか、瞼は重いのになかなか眠りに付けない状態がしばらく続いた。
やっぱり無茶だったのかな。
そんな考えが頭の中に浮かんだ所で、部屋に一つしかない扉から ガシャンッ!! と大きな音がした。
何かが起きた。そう勘付くには十分すぎる異変であった。
枕元に置いておいた荷物を急いで腕の中に抱え込み、部屋の中を見回しながら耳をすます。何か大きなものが壁にぶつかるような音だった。それも、すぐ近く。恐らく部屋を出てすぐの廊下あたり。
「ぅばあっ!!」
人のうめき声が耳に飛び込む。 ギャシャンッ ドスドスッ 鈍く、小さく、決して穏やかとは言えない物音が、部屋の外から聞こえてきて……近付いて来ている、ような、気がする。
音に驚いて思わず頭に被った掛け布団から恐る恐る顔を出し、金属製の扉の方をじっと見つめる。そういえばあの扉には外から鍵がかかっていた。ということは、何か『ハプニング』が起きた時に、俺はこの部屋から避難することができない。その一方で部屋の外からは誰が入ってくるかわからない。鍵さえあれば、あるいは鍵を壊せば、誰だって。
逃げ場が無い。四方の壁は強固な石造り。扉には鍵。窓には鉄格子。そもそもここは建物の五階。恐怖からか、緊張からか、体が無意識に震え始める。
何かが起きる。何かが来る。そう予感してからすぐに、 ガギギギギィイイッ 部屋の扉が悲鳴のような音を立てながらこじ開けられた。
開いた扉から部屋の中へ、全身に金属の鎧を着込んだ兵士が一人入ってきた。兵士は足を引きずっていて、部屋の真ん中あたりまで来た所で力尽きたように倒れてしまう。じっと視線を送っても反応がない。俺には気付いていないのだろうか。生きては……いる。兜の下から「ぐぐっ……ぐぐ……」といううめき声のようなものが聞こえてきた。部屋に入り込む僅かな月明かりだけでは、彼がどんな状態になっているかハッキリと確認できない。
掛け布団の中に頭を隠し直しながら、わずかに作った隙間の間から目の前にある光景を凝視する。床の上でもだえ転がる体。そのすぐ側、知らないうちに誰かが立っていることに気付いた。いつの間に入ってきたんだ。足音も気配も全く無かった。けれどもその人物は確かに部屋の中に立っていて、目の前で苦しむ兵士の体を……靴の爪先で蹴っ飛ばした。
ガツンッ と小気味の良い音が静かな部屋の中に響いた。その音から感じ取れたものは純然たる悪意であった。
青白い月明かりの逆光を浴びた、黒い人影。背の高さは俺と同じくらいか、やや低いか。細身でしなやかなシルエットから女性のような印象を受けた。
蹴飛ばされた兵士の体はごろりと転がり、仰向けの体勢でぐったりと静止する。こぽり……こぽり……と、鎧の隙間から小さな音が漏れ聞こえ、それとともに石材の床の上に何かの液体が溢れ広がる。その液体から漂う異臭が窓から入る風と共にベッドの上の俺まで届く。鼻孔を通り過ぎていく、この臭いは、人間の血液以外の何物でもない。うめき声は消えていた。
黒い影はその傍らにしゃがみ込み、ごそごそと鎧の中を漁り始める。チャリッと小さな音がするのを聞いて、直感で「鍵」を奪い取ったのだと思った。
お目当ての物を手にして満足した影は音も無く立ち上がり、ベッドの方へ、こちらへ、俺の方へ近付いてきた。
殺される。
全身の感覚が命の危機を感じ取った。
歩み寄る黒い影の手の中で刃物のようなものが閃くのを目撃し、思わず目をつぶってしまう。掛け布団とベッドの隙間で作ったのぞき穴を閉じて、ベッドの上でぎゅっと小さく体を丸めながら震え始めた。胸の中で心臓がバクバクとうるさいくらい跳ね回っている。
どすりっ
刃物が頭のすぐ横に突き立てられた。
「寝てるの?」
鈴を鳴らすような可愛らしい猫なで声。ころりと耳の奥に流し込まれていく、場違いなほど甘ったるい響き。鼓膜を溶かすほどの色気に聴覚が痺れ、一方で嗅覚は濃厚な死臭を感じ取る。
どすりっ どすりっ
ベッドに突き刺した刃物を抜き取り、少しズレた所に刺し直す。何度も。何度も。
遊んでいるような、苛立っているような、どちらかわからない震動が俺の耳元すぐの所から伝わってくる。薄いシーツの生地が切り裂かれ、その下に敷かれた木材が割れる生々しい音がする。
「この部屋にいるってことは、かわいそうなご身分の人なんでしょ? いきなり殺したりしないからさぁ……大丈夫だよ、顔を出してごらん?」
そう言われて素直に従うヤツなんているわけがない。
「ねぇねぇ、早くしてよー。僕の手をわずらわせないでー」
人にじゃれつくような声色で囁かれる。その傍らで、ドスリッ ドスリッ と刃物を抜き差しする音はだんだん大きくなってきていた。
従わない方が酷い目に遭う。動転していた意識がそのことにやっと気付いたところで、観念の二文字を脳裏に浮かべながら掛け布団の外に頭を晒し出した。
勇気をふりしぼって両目を開ける。そうして見えてきた真っ暗な視界の中には、満月みたいに丸い瞳が二つ、金色に光っていた。
どうしよう。目が逸らせない。
その瞳の輝きは、もはや人間に作り出せるようなものではなかった。
悪意とか、失意とか、絶望とか、殺意とか、そういう類いの感情が冷たい宝石の表面に塗り込まれ、磨き上げられ、二つある真っ暗な眼孔の中に嵌まっている。そんな危険極まりない印象が、部屋中に充満した死の臭いと共にギラギラ閃きながらこちらの顔を真っ直ぐに覗き込んでいた。
暗がりと逆光のせいで顔のほとんどは見えないけれど、ぼんやりと浮かび上がった真っ白な顔の輪郭から、とんでもない美人であるということだけは確認できた。
何を思っているのか。金色の瞳の主はしばらく何も言わず黙り込んでいた。
沈黙と静寂の時間が過ぎ去り、やがてゆっくりと、その人は口を開いた。
「ねぇ、君……名前は?」
「……ぇ?」
雰囲気が一変した、子供のような声だった。
「ねぇ……ねぇ、おしえて」
美しいシルエットを帯びた顔がゆっくりと距離を詰めて近付く。あんなにも恐ろしかった金の瞳が、不意に、どういうわけか、寂しそうな印象を持つ色に豹変していた。
名前。名前って俺の名前だよな。教えて良いのかな?
口を開いて、答えるかどうか迷って、迷った末にもう一度口を開いて声を出そうとした、その時……
ビイイイイイィィィィィィィーーーーーーーーーーッ!!
飛び込んできたけたたましいサイレンの轟音に全てを支配されてしまった。天井に備え付けられていた警報装置が真っ赤な光を放ちながら点滅し始めたと思うや否や、窓の外、扉の向こう側から男たちの怒声まで聞こえ始める。
俺の目の前にいた黒い影の――彼?彼女?は、サイレンの音を聞いてからすぐさま身を翻し、俺の体を布団ごと持ち上げて抱え込んだ。なんと片手。
なぜ自分がどこかへ連れていかれになっているのかわからず、混乱と困惑で頭をいっぱいにしながら彼女?の顔を見上げた。
短めの横髪がサラリと静かに揺れている。その濡れ羽色を見た時、思わず「あっ」と小さな声を溢してしまった。しかしこの騒音の中、彼女は俺の感嘆の声になんて一切気付きやしなかった。
部屋の中を駆け走り、彼女は空いている方の手で窓の鉄格子を強く握りしめる。すると…… ベキベキベキッ あの太くて頑強だったはずの鉄格子が、粘土のようにぐにゃりと曲がった。嘘だろ、オイ。
ベキベキッ メキッベキッ カラカラカランッ
窓を塞いでいた鉄の棒が床を転がる。
そうやってむりやりこじ開けた窓の隙間から、彼女は、俺の体を小脇に抱え持ったまま何のためらいも無い様子で飛び出していった。
ここは五階だと聞いていたのに。