記述10 爆ぜる真紅の防波堤 第6節
いなくなったディアとウルドは、走り去る黒い生物の後を追いかけていったに違いない。
「ディアはともかく、ウルドがひっついてるなら放っておいても大丈夫だろ」
連中はすでに夜の森の奥深くに消え失せてしまっている。今から闇雲に歩き回ったりして追いかけたとしても、見つかるかどうかはわからない。だから俺は「そんな面倒ごとにはこれ以上首を突っ込まず、俺たちだけでも先にフライギアに戻ろう」と、その場に残った二人に向けて提案した。
しかし、意外にもこの提案に反対してきたのはマグナの方だった。
「あの生き物を最初に見つけた時から、なんだかずっと、ディアさんたちは様子がおかしいんだ」
「様子がおかしい?」
「うん。難しい顔で考え事をしたり、声をかけても返事が変なカンジだったり」
俺とエッジにもディアの様子がおかしいことはわかっていた。しかしまさか、ウルドの方までおかしかったとなると、一気に不安になってくる。
「やはり、きちんと連れ戻してやった方がいい」
「判断するのが遅かったかもしれないな。あいつらはもうとっくに夜の森の奥深くだぞ」
「あの生き物の居場所なら、わかるよ」
「どうやって?」
「臭いでわかるんだ。グラントールの人は、アルレスの人より鼻が良いらしいから。最初に、あの穴の中に何かいるよって気付いたのも、ワタシだったから。だから、大丈夫。今だってハッキリと、どちらの方へ向かったのかわかる……と思う」
ひかえめな口調ながら確かな自信を感じる言葉だった。それを聞いたエッジの方はすっかりその気になってしまったらしく「頼りにしてみないか」という意見のこもった瞳で俺の目を見つめてきた。
マグナもエッジも、よほどあの二人のことが心配であるらしい。俺としては面倒なことこのうえないのだが、この二人にそこまで言われてしまえば、仕方ないと折れるしかなかった。
それに俺にだって、悪い予感がしていないわけではなかった。
言い出しっぺなだけあって、マグナはまるで訓練された猟犬のように真っ直ぐに、黒い生物が向かったと思われる方向へ走って行った。俺とエッジは夜になってもなお白一色に染まった森の中を注意ぶかく見回しながら、マグナの後をついていった。
すると、とある地点までやってきたところで、前方の白い木の葉の隙間に、不自然に鮮やかな色をした赤い光がチラチラと見えるようになってきた。始めは猟師たちが放った炎がまた森に燃え移って赤く照っているのかと思ったが、どうやらそうではない。あの赤色は一体何なのか。正体は、すぐにわかった。
黒い生物の後を追い、白い森を走り続けた三人が辿り着いたのは、湖畔一帯を赤い水晶石の塊に覆い囲まれた湖のほとりだった。
不気味なくらい鮮やかな色を持った水晶だった。それがまるで川辺に転がる丸石や砂利と同じように、そこら中にゴロゴロと転がっている。月の光を一身に浴びて、おのおのが光り輝くその様は、さながら磨き上げられた宝石をふんだんに詰め込んだ宝石箱のようであった。
あまりに唐突な景色の変化に驚きつつも、俺は一目で、この摩訶不思議な赤水晶の湖が、あの猟師たちが言っていた『守り神』が住み湖であるに違いないと気付いた。
森全体に漂っていた重たい湿気がここにきて極まり、周囲にはとうとう真っ白な夜霧までが漂い始めている。視界は良好とはいえない。そんな中で俺たち三人は湖のほとりに先客がきていないか探すため、懸命に周囲を見回した。
そうしてついに、少し離れたところの水際に立っているディアとウルドを発見した。近くに猟師たちの姿は見当たらない。その代わりに彼らの目の前には、あの黒い生物が静かに立って向かい合っていた。
月の明かりの下、剥き出しの背骨を曲げてゆらりとたたずむ黒い生物。襲ってくる様子は見えないが、心を許しているようにも見えない。酷く警戒し、怯えている。体には火傷の痕が増えていて、走り疲れ、やっとのことで立っているという風だ。
それでもなお、この黒い生物の姿は誰の目から見ても歪なままであった。顔のない頭。細すぎる手足。内臓が落ちて膨らんだ下腹。痩せ細って浮き上がったあばら骨。歪に曲がった背骨。体の節々から溢れ出る、重油のような粘度をもった赤黒い体液。
憐憫や慈愛の念をいとも容易くかき消してしまう醜悪さ。心の奥底からとめどなく湧き出てくる嫌悪感。それはなぜか。この異形の怪物が、人間によく似た姿形をしているからだ。
『この子も被害者だと思うんだ』
つい数刻前に聞いたディアの言葉が脳裏に浮かび上がってくる。ならば被害者になる前はどうだったのかと、考えずにはいられない。
ここに来て改めて凝視したその姿はあまりにもグロテスクで、俺は思わずその場に立ち止まって息を呑んだ。
そうしていると、向こう側にいたウルドの方が俺たちの接近に気付いた。ウルドは側に立ち尽くしていたままのディアの腕を引いて、大急ぎでこちらへ駆け寄ってくる。
「猟師たちは?」
「走るの遅かったから、途中で見失ったんじゃな……」
質問に対してウルドが返事をしようとした、その途中で、突如として湖の水面が大きく波を打ち、揺れ動き始めた。
湖の底から何か、巨大な何かが這い出てくる気配がした。水面がさらに激しく揺れる。皆が突然の異変に驚いて湖の方へ一斉に顔を向けた。
真っ白な森の真ん中、赤い水晶石の湖のほとり。異質なほどの闇色に深く沈んだ湖の水底から伸びる、太く巨大な異形の触手。触手、触手だ。軟体動物の体の一部のような、太く、ぬるりとした粘液をまとった、不気味な形状の触手であった。それが一本だけではなく、何本も、何本も、次から次へと湖から這い出てくる。目を疑いたくなるほど異様な光景だ。
長い長い触手の群れは、夜空の雲すら掴みあげるほど天上高くそびえ立ち、やがて一斉にして、その先端をぐにゃりと曲げて、湖のほとりにある一点に狙いを定めた。あの、黒い生物だ。
一瞬のできごとだった。無数の触手のうちの一本が、水際に立っていた黒い生物の体を横薙ぎに叩きつけた。
広範囲における突然の攻撃は、近くにいたディアとウルドにも危険を及ぼした。ウルドのとっさの判断によって二人はなんとかこれを回避できたものの、直撃を受けた黒い生物の巨体はあっけなく宙を飛び、硬い岩肌の上へ無惨に転がり落ちた。
よろよろと起き上がった生物の肩らしき部位から、何かがぐちゃりと滴るように溶け落ちていくのを見た。左腕だ。
黒い生物はよほどの恐怖を感じていたのであろう、すでに瀕死の状態にある体をなんとか引き摺って湖から離れようとする。しかしそこへ、また別の触手が背後から近づき、生物の体を頭の上から叩き潰した。
その後も触手の群れは黒い生物への攻撃をやめなかった。腕をもいでも、肉を裂いても、どれだけ悲痛な絶叫を聞かされようとも、一方的な暴力行為をやめようとしない。黒い生物はもはや少しの抵抗もできず、されるがままに触手の攻撃を受け続ける。痛みに耐えるうめき声すら聞こえなくなっても、なお、異形の触手たちは『粛清』をやめなかった。
まさかあれが、猟師たちが言っていた『湖の守り神』とやらなのか。『守護神』とまで呼ばれる神秘的な存在がする行動なのか。『神』は、あそこまで苛烈に容赦のない『異端への排斥行為』を行うものなのか。
これでは人間がどちらを恐れるべきかわからない。いや、恐ろしいことを知っているからこそ、猟師たちはこの存在を『神』とまで呼んで崇め奉るのか。
距離はそう近くないのに、ここからでも骨が折れる音、肉が潰れる音、中身がこぼれ落ちる音が聞こえてくる。森は、湖は静かだ。破壊音だけが反響している。
理由のわからない暴力は、静かな夜の森の情景を瞬く間に蹂躙していく。
それらを目の当たりにしている全員が、その場に立ったまま一歩も動けずに、この理由のわからない暴力を、ただただ傍観者として凝視していた。
己とは存在の規模が異なる、異形の神による制裁行為を目の当たりにした感想はいかなるものであっただろう。戦慄。恐怖。憐憫。自分があの神の機嫌を損なっていないことへの、残酷なまでの安堵。死にゆくものへの優越。湧き出てくる感情の種類には取捨選択が許されていない。この場に存在する全ての主導権は、湖の底に未だ潜む未知なる神秘の内にこそあった。
「と、止めてあげなきゃ……もう、もう、かわいそうだよ」
一同が呆然としている中、最初に口を開いたのはマグナだった。
けれどどうやって。それにもう手をくれだ。などと、マグナに言ってやることすらできない。なぜならそんなことはマグナにだってわかりきっている。
それでも何かしなくちゃいけないような気がして、マグナは震える体から懸命に声を出して、大人たちに解決を求めた。
どう返事をするべきか迷っていると、エッジがマグナの頭にそっと手を置いた。それは「俺がなんとかする」という意思表示であった。エッジは湖の方を振り返り、力強い眼差しで見つめる。
「何をするつもりなんだ、オマエ」
俺は今にも湖の方へ駆けよって行ってしまいそうだったエッジの腕を掴んで止めようとした。しかしエッジは、自分の腕を掴んだ手の上にさらに自分の手をそえて、俺を安心させるような静かな口調で言った。
「大丈夫だ」
こちらの目を真っ直ぐに見つめ返すエッジの琥珀色の瞳には、得体のしれない自信が宿っている。何が大丈夫なのかわからない。それなのに、俺は気付いたらエッジの腕を手放していた。まるでそうすることが当たり前のように、エッジの命令に従ったみたいに、その場で動きを止めてしまった。
エッジは俺たちのいる方へ背を向けて、湖の方へ走っていく。そして赤い無数の触手の群れに向けて、あるいは湖の底に潜む何物かに向けて、声を張り上げた。
「やめろ!!」
たったそれだけの一言だった。にも関わらず、その一声は暴力の轟音が沸き立つ湖一帯を波動のように駆け抜ける。するとどうしたか。重たかった空気が一瞬で軽くなり、周囲をとりまいていた緊迫感がどこかへ消えた。風に吹き消された蝋燭の火のようにだ。後には嘘みたいな静寂だけが取りのこされている。
触手の怪物たちが、動きを止めた。まるでエッジの命令に従ったように、動きを止めた。
触手たちは、じっと、何かを確認しているように緩慢な動きで水際の赤い岩場の上を這い回る。そのうちの一本がエッジのすぐ近くまでにじり寄ってきて、彼の足下でピタリと、また静止した。
「俺の言葉がわかるのか」
触手は返事をしない。ただ静かに、エッジ・シルヴァという一人の人間に向けてこうべをたれるように、地面を這っていた。
至近距離で見た触手の先端は、軟体動物の体の一部というよりも、トカゲの尻尾のようなものに似ていた。その表面に張り付いているものは粘液や吸盤ではなく、光沢のある硬い鱗。鱗は月の光を浴びて見たこともない色味を持った赤色に瞬いている。
エッジは自分の足下にうずくまる触手の前で膝をついてしゃがみ込み、そっと声をかけた。
「もういいんだ。もう、やめてはくれないか」
意思は伝わった。湖を埋め尽くしていた無数の触手たちが一斉に動き出し、けれども静かに、静かに、湖の下へ吸い込まれるように沈んでいった。
あっという間のできごとだった。エッジが声を上げ、触手が従い、湖の底へ戻っていった。
後には、呆然と立ち尽くす人間たちと、ぐちゃぐちゃに潰れた黒い生物だけが残された。