記述10 爆ぜる真紅の防波堤 第2節
フライギアが白い森に生え広がる樹木の中に身を隠すように羽根をおろしてから、数分後、俺たちがいたエントランスにディア・テラスが姿を現わした。彼は俺とエッジが、あるいはソファの裏に隠れたマグナが部屋の中にいることを確認すると「やぁ!」と、少しばかり深刻そうな表情を見せながら近づいてきた。そしてこんなことを訊ねてくる。
「JUNKって知ってる?」
俺とエッジは互いに顔を見合わせてから「知らない」と素直に答えるた。するとディアは少しばかり上の空な口ぶりで「そりゃそうか」と呟いた。
ディアはそのまま部屋の中央にあったソファに腰をおろし、話し始めた。
「俺の故郷がフロムテラスって名前のハイテク都市だって話は、以前にもしただろう? ここにはとある要注意団体……いわゆる公的に黙認された犯罪組織みたいなものがあったんだ。それが『探求科学機関JUNK』。名前の由来は単純明快、機関を統率している親玉の名前がジャンクローザというんだ。そしてこの人物が、とびきり悪質なタイプのマッドサイエンティストでね。研究対象として関心を持たれたが最後、大量の人型歩行兵器を差し向けられて捕獲され、ひん剥かれて、切り裂かれて、電子データにまとめられるまで粉微塵に研究されつくしてしまう」
「ようは人体実験じゃないか。オマエの故郷ではそんなおっかない行為が、社会的に黙認されているって?」
ディアはコクリと残念そうに頷いた。
「彼女らの目的については流石の俺も知らないんだけど、まさかフロムテラスの外でまで活動をしているとは思わなかった」
「い、いたの? このあたりに?」
ソファの後ろから小さな頭が顔を出し、ディアに訊ねる。ディアはもう一度頷いた。
「ついさっき操縦室のセンサーに巨大な飛行物体の反応があってさ。なんだアレ?と思って確認してみたら、機体の表面にJUNKの所有物であることを示す青いバラのマークがついていた。見間違いじゃない」
「見つかると、やっぱり危ない?」
「君たちにとってはなんてこともない相手だと思うけれど、俺にとっては大問題だ。偶々すれ違ったこのフライギアにフロムテラス人の若者が紛れ込んでるなんてバレたら最後、何をされるかわかったもんじゃない。いや……最悪の場合、君たちまで巻き添えになってしまうかも。フロムテラス人は、都市外に出てはいけない民族だったはずだから」
マッドサイエンティストなるものがどのような思考をもった人物で、どのような危害を他者に及ぼすのか、俺にはイマイチうまく想像できなかった。少し頭をこらして埃被った記憶の底を漁り出してみたところで、うかびあがってきたのはアルレスキューレの地下で暮らす研究者たちの働きぶりくらいだ。勤勉な彼らは自らの職務を全うすることを至上の喜びのように思っていて、良い仕事ぶりを成し遂げる度に、それはもう満足げに、心の底から喜びに満ちた声を上げる。我々の成果がまた人々の暮らしに希望を与えるのだ、と。
けれどディアが言うところのJUNKという集団は、それとはまた違う風に感じられた。マッドとは、狂っているとは、一体どの段階から異常のレッテルを貼られてしまうのだろうか。
「ともかくオマエは、その飛行艇との接近に危険を感じて緊急着陸という手段を選んだわけか」
「あれは……ごめんね。俺もあんなに大きな警報が鳴るように設定されているとは思わなかったんだ」
こればかりは自分のミスだとしっかり認識していたらしいディアは、面目なさそうな顔で首を少しだけ斜めに傾けた。その素直な態度を見た頃にはもう、起きがけに感じていた憤りはすっかりぬるく冷めきってしまっていた。
「安全を第一に考えた行動だったっていうなら文句はない。今回については迷惑をかけてきたのはあっちの方みたいだからな。ただし、警報の設定はちゃんと直しておけよ」
「へへへ……以後気を付けます」
承知してるのかしてないのか判別しがたい、中途半端な返事だった。なぜならその後すぐに、ディアはソファから勢いよく立ち上がり、こう言ったからだ。
「よしっ! それじゃあ報告も終わったところで、さっそく探検の準備だ!! 未知の真っ白熱帯林が俺たちを待ってるぞ!!」
「いや、見つからないように隠れてろよ!!」
どうしようもない好奇心バカだなと、改めて思った。
緊急着陸からさらに一時間程度の時が過ぎた頃、ディアはいつものやたら厳重装備な野外活動着に大きな長靴をはいてフライギアから飛び下りた。目的は勿論、フライギアの周囲に広がる白い森の観察と調査……つまるところ、ただの探検だ。
ディアの後に続いてウルドとマグナも搭乗口の鉄板をカツンカツンと鳴らして降りていく。俺はエッジとともに彼らが白い森のぬかるんだ地面の上に足を踏み込む後ろ姿を眺めていた。
空気が、大荒野のド真ん中とは思えないほどジットリと湿気っていた。森の奥からは何かが腐ったような異臭がのろのろとした風に乗って流れすぎていく。こんな陰気な場所を観光しようと思うなんざ、大した趣味だ。
「ライフさんは来ないの?」
マグナがちょいっと振り返ると、俺たちよりさらに後ろ側で機材の上に腰をかけていたライフが立ち上がり、少しこちらへ近付いてから返事をした。
「今、何時だと思ってるのよ。もうすぐ夕方よ」
文句の言い様がないくらい完璧な言い分だった。しかしこんな正論を言われた側のディア・テラスは、華やかに浮ついた声色で、何も臆した様子なく言い返す。
「ちょっと周りを見てくるだけだよ。陽が暮れる前には帰ってくるから、心配しなくても大丈夫さ」
実に子供めいたことを言う。それを聞いてライフは「ご勝手になさい」とお手上げのポーズを取った。私はあなたの保護者なんかじゃないんだから、これ以上の文句は言わない。だからせめてこちらまで巻き込まないでね、ということを、暗に伝えているのだ。
「暗くなったって、僕がいるならどこでだって平気だよ。ディアのついでに、そっちの小さいのも守ってあげる」
ウルドに尊大な態度で指をさされたマグナは、蛇に睨まれた子ネズミのように飛び上がり、ディアの後ろに隠れた。ウルドはそんなマグナの行動を見て「ずるい!」「そこは僕の場所なのに!」と抗議の声をあげ、二人の距離を引き裂くように割って入っていった。マグナはすでに半泣きだ。よほどウルドのことが怖いらしい。ムリもない。俺もたまに怖いと思う。
「ウルドは頼もしいからな。だが、ここがどんな場所なのかまだ何もわからない以上、油断をしてはいけないぞ」
「わかってるよ、エッジくん。何かあったらすぐ連絡するように、通信端末だって持ってるもん」
ウルドは外套の下からもぞもぞと小さな通信端末を取り出し、「これでいいんでしょ」と言いたげに無言でエッジの顔を見た。いつもは我儘で人の話を聞かないウルドであるが、なぜかエッジを相手にした時だけは妙に大人しい。まるで親しい友人を前にしているように、肩の力が抜けた態度を見せるのだ。
エッジは次にディアの方を見て、話しかけた。
「留守番なら俺たちに任せておくと良い。夕飯だって用意しておく。だからちゃんと約束通り、陽が暮れる前に帰ってくるんだぞ」
「お父さんみたいなことを言うんだね」
ディアはマスクの下で微笑ましげに笑った、ような気がした。エッジも笑った。
「そう言われても仕方ないかもな。だが心配なのは確かだ。ここが本当に、以前に俺が噂で聞いていた通りの場所だとすれば、安全かどうかなどまるで保障できやしない」
アシミナークの白い森。エッジはほんの数刻前に、フライギアの中で俺たちに向けて、この奇妙な森のことをそのような名前で呼び、説明した。
物知りな彼とて幾年か前に噂で聞いた程度であるらしいが、ここにはどうやら野生動物が全く棲んでいないらしい。それこそ、虫の一匹すら残さず暮らしていない。塩分濃度の高い海水の中で生物が生きられないことと同じように、この森にも何らかの理由があって生態系というものが存在していない。もちろん、人間だって暮らしていない。
「まったくの未知な領域なんだ。だから気を付けて」
エッジはウルドたちに向けて、再び厳重な忠告をする。特に無茶なことばかりするディアの顔を真っ直ぐに見つめながら。ディアの顔はゴーグルとマスクで厳重に隠されているから、どんな表情をしているかはわからない。けれど声だけは無邪気に、誠実に「わかった」と承諾の意を示していた。
にも関わらず、それからまた三十分ほどの時が流れたタイミングで、俺たちのもとにウルドから通信が届いた。
『見たこともない、黒い、気持ち悪いバケモノを見つけた』
ハプニングの足音はいつだって、思いも寄らない方角からやってくるものだった。