記述10 爆ぜる真紅の防波堤 第1節
細く白く、すべらかな五本の指が、そっとゆるやかに水中で弧を描いていく様を見た。それは空からおちてきた一筋の風のようでありながら、確かにヒトの手の形をしていた。
結んだ手の平の真ん中にこもっていた空気が真っ白な気泡に変わり、今まさに、世界を青と白の二色に切り拓いていく。
軽やかで清々しい水音が、ささやくように鼓膜を揺らす。ゆらり、ゆらり、そのヒトの手は、分厚い水の幕をゆったりと揺らしながら、水の底へと伸びていく。何かを探しているように、まさぐるように、時おり左右に揺れるのだ。青い空の中を一羽の白鳥が羽ばたいていく、そんな景色によく似ていた。
やがて目当ての「何か」を見つけた指先が、冷たく固まった皮膚に触れる。腕だ。白い手の主はその腕をしっかりとつかむと、驚くほどやわらかく……まるで、巣の上で眠る雛鳥をそっとクチバシの先でくわえあげる親鳥のように優しく、水の外へと引きあげていった。
水の外は空の上。四方に広がる空はやはり青く、雲はやはり白く、美しかった。
白い手の主は見当たらない。どこにもいない。代わりにここには、自分がいた。この広い大空を自由に舞い飛ぶ力を授かって、ここに立っていた。
空を飛べるのだと気付くとともに、己の肢体に活力の稲妻が走るのを感じとった。それは天より与えられた祝福に他ならなかった。今ならばあなたはどんな奇跡でも起こせるだろうと、約束のような言葉を授かった。幸せになりなさいという意味だ。
さぁ、あなたの生まれたばかりの全能感がおもむくがままに、七色にまたたく世界のうち、東の始まりから西の終端までの全てをごらんなさい。そこにいない誰かに囁かれ、天を仰ぎ、地を見下ろした。
空は青く、大地は青く、海も青く、水平線はさらに色濃く照り光り、どこまでもどこまでも明るく輝かしく広がっていく。世界は美しいでしょう。豊かで華やかで、いつだって彩り鮮やかでしょう。
だからほら、たとえここに、独りきりしか生きていなかったとしても、それは哀しいことなんかじゃないのですよと、声は言った。
ほら、あの木の葉の間にできた美しい木陰のきらめきを見て。ほら、物寂しい砂漠にふる優しい銀色の雨のざわめきを見て。
生きとし生けるものたちの営みは豊かです。世界の全てが明るい未来を約束し合っている。だからね、ここではもはや、あの儚げな落葉すらも黄金色に輝いて見えるでしょう。
花の薫りは地に深く、鳥のさえずりは天高く。大地にふりそそぐ陽射しは透明で、頬を撫でていく風はどこまでも優しいでしょう。
輝くことを許されたものよ。泣き叫ぶことすら正しき営みであると赦せるものよ。愛し合えしものたちよ。
これは夏の記憶。鼓動を感じるでしょう。今もまさに、世界は成長を続けている。
それは全てを見守るものの愛在るために。それは全ての生死を見送るものの恵み在るために。祝福であるために。
そのはずだったのに。
どうして恋などしたのだろう。
求めるほどに遠ざかる。それは全てを求めなかったために。全てを愛せなかったために。
空は暗く。大地は赤く。海は火炎の中で燃え盛り、水平線は遥か彼方に消え失せた。歌を忘れた風がどこまでもどこまでも終わりない闇の中を吹き抜けていく。
青空だったものが波紋のように揺らいで、暗渠たる夜のベールを編みあげていった。
天から地へ、人へ、命へ、闇の塊は鉄の雨となって落ちていく。
その時「 」と、誰かが何かを唱えた。
顔を上げると、暗闇の奥底から白い光に包まれた誰かが、ゆったりと、煙の海に沈みこむようにして舞い降りてきた。
「 」名前を呼んでいるのだと気付いた。
差し伸べられた手をとる。あの時の手だ。けれどそれは青白くて、驚くほど冷えきっていた。氷の塊を掴んだような痛みにも似た冷たさが、皮膚を鋭く切り裂いて、腕の付け根まで駆け抜ける。
その瞬間に気付いた。つかみ取ったその人の手が、光の中で黒く変色している。不安に思い顔を見ようとしたら、頭があると思われた場所には靄か煙のような不定形の塊が浮かんでいて、それが、つないだ手の平の中へ墨を溢すように溶け消えていった。
黒く、黒く、黒く。何もかもが黒く、暗く、鈍く、重く。
陰鬱な影は天上の奇跡すらも呑み込んで、世界は、あっという間に暗黒に満たされていく。
「ただ、あなたがいなくなっただけなのに」
灰のように崩れ消えた景色の中で、誰かがまた、何かを言った。名前を呼んでくれた。
はたしてそれは、だれの……
『ビーーーーーッ!! ビーーーーーーーーーーッ!!!!
ビーーーーーーーーーーーーーーーーーーッ!!!!!!』
強制的な覚醒を引き起こす、けたたましい電子音が船室内に響き渡った。
なんだなんだと飛び起きて音源の方を睨み付けてみると、壁に備え付けてあった警報器が、鼓膜をつんざくアラート音をこれでもかという音量で部屋中にぶちまけながら紅白に点滅していた。その警報機のチカチカした瞬きのすぐ下には『緊急着陸』という言葉が、これでもかというほど主張の大きな赤文字でくっきりと表示されている。
やかましい電子音が鳴り続いている間、俺は寝起きということもあって、何が起こっているのかさっぱりわからなくなっていた。混乱というより、困惑だ。けれど警報の音がやんで、部屋の中が急激に冷え込んだみたいに静かになったところで、この困惑も憤りへと温度を変えていった。
もちろんこの憤りというのは、眠りを邪魔されたことに対する怒りではない。どこかの誰かさんが、また大した相談も連絡も報告もせずに、またまた気まぐれに旅の予定を変更したのではないか。そんな推測がシームレスに頭の中に流れ込んできたがために生じた怒りであった。
ディア・テラス。あの金髪に金色の目をした、人当たりの良さだけは一人前の旅仲間。彼の愉快で仕方ないと言う満面の笑顔が、嫌な推測の後に続いて俺の脳裏に浮かび上がってくる。
緊急着陸とは、一体どういう了見だろうか。とにかくこれについて問い詰めて、必要があれば脳天に拳の一発でもぶつけて反省させなければいけない。まだ出会って間もない俺の眼から見ても間違いなく、アレはブレーキが外れた好奇心の暴徒だ。誰かがきちんと叱りつけて文句を言い続けてやらないと、どこまでも身勝手に無用なハプニングを我々の身に呼び寄せようと動き回る。
どうせ今回もまた「ガイドに乗っていた巨大岩ってこの辺だよね!?」とか「荒野に一本松が生えてる!大きい!!」とか、そういうくっだらない理由で緊急着陸という迷惑行為に及んだに違いない。他の乗組員たちが「ディアが運転してるんだから文句言うな」とか「急ぐ旅でもないと思うし…」とか言ってディアを甘やかすのだって、俺からしてみればどうかと思うのだ。
文句を言ってやる。今度こそは首根っこをひっつかんで、三日間は操縦席から引きずり降ろしてやる。
そんな意気込みのままにベッドから立ち上がり、船室のドアを開いた。個室から操縦室へ続く狭苦しい廊下に足を踏み出そうとすると、そこで、俺と同じように今まさに船室から飛び出してきた紫色の頭と目が合った。ライフ・クルトだ。
ライフは部屋の扉から半分だけ廊下にはみ出した俺の姿を見ると、無言で肩をすくめるジェスチャーをした。それから俺には構わず、やや速めな足取りでスタスタと操縦席の方へ歩いていった。
その姿を見て、自分まで文句を言いに行っても仕方ないなと、少しだけ冷静になった。
そうしてあっという間に手持ち無沙汰になってしまった俺は、いまだ廊下と自室の間に立ち尽くしたまま、次にすることを考え始めた。時計を見ても中途半端な時間で、もう一度寝るのもどうかという風。
というか俺はどうして昼寝なんてしようと思ったのか、うまくきっかけが思い出せない。何か嫌なことでもあったのか。それとも単に眠かっただけなのか。妙な夢を見ていた気がする。心地いいような、悪夢のような、どっちつかずで現実味のない、へんてこな夢だったような気がする。寝起きのショックでほとんど忘れてしまったけれど、もう一度見るのは気が引ける内容だったように思える。
ダイニングに出て、水でも飲むか。そう思って俺は操縦室の方へ向けていた体を反転させて、共有スペースがあるフライギアの中央部へと歩いていった。誰が用意したのか知らないが、相変わらずだだ広い飛空艇だと、厭きれた溜息をついた。
「おはよう、ソウド。いいところへ来たな。外を見てみると良い!」
ダイニングへ向かう移動の途中、リビングに改造されたエントランスルームの壁際に立つエッジ・シルヴァに声をかけられた。こっちへ来いという彼の手招きに吸い寄せられるように近付いていく。
「ぴゃっ!」
何か茶色くて小さな物体がエッジの後ろから飛び出して、少し離れた位置にあるソファの影に逃げ隠れていったように見えたが……気にしないでおくことにした。あの小さい茶色はいつもこうで、俺が近付くと天敵に発見された野兎のようにすばやく飛び跳ね、物陰に隠れてしまうのだ。避けられているのはわかるが、理由は不明。子供に嫌われる理由など、体が大きいこと以外にはまったく心当たりがないので、とにかく気にしないことにした。
俺は相変わらず人の良さそうな笑みをニコニコ浮かべるエッジの顔を一瞥してから、「何か良いものでも見つけたのか?」と、適当に訊ねてみた。
するとエッジは自分の目の前にあるモニターを指さした。そのモニターには、今まさに飛行中のフライギアの外の様子が淡々と映し出されている。鉄の塊で囲まれたフライギアにおいては、船体外部に備え付けたカメラのモニタリングする映像を窓代わりにして、空の色や荒野の景色などを確認しているのだ。
「白い森がある」
エッジはそのような言葉を口にしてから、一歩後ずさってモニターの目の前の場所をゆずってくれた。「ソウドも見てみろ」という先の言葉を素直に聞き入れ、俺もまた彼と同じようにして、モニターの中を覗き込んでみた。
モニターの画面は白一色に染まっていた。雪か雲かと思えば、そうではない。あれは樹木だ。
空の低い場所を飛ぶフライギアの、さらに下。不毛の荒野が地平線の彼方まで続いていると思われていた大地の真ん中に、不自然なほど真っ白な、巨大な岩の塊のような何かがあった。
白い森だ。それ以外の言葉では表現しようもない、真っ白な森が、樹木の群れが、石灰石のような冷たく硬い佇まいをもって、荒野の真ん中に広がっていた。