記述10 爆ぜる真紅の防波堤 第5節
黒い生物は少しも抵抗した様子を見せず、されるがままに投薬を受けた。効き目が出るのは三十分か一時間ほど後のことだと、ディアは話す。しかしそれによってこの生物の容態に変化が見られることには期待してはいけないとも言う。彼は健康状態を回復させるために薬を与えたわけではない。なんといっても、与えた薬は「痛み止め」と「精神安定剤」であったわけだし。
「今日という夜を一つ、少しでも安らかに過ごすことができたら何よりだ」
恐らく峠が訪れるのは、今日の深夜。
「明日また、様子を見に来よう」
と、エッジが言った。彼は手元の時計を見つめ、次にすっかり暗くなってしまった天井を見上げた。
穴の中へ入る時にはチラチラと光っていた夕焼けの木漏れ日が、すっかり色あせて薄闇色に染まっている。それでもまだ少し空に明かりが残っているような気がするのは、白い森の白い樹木たちが夜の光の微かな輝きも見逃さず、しっかりと木の葉の隙間に抱きかかえているからみたいだった。
そうでなくても枝葉の天井ごしに見上げたアシミナーク地方の月は丸く大きく、いつも以上に特別な存在感をおぼえる容貌をしていた。
俺の眼の前をちょこちょこと落ち着きなく歩き回っていたマグナが「綺麗だね」と無邪気に笑った。
「これ以上待たせるとライフが文句を言うだろ。早く帰ろうぜ」
そうやって他の連中に声をかけてみると、肝心のディアがまたも上の空なことに気付く。彼は投薬をした時からずっと黙ったままで、何か考え事でもしているように見えた。声をかけても「うん」とか「わかった」とか中途半端な空返事をするだけで、ちっとも話を聞いちゃいない。
仕方ないからマグナに頼んでディアの腕を引っ張ってもらいながら、俺たち五人はのろのろとしたペースで穴の外へ向かって歩き出した。いつもならばディアの世話を進んで引き受けてくれるのはウルドだというのに、今のウルドはすっかりご機嫌斜めで、ずっとそっぽを向いている。何がそんなに気に障っているのかサッパリわからないが、まぁ別に、コイツは気まぐれだからすぐにまたケロッとした顔に戻っているだろうと思った。
……と、思った直後に、まさに今のタイミングで、不機嫌に頬を膨らましていたウルドが纏っていた雰囲気が、ガラリと変わった。
「どうしたんだ?」
剣呑な空気に反応したエッジがウルドにたずねる。その頃にはもう、俺たちは穴の出入り口から今まさに外へ出る直前であった。
「何かが近くに隠れている」
ウルドは穴の外にいる「何か」には聞こえないよう、小声で俺たちに向けて「敵」の存在を教えた。
俺は前方を歩いていたディアとマグナの前に出て、荒事が苦手な彼らを守るために身構えた。そのついでに出入り口からわずかに顔を出し、外の様子を確認した。
白一面に染まっているために、やけに明るい夜の森の中。風に揺れる木の葉のざわめきと、枝がきしむ歪な自然音に混ざって、確かに、何かが潜んでいるような気配を感じた。
「野犬か何かか?」
「人間だと思う」
「少しばかり数が多いんじゃないか?」
「十人以上はいるね」
俺とウルドはしばらくの間、そうして姿を見せない敵と睨み合っていた。
ジッとした時間が静かに流れる中、先に動いたのは相手の方だった。目の前の草むらがガサガサと揺れ、森の中から白い木の葉を体中に巻き付けた、猟師のような姿をした男が一人、姿を現した。
続けてさらに一人、二人。やがて穴の出入り口周りを取り囲むように、全部で七人ほどが森の中から出てきた。その全員がやはり、始めの男と同じような格好をしている。
その中の一人、ちょうど俺たちの正面の草むらから出てきた、一際立派な猟銃を手にした男が口を開いた。恐らく彼がこの猟師たちのリーダーなのだろう。
「忌み子に会ったな」
「忌み子とは?」
こういう時に真っ先に口を開くのは、ディアの得意技である。
臆せず返事をしてきたこちら側に向けて、リーダーとみられる男は「ふむ…」と意外そうに首をわずかに傾げ、己の顎から生えた無精髭を指で撫でた。
「その墓場の奥にいただろう。穢らわしい臭気を体中にまとった、醜悪なケダモノだ」
今度こそ逃がしはしないと、猟師たちは強い意思を持った眼差しで穴の奥を睨み付ける。
「どうする? たおしちゃう?」
ウルドが小声でディアにたずねた。
「邪魔しちゃったのは俺の方だから」
ディアはウルドをたしなめてから、改めてもう一度、猟師たちのリーダーに向けて話しかけた。
「私たちがつい先ほど、この穴の奥で見たものと、あなた方が追いかけている『忌み子』が同じものであるかはわかりません。ですが、私はそのうえで、自分たちが見た体ばかり大きくて気の小さい病気の生物が、どのような経緯でこの世に産み落とされたのかを知っています」
猟師たちは一斉にざわついた。口々に「そんなの嘘だ」「ヤツらは庇うつもりなのか」と喋り始めた仲間たちに向けて、リーダーは「黙っていなさい」と落ち着いた声で命令をした。途端に彼らは口を閉じたが、俺たちの方へ疑いの眼差しを向けることだけはやめなかった。
「情報交換をしようか」
猟師のリーダーは低い声で言った。彼が聡明な人間でよかった。
「それではまず、こちらから話しましょう」
両者のうち、まずはディアの方が自分たちが知っている情報……つまり、あの黒い生物がフロムテラスという特別な場所で生まれた実験動物であることを伝えた。実際には証拠不足で真偽は不明な情報であったが、ほぼ間違いはないだろうとディアは推測しているようだった。
そしてその奇妙な都市を拠点として活動する『探求科学機関JUNK』という悪逆集団の存在を伝え、彼女らが今まさにこの白い森の上空を、巨大な飛空艇でもって遊覧していることを話し聞かせた。
傍から聞いただけではどうにも信用ならない情報のように思えたが、猟師たちは思いのほか真剣にディアの話に耳を傾けていた。どうやら彼らにはJUNKという言葉と、最近になって頭上を怪しく旋回するようになった謎の飛行物体について心当たりがあったらしい。
厳しく疑い深い目付きをしていたものたちの瞳が、納得の様子を見せるとともにいくらか和らいでいくところが見て取れた。そういった態度の移り変わりから、彼らがもともと平和主義で温厚な集団であったことがよくわかった。
こちらの話を静かに、けれども興味深げに聞いていた猟師のリーダーは、ディアが一旦口を閉じるところを確認すると、今度は我々の番だと言わんばかりに口を開いた。
「我々は湖の守り神の意思により、忌み子の討伐の命をたまわった」
彼ら曰く、この不思議な森の真ん中には、神秘の力を宿した湖があるのだという。湖には『守り神』あるいは『守護神』と呼ばれる彼ら一族が崇拝する存在が暮らしていた。
けれどもある日突然、美しかった湖の水が醜く濁り、生気を失った。これはどういうことかと思い、彼らは急いで集落の呪い師に頼み、祈祷をしてもらった。三日三晩かかった祈祷を終えた後、呪い師はこう言った。
『祝福されぬ命がこの世に生を受け、神秘の血に穢れた足を踏み込ませた』
『湖が穢れたのは守護神様の怒りによるもの。鎮めるためには守護神様が心悩ませる元凶を滅してしまえばよい』
それがあの『忌み子』と呼ばれる生物のことであると、彼らは気付き、今の今まで後を追っていたのだという。
「けれど、あの忌み子は呪い師様が言うほど、凶暴な存在ではなかったんです。それはオレたちだってわかってる」
七人の猟師のうち、最も若い容姿をした青年がそう言った。
「そうだ。わかったうえでこの手で撃ち殺さねばならぬのだ」
「はい。我らの信仰に偽りはありません」
青年はリーダーの同意を嬉しく思い、そして改めて決意のこもった眼差しを穴の奥へ向けようとした。
俺たちの方はそんな彼らの様子を観察しながら、「さて、守り神とは一体何者なのか」という点について、みな共通して強い興味を示していた。
「その、守護神様というのは……」
ディアが守り神について深くたずねてみようとしてみたところで、ふと、振り返った視線の先、自分たちの背後に、例の黒い生物が姿を現わしていることに気付いた。
いつのまに。
音も無く、気配も無く。けれどその姿を視認した途端、一変して俺たちの周囲一帯に強烈な悪臭が充満し始めた。それが生物の吐息によるものだとは、さらに数拍遅れてから気付いた。
「出やがったなッ!」
猟師たちが一斉に武器を構え直し、そのうちの一人が発砲した。
俺はエッジとマグナの腕を引いて黒い生物の近くから離れ、ウルドはディアを抱えて倒木の上へ退避する。
穴の中で仁王立ちをする黒い生物の体長は大人二人分ほどもあり、穴の奥で見ていた頃の肉塊同然の潰れた姿からは似ても似つかなかった。しかしその緩慢な動作と、目と鼻が無い口だけの顔付きには先ほど見たものと同じ趣きがあり、同一個体であることに間違いはなさそうだった。ならばそれがなぜ、急に動き出したのか……いや、そんなことを考えているヒマは無さそうだ。
こちらが悠長に状況を分析しようとしている間にも、猟師たちは鉛玉の雨を惜しみなく撃ち込み続けた。
しかし、猟師の銃弾は溶けた生肉の中にめりこみ、あるいは弾力のある黒い皮膚にはじかれるなどして、効いているようには見えなかった。
荒々しい銃声とは対極的に、黒い生物な静かにその場にたたずみ続けている。そして悠然と、曲がった背骨の先にくっついた長細い首を伸ばして、周囲を見回した。何かを探しているのか、それとも逃げ道を探っているのか。体の向きを変え、細い後ろ脚を一歩前に踏み出そうとしたところで、猟師の一人が「逃がさねぇぞ!」と声を荒げ、ガラス瓶のようなものを投げつけた。
黒い生物の皮膚にぶつかったガラス瓶はバリンッと大きな音を出して割れ、中に入っていた鈍色の液体をその場いっぱいにぶちまけた。途端に周囲に充満していた悪臭の中に、アルコール度数の高い酒の臭いが混ざり込む。
酒で濡れた部位に銃弾がまたいくつか当たると、とある一発を境に黒い生物の体に火が点った。小さな種火はみるみるうちに酒のしみこんだ皮膚の上を撫でるように燃え広がっていった。
「ぎ、あ、あぁぁあっ!!」
黒い怪物が大きな口から苦痛に満ちた叫び声をあげる。どうやらこの攻撃は酷く効果的であったらしい。
しかし、苦痛にもだえる黒い怪物は、さっきまで大人しかった態度を一変させて、燃え盛る体をよじって猟師たちに向けて突進していった。
「回避!回避!!」
リーダーが叫ぶ。急いで左右に散り散りになる猟師たち。けれども黒い生物の動きは想像よりもずっと俊敏で、逃げ遅れた内の一人がその黒い後ろ足によって力強く蹴り飛ばされた。背中を強く打ち付け、地面を丸太のようにゴロゴロと転がる人間。
仲間がやられたことに腹を立てたもう一人の猟師が、再びさっきと同じガラス瓶を、炎が燃え盛る背中へ向けて投げつけた。ガラス瓶は割れ、生物の体をとりまく炎はさらに強くなる。そして燃える炎は黒い体からみるみるうちにこぼれ落ち、周囲の森の樹木に燃え移っていった。
白い森が、夜の森が、赤く明るい灼熱の炎に包まれていく。
炎の脅威は例外なく周囲を呑み込み、猟師たちが体に巻き付けていた木の葉の装備や衣類にも燃え移る。それでもなお、彼らは焦げた指先で引き金をひき、怯えた様子を見せずに発砲を続けた。
火柱のごとき炎の塊と化した怪物は大声をあげ、ついに猟師たちに背を向けて森の奥へと逃げ出した。あんなにボロボロになってなおも素早い獣のような身のこなしで、白い森の中を炎とともに駆け抜けていく。
猟師たちもまた一斉に走り始め、黒い生物の背中を追いかける。
両者がともに揃って森の奥へ消えうせ、見えなくなったことを確認してから、俺はやっとのことで安堵の息を吐いた。
けれどもそれから、ウルドたちがいた倒木の上を見上げたところで気付く。二人の姿もまた、黒い生物や猟師たちと一緒になくなっていた。