番外記述9.5 どうせ染まるなら白がいい 第4節
もとより静かな地下研究所第三階層の中に、一際静かで張り詰めた空気をまとった部屋が一つある。白い壁と不透明なガラス窓で囲われたその部屋の入り口横には、ただ一言『安静室』とだけ表記された灰色のプレートがぶら下がっている。室内からは、空調機のファンが回る掠れた音の一つも聞こえてこない。
まるでこの部屋の周りだけ、時の流れから置き去りにされたように静かに、空気が沈んでいる。
この中に、イデアール・アルレスキュリアという人物がいる。そう言ったデニスは、数分前に私とダムダ様を扉前の廊下に残して、先んじて安静室へ入っていった。二人分の入室許可……もとい、謁見の許可をたまわる必要があったからだ。普段ならばたとえ赤軍の隊長の身分まで昇りつめた者であっても、まず得られない貴重な機会。けれども自分と同行するかたちを取れば可能であろうと、ダムダ様はおっしゃった。
会いたいか、会いたくないかでいえば、会いたくない。しかしそうは言っていられないほど、彼は高貴な身分にあるお方であった。本来であれば。
「中へ……」
部屋の中から戻ってきたデニスが、重たい鉄板でできた扉を両手で押さえながら私たちの入室を促す。彼女の表情は先程までの天真爛漫なものから引き締まったものに一変している。ここから先は、己が行う一挙手一投足、全てに気を抜いてはいけないという、緊張の表れであろう。
開いた扉の向こう側は、明るい照明に満ちた廊下から一変して重たく、暗澹たる空気が充満している。本当に、私などが足を踏み込んでもよいのだろうか。一抹の不安を抱えたまま隣にたつダムダ様の顔色を窺おうとしてみると、彼の方もまた私の様子を見ている最中だったみたいで、目があった。その後にダムダ様はフッと目を細めるだけの笑みを残し、怖気づく私を先導するように、部屋の中へ入っていった。だから私も観念して、彼の後に続いていった。
暗室みたいな部屋の真ん中には分厚い黒色のカーテンに囲われた天蓋があって、私は靴音一つ鳴らさないよう慎重に床を踏みしめながら、そこへ近づいて行った。
ダムダ様が天蓋の布をめくりあげると、その隙間から大人二人分はゆうに寝転がれる程度の大きさをしたベッド……ではなく、手術台が設置されていた。両脇には剣呑とした雰囲気をまとった無影灯が一つ二つ。ほんのりと黒色に発光したモニターが三つ四つ。音もなく縦に揺れ続ける心電図の表示。使い古した輸液ポンプと、点滴スタンド。そこからつながり出るか細いチューブの中を下っていく赤黒い液体の流れ着く先には、青白く変色した誰かの生腕が、ごろりと、生気なく転がっていた。
鈍色のシートが敷かれた手術台の上には、体中の外皮を剥ぎ落された一人の大男が横たわり、片目だけの瞼を閉じていた。
私は彼に、左目がないことを知っていた。それどころか、顔半分の肉も、骨も、左腕も、左足も、内臓の一部だって削ぎ落されて残っていない。欠損した部位の代わりに埋め込まれたものは、金属の板と、機械部品と、人工細胞。その痛ましい姿が剥き出しになった上半身には鉛色の義手がねじ込むようにはめ込まれているが、今はもう片方の腕と同じように、力なく手術台の上に打ち捨てられている。生体のままであるはずの右半身にだって、いたるところに何の意図で用意されたか不明な太い管が、おびただしいほどの量を備えて埋め込まれていた。
天蓋の内側の床は、彼の生命をかろうじてこの世に引き留めるために用意された、機械、機械、機械の山と、無数のコードと部品と、静かな電子の流動音で満ち満ちていた。
「お加減はいかがでしょうか、イデアール様」
ダムダ様が口を開き、手術台の上の男の名前を呼ぶ。返事はない。眠っているのだろうかと、そう思った数秒後に、重たく閉じきっていた彼の右瞼がじっとりと持ち上がった。ほとんど真っ暗な室内でも、なぜかどういうわけか、私にはイデアールの瞳の色が陰鬱に濁った青色をしていることがわかってしまった。
「貴方様も無駄話はお嫌いでしょう。此度も手短に、要件だけお伝えいたします。まずは昨今の国内外の政治状況についてですが……」
近況報告から始まる形式的な会話が手慣れた調子で進行していく。ダムダ様の話す内容には、貴族院の上層部であっても知りえないような極秘級の情報……例えば、フロムテラスがどのような方針で活動を始めたかなどの内容が含まれていた。けれどもその全てに対して、イデアールはやはり少しも反応を示さず、声を出さず、微動だにもしなかった。
すぐ側で淡々とした報告会が開かれる中、手持ち無沙汰となった私は手術台の端から垂れ落ちる彼の長い長い毛髪に視線を落とした。今ではすっかり輝きを失い、灰色にくすんでしまった銀色の長髪が目に入る。白銀の髪に青い瞳、それは彼が、かの救国の聖女の血筋より連なるアルレスキュリア王家の一員であることの、何よりの証であった。
彼は、今から五十七年前に起きた王族大虐殺事件の渦中において、唯一生き残った王族の一人であった。それがなぜ、今こうして私の目の前で命をつないでいるのか。理由は正直、この国の誰にもわからない。本人にだってわかっていないだろう。
本来ならば死んでいたはずのものを、この国の最先端技術である医療設備が生きながらえさせたという話ならば聞いている。けれどもやはりそれだけでは、肉も骨も内臓も、それどころか心臓だって潰れかけていたものを、何をどうして五十年以上も生かせ続けられたのかは、わからない。誰にもわからない。医師にだって、科学者にだってわからない。だから誰もが、この奇跡を不気味がって近付かない。初めに生きていてほしいと願ったものたちだって、今では一人も彼の前に現れない。見捨てられたのだ。いや、見限られたと表現した方がしっくりくるだろうか。彼はもはや生きる価値のない厄介者であると、この国の全ての民から評価されている。だからこそ、王族大虐殺に生き残りはいなかったと、皆が口にするのだ。
そして私も、そうやって彼のことを冷たい眼差しで蔑むものの一人であった。
王制国家アルレスキューレの君主という煌々たるものの地位を、血の底まで貶めた二つの要因。その最大の要因が王族大虐殺事件であるとすれば、もう一つの最悪の要因が、このイデアールという男なのだと、私はよく知っている。
『厄介者』『死にぞこない』『恥さらし』『気狂い』『だから王族は滅んだのか』
同情や献身などという善意だけでは、どうにもできない現実がここにはあった。
十年経っても、二十年経っても、三十年経っても、彼はずっとこうして真っ暗な天蓋の中で、定期的なメンテナンスによる命の管理を施されながら生きている。五十と七年が経過した今となっては、もう王族の正統な血筋になど誰も期待はしていないというのに。
あぁ、どうしてこの男はまだ……
「報告は以上です」
ダムダ様のよく通る耳障りの良い声が暗闇の中に浸透した。それを聞いて私は、はたと我に返った。とても悪いことを考えそうになっていたところだったみたいで、自分で自分のことがどうにも恥ずかしく感じられた。
報告は以上と、そう言ったダムダ様の顔をイデアールは暗い青色の瞳でジロリと見据える。ダムダ様は彼が言葉を述べることを辛抱強く待ってみせる。するとしばらくして、イデアールは青紫色に変色した血の気のない唇をわずかに開いた。
「帰れ」
……と、それきり言っただけで、彼は再び口を閉じてしまった。瞼まで閉じなかったのは、許可をくれてやった以上は退室するまでは相手をしてやろうという、彼なりの温情だろうか。
ところが、ダムダ様はあの程度の威圧で簡単に怯むようなものではなかった。
「いやはや、常であればイデアール様のおっしゃる通り、報告のみで帰るところではあります。しかし此度は国内外の……あなた様にとっては正直興味の欠片も存在しない話とは別に、もう一つ、大事な話をお持ちいたしました」
ここにきてやけに勿体ぶった調子で話すダムダ様の様子に、私までが違和感と不穏な空気を感じ始める。彼は一体、これから何をするつもりなのだろう。そう思った矢先に、ダムダ様は自らの懐から何かを……一台の小型通信端末を取り出すと、数回の操作をした後にそのディスプレイ画面を「ご覧くださいませ」と一言添えてから、イデアールに向かって突き付けた。
イデアールの視線が、やけに明るく設定されたディスプレイの表示画面にぶちあたる。それから……しばらく、沈黙の時間があった、その後に、イデアールの巨体が突如として手術台の上から起き上がった。
ブチブチとコードが千切れる音が暗闇の中に派手に散らばって、その直後にはもう、イデアールの鉛色の義手はダムダ様の胸倉を掴みあげていた。けっして小柄とはいえない大人の男性一人分の体が、床の上からいともたやすく持ち上がった。
そしてイデアールは自分の腕の先で掴みあげた男の顔を血走った眼差しで睨みつけ、低い声で恫喝するようにこういった。
「何のつもりだ」
怒りとも嘆きとも知れない感情が乗った声色であった。あるいはそれは、純然たる悪意や憎悪といった私などでは到底知りえない領域のものであったのかもしれない。
「何のつもりだと聞いている!!!!!」
掴みあげられたダムダ様が返事をするよりも先に、あるいは返答の上から覆いかぶさるように、イデアールは大声で続けざまに怒鳴り声をあげた。そこで私はいよいよ異常を感じて、これは想定した事態であるのかと、心配になってダムダ様の顔とイデアールの顔を交互に見回した。
「何のつもりも何も、見ての通り……」
「ありえない!!!ばかげている!!!!!
ふざけるな!!!!ふざけるな!!!!!!
この私の前で二度とこのようなことをっ、このようなものを見せるな!!!!!!!」
私はもう一度、確認のためにダムダ様の顔を見た。彼は笑っていた。
「……ふざけてなどおりません。そして、冗談でもございません」
「あの女は死んだ!!!そうだろう!!?まちがいない、まちがいないのだ……あの女は、彼女は……あぁ、ああああっ……? 違う!! キサマ、嘘を……嘘をついているな!!!!!私に!!!!!私に!!!!!!!!!!」
「全て真実です。すでに大方の調べはついており、確証をもったうえでこうしてイデアール様の御前へ参上いたしました。全て真実。貴方様を騙そうと思う気持ちなど、今の私には少しもございませんよ」
「貴様の言葉が信用できたことなど、今までにもただ一度足りとて存在していない!!!!」
「それはまた正直なご意見でございます」
イデアールの腕にいまだぶらぶらとつるし上げられて宙に浮いたまま、ダムダ様は余裕しゃくしゃくといった様子で優雅に笑った。そんな風だから敵を増やしてしまうのだ。
「ありえない」
「ですから、真実であると」
「ばかげている」
「証拠ならば他にもございます。写真で不十分だというのなら、映像でも。あるいはこの方の毛髪の一つや二つでも確保してきましょうか?」
「信じてたまるか、こんなもの!!」
「それは……無理もないことでしょうね。ですから、受け入れるのは今すぐでなくても構いません」
そこまで会話ともいえない会話が続いたところで、とうとう苛立ちが頂点に達したイデアールがダムダ様の体を床に向けて叩きつけた。
男性一人分の体が床に思いきり打ち付けられる重たい音が部屋に響き、それと同時に手術台の下に散らばっていた機械類がゴロゴロガラガラとさらに大きな音を立てて散乱する。
自分が投げ捨てた男が床の上を無様に転がる様を見たイデアールは、しかしそれだけでは少しも満足した様子もなく、ドサリと手術台の上から足を降ろし、その巨体を立ち上がらせた。じわりとダムダ様の方へ近付き、再び腕を伸ばして掴みあげようとする動作を見せたところで、私はついに辛抱しきれず、二人の間に割って入ってしまった。
「ダムダ様!!」
けれど助けに入ったはずの私の体は、イデアールの機械でできた左腕にあっけなく弾き飛ばされて、あろうことか宙を舞った。気付いた時にはもう私は部屋の壁に背中を強く打ち付け、床の上に倒れ伏していた。
何が起こったのか。後には激痛しか残っていない。
そうだ、投げ飛ばされたのだ。あのイデアールという死にぞこないの老体に。肉の内側にたっぷりと詰め込まれた金属の塊が、何のためらいもなく私の胸に横薙ぎでぶち当たり、宙を舞った。
ゲホゲホとわずかに血の混じった咳をする。そうしている間にも、イデアールはダムダ様に向けて不毛な怒鳴り声を上げ続けている。助けなければ、という思考が再び頭の中に蘇ってきたところで、ちょうどタイミングよく自分のもとへ駆け寄る一つの少女の姿を見た。
「お兄さま! 大丈夫ですか!? お兄さま!!」
「だい、じょうぶ……ぜんぜん平気ですとも! それより、デニス。今はダムダ様を……」
「は、はい!はい! でもでも、どどど、どうしましょう」
慌てふためくデニスの様子を見てから、私は機械がそこら中に散乱した部屋の様子を一望した。
「何か、あのお方を止めるような手段は用意されていませんか? 彼があのように暴れるのは、一度や二度ではないと聞きます」
「それは……あ、はい! 思い出しました。確か、手術台の横に緊急用のレバーがあります」
レバーと言われてわずかに不安になったが、この際細かいことは気にしていられない。私はデニスに「ここから動かないように」と注意を言い付けてから、床から立ち上がって再びカーテンの開いた天蓋の方へ駆けていった。
幸いなことにイデアールはこちらに気付いていない。はなから私のことなど少しも眼中になかったのかもしれない。それはそれで腹が立って仕方ないが、今にとっては都合がいい。
手術台の横には、確かにデニスが言った通りの不穏な形状をしたレバーが一つだけ備え付けられていた。私はその取っ手部分を力一杯手で掴み、レバーを引き下ろした。
途端に、部屋中に響き渡っていたイデアールの怒鳴り声がピタリと止んだ。
「よりによってそのレバーを選ぶとは、お二方揃ってなかなか容赦のないことをなさる」
怒鳴り声と入れ違いになって聞こえてくるダムダ様の愉快そうな笑い声。それを聞いて私はホッと安堵した。あのダムダ様がこの程度で大怪我をするなど、まずもって想像できないけれど、緊急事態として対処することに間違いはなかったようだ。
改めて天蓋の下から外へ出てみると、部屋の中にはダムダ様が立っていて、それと入れ替わりでイデアールがうつ伏せになって倒れている。
「強烈な電気ショックと共に筋肉と神経を麻痺させる薬剤を投与する装置です。パニック状態になった患者や被検体を一時的に大人しくさせるためのものですが、使用したらしばらく意思疎通の一つも満足にとれなくなります。これでは、続きのお話をするためにはもう数日待たなければいけませんね」
「あの……ですが、助かって、良かった……ということで、いいんですよね?」
恐る恐る訪ねてみると、ダムダ様は「その通り。ありがとうございます」と素直な笑顔で感謝をのべた。何やらまた彼に上手いように利用された気分にしかならない。
「それで、ダムダ様……肝心な話なのですが」
「一体何を見せたのか、貴方も気になりますでしょう?」
私のような若造の考えることなど二手三手先までお見通し。ダムダ様は自分の手の中に握りしめていた小型端末を、何の出し惜しみもなく私の前へ差し出した。
一体、あのイデアール・アルレスキュリアに何を見せ、あそこまで動転させたのか。気になって仕方がなかったその答えを目の当たりにして……今度は私が驚愕する番になった。
割れたディスプレイの真ん中に表示されていたのは、美しい薄氷色の髪を持つ、とある若者の写真であった。