記述11 望むがままに巡れ、世界 第3節
陰鬱に黒ずんだ雨雲の向こうに一筋の稲光が走るのを見た。遅れて雷鳴が轟き、大地を揺らす音の震動が激しい雨風の中を切り裂くように通り抜けていく。時刻は日没前にもかかわらず、雨雲の黒い影に覆われた森は夜明け前のように闇深くざわめいていた。
いなくなったソウドを探すために、あの穴の中を出てからしばらく経った頃、俺たちは陽が暮れきるより先に湖まで辿り着くことができた。森の中の景色は豪雨のせいですっかり様変わりしてしまっていたけれど、不思議なことに、湖のある方角だけはすぐにわかったのだ。
そして、この雨の中で変わっていたのは森の様子だけではなく、湖もまた同じであった。気を失う前に見た赤水晶の岩場は、先に見たとおりに湖を取り囲んでいたけれど、その広々としていた赤色の面積が、今はほとんど水位が増した湖の中に呑み込まれてしまっている。雨風に晒された湖の水面は渦を巻くように波打ちながら、灰色に濁っていた。
「本当にこんなところにいるの?」
「予感がするんだ。でも、行ってみないとわからない。」
いくらなんでもこの豪雨の中、荒れ狂った湖に近付くのは危険がすぎると、それぐらいのことは俺にだってわかっている。流れの強い川よりはマシだとはいえ、記憶が確かであれば、あの時にみんなが銃に撃たれた場所は水際にとても近い位置にあった。
「ここから先はちょっと危ないからさ、マグナくんはここで待っていておくれよ」
「付いていかなくて、いいの?」
「ディアのお守りは僕に任せて」
マグナは俺とウルドの顔を不安げに見上げた後、「うん」と小さく頷いて近くの草むらの中へ身を潜めた。それを見てから、俺たちは湖の方へ近付いていった。
ウルドと一緒に水位が増した湖のほとりを歩く。いまだ降り止まない雨の中、周囲を注意深く見回しているけれど、ソウドの姿はどこにも見当たらない。もっと進んだ先にいるのだろうか、そう考えて歩く速度を少しだけ早めようとしたところ、不意にウルドに肩を掴んで声をかけられた。
「ねぇ、ディア。ソウドのヤツさ……また死んだの?」
唐突な発言だった。
驚いて振り返ると、ウルドは「やっぱり本当なんだ」とつぶやく。
「ウルドも覚えてたのかい?」
「覚えてた? さぁ、何のことかわからないや。でも、知っていることはあるよ。本当は誰にも話さないでいてあげようと思ってたんだけど、こうなっちゃったら仕方ないよね」
そう言うと、ウルドは自分が知っているソウド・ゼウセウトに関する情報を、俺に教えてくれた。
まず始めに、ウルドとソウドが最初に顔を合わせて会話をしたのは、アルレスキュリア城のとある場所。黒軍を脱退する前の最後の一仕事として言い渡された任務の途中での出会いであった。そこでウルドは警備の任務にあたっていたと思われていたソウドとはち合わせ、その首をちぎり落とした。殺したのだと言う。
「なのにアイツ、生き返ったんだ。あんなに血を撒き散らして死んでいたはずなのに。急に部屋の中が明るくなって、眩しくて目を開いていられなくなって……そのすぐ後に、ソウドは目を覚ました」
光の中にいる時、たちくらみのような、目眩のような意識の揺らぎを覚えた。その感覚が治まり、意識が正常に戻った頃には、致命傷を与えていたはずのソウドの体が再生していた。体から離れていたはずの首が、いつの間にか元の場所に戻っていたのだ。床にできた血溜まりだって、シミ一つ残さず消えてなくなっていた。
嘘みたいな本当の話。そして、あの時も今と同じように、空が雷雲に覆われていた。
起きあがったソウドは生命にこそ別状はないものの、記憶をすっかりと喪っていたらしい。ウルドはそんな彼を王城に一人残していられなくなり、ソウドを連れて一緒にアルレスキューレを脱出した。
同情なんていう、なれない感情を彼に抱いてしまったからだ。
「アイツ、人間なんかじゃないよ」
人間ではない。その言葉にどれだけの意味があるか、ウルドには痛いほどよく分かっているように見えた。
俺はウルドの方をもう一度振り返り、雨の中で光る金色の瞳を覗き込むように見つめた。なんだかこの雨は、アルレスキューレでウルドと最初に出会った時のことを思い出させる。今考えるようなことじゃないけれど、俺はあの時にウルドに出会って、確かに良かったと感じている。強大な力でもって次々と人の命を奪い続けて見せたウルドの姿に、恐怖がなかったといえば嘘になるけれど。それ以上に鮮烈に光り輝いた出会いの歓びがあったと思ってしまう。
「……あ」
俺の顔を何も言わず見つめ返していたウルドが、何かを発見した素振りを見せた。急いで自分もウルドが見ている方向に目をやった。雨の降る湖の中、岸から少し離れた浅い場所。そこには、全身をびしょ濡れに浸して座り込んでいる誰かの後ろ姿があった。
ソウドだ。間違いない。俺とウルドはその姿を見つけた途端、彼のもとへ駆け寄ろうとした。だが、その足が、湖のほとり、うずくまる彼の後ろ姿をハッキリと視認したところで、ピタリと止まった。
どこか様子がおかしい。彼は本当にソウド・ゼウセウトなのか、という疑問が、この距離まで近付いたところで初めて生まれた。
視界を埋め尽くす豪雨のノイズの中で見間違えでもしたのかと、自分の目を疑う。しかし見間違えなどではない。むしろ見間違えるはずがなかった。
「ソウドっ!」
勇気をもって声をかけてみた。だが彼はこちらを振り向かない。少しの反応もしめさず、ずっと変わらぬ姿勢のまま微動だにせず、真っ直ぐに湖の水面を見つめていた。
その背中を改めて見つめる。逞しく鍛え上げられた、幅の広い男の背中。その表面に張り付くように垂れている、鮮やかな青色の髪の毛。その髪が、座り込んだ体勢のままでも水面に届いて泥にまみれるくらい、長く、長く、伸びていた。この短時間で変わるとは到底思えないほどハッキリと、不自然にだ。
『人間なんかじゃないよ』
ついさっき、ウルドから聞いた言葉が脳裏をよぎる。
人間ではない。ならば、なんだというのか。
「ソウド。君を探しに来たんだ」
再び声をかける、が。やはり返事はなかった。
仕方ないと思い、岸から踏みだして湖の中に足を浸す。ウルドが俺の腕を引いて止めようとしてくれたけれど、「大丈夫」と一言だけいってなだめた。
森全体を染める白色が雨に溶けて生まれた灰色の水。踏みしめ、しぶかせ、水の中を進み、足首まで深く灰色に浸かりきったところで、ソウドの真後ろまで辿り着く。雨が彼の背中と俺の肩を交互に叩いている。直接触れて振り向かせようかと考えたが、そんなことはとてもできなかった。彼の背中から、他者との関わりを拒絶するような薄暗い気配が滲み出ていたからだ。
立ち尽くしたまま、どんな言葉をかけてやればいいのか考えた。うまい答えは見当たらない。黙り込んでいるうちにも、時間は空からふる雨のように流れ落ちていく。
「……さっきのは、俺の名前か?」
雨音しか聞こえなくなった、激しい静寂の中、次に言葉を発したのは彼の方だった。抑揚の無い、けれど脳に直接響くようなハッキリとした男性の声色であった。
俺は口を開いて彼の質問に答えた。
「ソウド・ゼウセウト。それが君の名前だって聞いたよ。他でもない、君自身の口から直接さ」
ほんの数時間前までは当たり前のように思っていたはずなのに、今この瞬間に口にしてみることに不安を感じる。その不安の中には、こんなにも簡単に世界は揺らいでしまうのかという、喪失感にも似たかすかな恐怖心が含まれていた。
名前を唱えられた彼が、ずっと見つめていた湖の水面から顔を逸らし、こちらを振り向いた。見知った端正な美男の顔立ちが俺の姿を一瞬だけ瞳に映す。形の良い切れ長の目元から覗く深緑色の双眼には、いつもと変わらぬ華やかな迫力がこもっていた。けれどその様相はどこか空虚で、魂の抜けた死体の眼球のように色褪せているようにも見えた。それでもなお、彼に見られている……と意識した途端、電流のような緊張感が脳の奥に刺激を走らせる。
何と声をかけたらよいだろう。俺は彼の前に立ち尽くしたまま、迷い、困り果ててしまっていた。
いつもと異なる雰囲気をまとった彼は、もはや自分が知っているソウド・ゼウセウトではなかった。アルレスキューレの地下水路で初めて出会った時とも、ラムボアードの街中で再会した時とも違う。本当に別人になってしまったんじゃないかとすら感じるほど、変わり果ててしまっている。
その姿はもはや人間というよりも、精巧に造り込まれた彫刻のようですらあった。人肌の温度を感じさせない、冷えた大理石の表面のように、美しく、超越的で、見る人にこれ以上はないと思わせるほどに完成させられた美しさを、いともたやすく身に纏う、怪物のような傑作品である。
なるほど、これが彼の本来の姿であったのだろうと、直感が諭す。同時に彼がどのような存在であるのかわかってしまった。だってこの感覚は、この場に漂う張り詰めた、けれど澄み渡った湖の底のように透明な空気感は、『神秘的』と表現するに相応しいものであったからだ。
「名前……そうか、俺には名前があったのか。一体、誰がそんなものを用意してくれたのか」
俺の顔をまじまじと見つめていた二つの瞳が、関心を喪ったみたいに背景の森の方へ向けられる。
「はて…………俺は、何をしようとしていたんだろうな」
「記憶がないの?」
ウルドが遠くから尋ねる。彼は一瞬だけ声がした方を見て、また目を逸らす。
「記憶……そうか、この喪失感は記憶がないからか。なるほど……あぁ、確かに何も覚えていない」
静かな絶望のこもった言葉と声が、会話ではない独り言として雨降る湖にしたたり落ちる。
「何も無いんだ。自分の中に、何も残っていない」
生きていることにすら実感が持てなくなってしまうほど、空虚な心地。
「行くべき宛てがない。帰るべき場所がわからない。頼るべき人を知らない。愛していたものですら、信じていたものですら、何もかも喪ってしまっているみたいだ」
そして何も無いこと以上に質量を持った恐怖が、胸の内に重たくのさばっていると、彼は言う。
「帰る場所ならあるよ。一緒にフライギアに帰ろう……な?」
やっとのことで伝えた言葉も、彼には届いていないようだった。彼は虚ろな瞳の中にぼんやりとした風景を移し込んだまま、少しも首を動かそうとしなかった。こちらの顔など見てくれない。本人が告げた言葉の通り、彼は何も見ていなかった。
静寂は否応なく続く。雨の音がまだ続く。しとしとと、はらはらと。
そこでふと、気付く。雨の勢いが先程よりも幾分か弱まってきているのではないか。
強い風が一筋吹いて、濡れた衣服の裾と髪の先を冷たく薙いでいく。
風の流れに釣られて空を見上げると、突然吹きすさみ始めた強風に重たい雨雲が押し出され、西の方角へと流れていく様を目の当たりにできた。じっと見つめていたら、雲はさらにさらに遠くの空の果てに流れていき、ついには層の薄くなった雲の隙間から、暖色の陽光が差し込み始めた。
空は、だんだんと夕焼けの茜に染まっていく。
この変化に気付いたのはウルドも、ソウドも同じであった。俺を含めた三人は、それからしばらくの間、じっと鮮やかに色付いていく薄雲の空を見上げていた。
森の白が黄昏の内に沈み込み、全てが茜に染まり果てた頃、あれほど激しかった雨もとうとう最後の一滴を地面に届かせるとともに降り止んだ。
雨音すら消えた湖のほとりに、風の音だけが反響する。森の木の葉からしたたり落ちる水の音すら聞こえてしまえるんじゃないかと思えるほど、静かな夕暮れが目の前に広がっている。瞬く間に全てが美しい何かに書き換えられてしまったようだった。
空から差し込む黄金の光が湖に降りそそぎ、その中に座り込むソウドの頭上までもを明るく照らし上げた。そこで彼は何を思ったか立ち上がり、森の方を見た。今度はハッキリと、どこか特定の場所を見据えているようだった。
「誰だ?」
ソウドが口を開き、森の中へ向けて問い訊ねる。
茜色の静寂の中、何かがこちらへ近付いてくる足音が聞こえてくる。そのひたりひたりと鳴る音が聞こえなくなった頃、濡れた木の葉の間に誰かが立っているのを見つけた。
エッジ・シルヴァだった。