記述10 爆ぜる真紅の防波堤 第4節
「ね、気色悪いでしょ」
俺の背後で、ウルドが嫌悪感を隠す気もなくそう言った。すると、それまで目の前の黒い生き物をずっと見つめているだけだったディアが、話し声に反応してこちらを振り返った。マスクのせいで表情はわからなかったが、俺たちが穴の中に入ってきたことには今の瞬間まで気付いていなかったように見えた。ディアの後ろ姿はそれくらい真剣に、まじまじと、目の前に転がる異形を見据えていた。
「やあ、二人とも。わざわざ来てくれてありがとう」
彼はやや大袈裟気味な身振り手振りを用いて、俺とエッジに挨拶をする。表情がわからないなりにコミュニケーションがとれるよう工夫しているようだが、今はその努力がいつも以上に胡散臭く感じられた。何か誤魔化しているんじゃないかとか、悪いことでも考えているんじゃないかとか、腹の内を疑ってしまいたくなるような態度に見えてしまうのだ。しかし声色に関してはいつも通りのディア・テラスである。
「この生き物を助けてあげたかったんだな?」
エッジがディアの方へ一歩踏み出したところを見て、俺は自分が持っていたカバンを彼に手渡した。カバンを受け取ったエッジは、そのままさらに二歩三歩と前に出て、ディアの前に立つ。
ディアは自分の目の前まで歩いてきたエッジの顔をゴーグル越しの金色眼で見つめ、
「そうだよ」
……と、短い言葉で返事をする。
「なぜ?」
エッジは問い詰めることが義務であるかのごとく、質問を続けた。
「苦しそうで、見ていられないんだ」
ディアらしくない回答だと、この場にいる誰もが感じたことだろう。当人であるディアでさえもだ。
そこへウルドが会話に入り込んできて、少しばかり遠慮がちな、ぎこちない口調で文句を言った。
「こんなに得体が知れないうえに、すっかり死にかけているバケモノを助けようなんて、おかしいよ。でもディアってばぜんぜん僕の話を聞いてくれなくてね。エッジくんからも何か言ってあげてよ」
「すまない、ウルド。生憎だが、俺は人助けが好きなお人好しなんだ」
ウルドは絶句した。それから頼る相手を間違えたんだと気付き、一拍遅れてから俺の方を見る。俺は首を横に振り、頑固者ばかりだから諦めるようにと無言で諭した。
「こんなの、ヒトでも生物でもなんでもない! ただの生ゴミだ!!」
ウルドは顔をしかめ、ヒステリックに声をあげると、再び草藪の向こうへ一人で出て行ってしまった。その背中を見送ってから、俺は改めてディアに疑問をなげかけた。
「その中にある薬でどうにかなる状態には見えないぞ」
「必要なのは精神安定剤と痛み止めだよ」
「なるほどな」
命を救う気などさらさら無いと、ディアは言った。それはこの黒い生物の状態がもうすでに手遅れで、今の状況じゃあどうがんばったって助からないことを、彼もよくわかっているということだった。わかったうえで、貴重なフロムテラス製の薬を与えようとしている。
ならばここは一つ、黙って見守っていることとしよう。いくら貴重な薬とはいえ、所有者であるディアが「今使いたい」と希望するようであれば、誰にだって止める権利などない。だから俺とエッジはこれから行うディアの『無駄遣い』を静観することを選んだ。
エッジからカバンを受け取ったディアは、まず始めに中から白色をした清潔感のある薬箱を取り出した。外出用の分厚いグローブを外し、一度素手の状態になってから、薬箱の中に入っていたビニール製の手袋をはめなおす。それから器用な手つきで箱の中を漁り、必要な器具を次々と布を敷いた地面の上に広げていった。
「ちょっとだけ調合が必要だね」
液体状の薬品が入ったカプセルを手の平の上に転がし、ディアは独り言をぼやく。それからカバンの中からもう一つ、一緒に持ってきてほしいと頼まれていた手の平サイズの機械を取り出した。これがどうやら薬の調合を半自動で行うための便利アイテムであったらしい。ディアは薬箱の中にあったいくつかのカプセルや錠剤を、この機械の中へ詰め込んでいった。
薬剤師の経験でもあるのかと思わず感心したくなるほど、一つ一つの動作の手際が良い。彼はよほどこういった作業に慣れているのだろう。
忙しなく作業を続けるディアの横で、俺はチラリと地べたに伏したままの肉塊の方へ視線を向けた。肉塊は、相変わらずぐったりと重たく、今にも息絶えそうな呼吸を続けているだけである。けれどもこちらへ向けた眼球の無い顔は、どことなくだけれど、己のために献身的に薬を調合するディアの様子を静観しているように見えた。
そんな様子をディアもまた横目に観察していたのか、不意に彼がもう一度口を開いた。
「この子も被害者だと思うんだ」
『この子も』という言い方が気になったが、そこはあえて口を挟まないことにした。だから代わりに「被害者とは?」の部分について、問い訊ねてみる。するとディアは「どこかの研究所で生み出された実験動物だと思う」と答えた。
「単刀直入に言うと、俺はこの子みたいな姿をした生物を、今までにも何度か見たことがある。肉体が黒くただれて溶けていく症状にも見覚えがある。もちろんそれらは、俺が生まれ育ったフロムテラスで見聞きした記憶だよ」
ディアは作業を続ける手を少しも止めないまま、黒い生物の正体について自分なりの推察と考えを述べていく。
一言でいえば、細胞核の病気。それは生物の体を特定の状態に固定する役割を持つ『体の設計図』に異常を生じさせ、生命を魂ごと蝕む不治の病。
フロムテラスでは生物実験を行う研究所内で時折発生する症状で、発症者のほとんどが実験に使用された被検体であることが特徴であった。実験体は生命管理、機能移植、肉体改造などのあらゆる過程で体組織の大部分に薬品を浸透させる必要があるのだが、その際に過度な中毒症状に陥ったものの中から、さらに重篤な状態に陥ったものがこの病気にかかりやすくなるのだという。
生物の肉体をあるべき状態に保つ『設計図』に異常が生じた個体の体は『正しい形』を見失う。そうなると体を構成する一部の細胞、あるいは全身にいたる全ての細胞が、それぞれに隣接した細胞から分離し、お湯に入れた角砂糖のように体全体を溶け崩していく。
発病のきっかけは極度の精神性ストレスが関係しているといわれているけれど、一度発症したら完治させるのはほぼ不可能に近いとされている。せめてもの処置として飼育環境をストレスの少ないものに改めたりなどすることはあれど、発病するのは実験動物ばかりだから、少しでも寛解の余地が見られないようであれば、即刻失敗作として廃棄処分してしまうのが現実なのだという。
「この子は、その廃棄動物のなれの果てなのだろうね」
出会ったばかりの死にかけの実験動物。そんな特異な存在に親近感を覚え、どこのだれとも知れない身勝手な科学者の代わりに責任を感じ、さらには親身になって去りゆく命を慈しむ。その行為にどのような意味と意図があるのか、ディア・テラスとは全く異なる人生を歩んできた俺には少しも見当が付けられなかった。
彼は今、何を考えているのか。彼の動機とはなんだろうか。
俺たちがまだ聞いたことがない、知りもしない過去に対する後悔? それとも同情? 単なる慈愛? そのようにするべきだという教育でも受けていたのか?
俺も、エッジも、マグナも、ディアがどうしてこんなことをしているのかわからないまま、彼の行動をただ静かに見つめていた。
そんな中、あえて何も訊ねずに見守ることに徹していた俺たちに向けて、ディアは答え合わせでもしてくれているような口振りでこう言ったのだ。
「ただのエゴだよ。……でも、どうせ死ぬなら、苦しくない方がいいでしょ?」
悪いことではない。エゴではあっても、悪いことではない。善意からの行動でもある。
だから俺たちは、ディアの自由な選択を否定せずに黙って見守ることを選んだ。それがどれだけ無駄な行為だとしても、何も助からないとしても、変わらないとしても、この薬はやっぱりディアの所持品なのだから、所持者である彼が納得いくまで自由に使えば良いと、改めて思い直す。
そのうえで、やはり「自分本位な献身に過ぎない」とは、俺もエッジも、ウルドも思っていたことだろう。
しかし、この場においてもっとも謎に満ちているものとはやはり、今もまさに生死の境を彷徨い、うつろな眼差しを向ける、異形の生物の中にこそあるものであった。
「ディアは本当に、自分勝手なことばっかりするんだ」
草藪の向こうで恨めし気にこちらを見つめるウルドが、そんな言葉をポツリと、雨粒を一滴床に落とすようにつぶやいた。