番外記述9.5 どうせ染まるなら白がいい 第2節
この世界には悪いものが溢れすぎている。目を大きく見開いただけで眼球を焼く太陽などは、その最たる例であろう。家屋を薙ぎ払う暴風もしかり、濁流と共に一斉に降り注ぐ毒雨もしかり。死骸の小骨や瓦礫屑などが混ざった砂嵐だって、何かの趣味が悪い冗談だとでも言ってもらいたかった。
悪とはどうして存在するのか。
痩せた大地に芽吹かない作物も、皆がいうには悪なのだそうだ。コンクリートと鉄の檻に囲まれた畜産工場で育つ家畜たちも、悪。犯罪者と病人の間に生まれた子供たちだって、悪。
悪、悪、悪。
さらにいえば私たち人類は、天成の過ちの上に新たな過ちを作り重ねることが大得意な生き物であるらしかった。大量の火薬、石炭、鉄鉱石を背に詰め込んで大陸を横断する貨物列車の行く末を遠目に送り見るだけで、その残酷な現実の存在感を十二分に理解できるはずだろう。
今日も私の頭上に広がる灰色の空には、どす黒い工業廃棄物の煙がたちこめている。生きているだけで身も心も悪性に染め上げられていく。ここは、そういう『世界』だった。
人間なんて大したものではない……と、誰かが得意げに罵倒を投げ捨てる音が、どしゃ降りの雨みたいに私の周りに満ち満ちている。ここにこのように生まれ落ちたこと、それこそが、私たちの最たる罪なのだ。諦めなさい。受け入れなさい。そのように生きなさい。
はい。私もその通りだと思います。
希望を抱くには何もかも物足りない。正しく在り続けることを『選ぶ』のは難しい。善性では腹はふくれなかったくせに、秩序を忘れた自由の暴力は私たちに多大な富を与えてくれた。不公平で、不条理だ。
だからこそ、だからこそ。私たちには救済という名の『赦し』が必要であった。
あぁ、高潔さよ、清貧よ。愛しき贖罪の贄たちよ。あなた方の価値など尊さなど、世界にとってはどこ吹く風。
この世に悪性と過ちしか存在しえないと言うのならば、悪行に生きることすら間違いなのに。ならば正しきものとは一体どこにあるというのか。
私たちは、この真っ黒な大穴の底で、蠱毒にまみれて黒く黒く汚染されていく。
ならばせめて、己が口にする食べ物くらいは好ましいものを選びたい。そうは思わないだろうかと、誰にともなく返事を求める。
例え私の求めるものが、何の栄養にもならない氷の粒子にすぎないものであったとしても。
どうせ染まるなら白がいい。
「雪は、天上におわす神様が穢れた地上の生命を按じて流した涙なのだと、聞いたことがあります」
『誰から聞いたんだい?』
「さて、どなたでしたっけ。きっとその昔に出会った、見知らぬ旅人が歌った詩の一片か何かでしょう」
『詩、ねぇ……確かに随分とロマンチックな発想だ。意中の相手と二人っきりの時にでも話題にしたら、良い雰囲気になるかもしれないな』
「茶化さないで下さい。私は……っ」
真剣に考え事をしている最中であって……と、通信機の向こう側でヘラヘラ笑う歳の離れた幼馴染に抗議の言葉を述べようとした。ところが声を出そうとしたところで、急に開いた口の中に大粒な粉雪が入り込んできてしまった。冷たい塊が口の奥をキンと冷やし、私はたまらずケホケホと二回三回とむせた咳をした。ビックリして手から落としそうになった通信機から聞こえる笑い声は、さっきより大きくなってしまっていた。
やっと落ち着いたところで、私は改めて薄く黒ずみ始めた真昼の空を恨めし気な気持ちで仰ぎ見た。出掛ける時から降っていた粉雪は、陽が傾くと共に、徐々に量と嵩を増していっている。この調子ならば、もうすぐ本降りになるのだろう。
「それより本題ですよ、ディノ・トラスト。今、こちらから映像を送信しました。そちらの端末画面で確認してください。アレを、どう思われますか?」
通信端末の撮影画面越しに見える、赤褐色の行列。拡大してみれば、それは崩れかけのブロック階段を素足で一段ずつ登っていく、グラントール人の集団であるとわかる。
男性も女性も、老人も子供も、皆一様に青ざめた顔色で足元を見つめたまま先を急ぐ。なぜなら彼らの手足には使い古された拘束具がはめられている。口には猿轡が、剥き出しの素肌には乱雑な筆跡の囚人番号が、背中には灰軍兵が抱え持つ銃剣の切っ先が。少しでも列の中で遅れてしまえば、見張りの兵士に何をされるかわからない。そういう心地のまま、寒空の下を薄着で行進させられている。
行き先はもちろん、この街でもっとも大きな建物である、収容所だ。
『どう思うも何も、ハイマートでは実に日常的な光景じゃない? 今回はちょいと、頭数が多すぎる気がするけどねぇ』
「貴族院は本気でグラントール人を国王暗殺の首謀者に仕立て上げようとしている」
ドミニオン陛下が殺害された夜のことを思い出す。
私はあの日、たまたま休養のためにアルレスキューレの城下街区画に滞在していた。そこで城のある街の中央部がやけに薄暗いことに気付き、近くまで立ち寄ってみるとどうだ、城壁の内側は常夜灯の光すら消え失せた真っ暗闇になっていた。
人が騒ぐ喧噪の一つも聞こえてこないことに異変を察し、私はすぐさま城内で勤務しているはずの黒軍の知り合いの通信を試みた。しかし事件の首謀者どもは驚くほど用意周到で、赤軍が使用する通信端末からは黒軍どころか、金にも灰にはつながらなくなってしまっていた。
これはいよいよ何かとんでもないことが起きているに違いない。そこで私は同じく城下街に滞在していた休養中の部下たちに可能なかぎり集まってもらえないかと要請をかけ、門前まで終結させた。数こそ心もとないものであったが、皆忠誠心に篤い素晴らしい精鋭たちが、私の呼び声に応えてくれた。
集まった部下たちと共に城内に突入してみると、広場や廊下のいたるところで夜間警備の兵士たちが倒れている姿を発見した。慌てて助け起こしてみたところ、大きな外傷は見られない。どうやら毒性のある睡眠薬で意識を奪われてしまっていたようだ。助け起こしたことで意識を取り戻した者の証言によれば、自分たちが昏倒してしまったのは、不意打ちのように城内へ投げ込まれた発煙弾が原因であったそうだ。
道なりに助け起こせるものは助け、たまに混じる重傷人を手の空いている部下に託して城外へ送り出す。そうやって仲間の数を増やしたり減らしたりしながらアルレスキュリア城の中を走り回るうちに、最後の到達点として辿り着いた場所が、あの、ドミニオン陛下の寝室であった。
寝室へ近付くと、壁の奥から誰かの話し声が聞こえてきた。少なくともドミニオン陛下の声などではない。しかし話し声の主たちもまた私たちの接近に気付き、こちらが扉をぶち破って室内に入り込むより先に、部屋の大窓から飛び降りてしまっていた。二つの影は城の中庭を逃げ走り、どこかへ消えてしまう。
ドミニオン陛下の死因は、その日の晩餐で食事に混ぜられた毒によるものであるらしかった。ならばあの夜に私が取り逃した二人は何なのだろう。考え直してみたところで、私がとんでもない失態を犯してしまったことは変わらない。
『陛下の死因が中毒死な以上、真犯人はグラントール人ってのはおかしな話だもんなぁ。なにせドミニオン陛下は立場上政敵の多いお方だったうえに、人一倍神経質な性格をしてらっしゃった。日頃の食事だって、陛下が直々に選んだ親衛隊の連中が用意したものしか口にしていないはずさ』
「あの日に中庭を走り去って行った二人から何か話を聞き出せたら、少しは……」
『どうだろうねぇ』
通信端末から消極的な相槌が聞こえてきて、私は溜め息を吐いた。
肝心なのが実行犯ではなく首謀者の方であることはわかっている。だからこそ気が重いのだ。候補が多すぎて絞りきれない。
なによりも、犯人を突き止めて制裁を加えられたところで、空席になってしまった玉座に新たな主人が現れてくれるようになるわけではない。今のアルレスキューレの玉座とは、国王とは、座すれば一晩にして首が落ちるとまことしやかに囁かれるほど敬遠されたものへ、変わり果ててしまっている。
眼前で連行されていくグラントール人の行列の最後尾を歩いていた老人が、ブロック階段の最後の一段を登り切る。その様子を見送った後、私は通信相手へ送っていた映像の共有を取りやめた。
「彼らは……国民の不満を中枢から外側へ逸らすためのスケープゴートにすぎません」
『生真面目で潔癖なテディちゃんのことだ。どうせ真犯人がいたらとっちめてやりたいって思っているんだろ? なのに協力者がいなくて途方に暮れているというわけだ。生憎にも最も頼りになる幼馴染み兼大親友のディノくんは国外任務の真っ最中で、今はどういうわけかラムボアードの別荘地を満喫している』
「べ、別荘!? それは聞いていませんよ!!」
『いやはや、ここの主人がダムダ・トラスト様の大ファンだったみたいでさ。黒軍の隊長直属部隊でーすって言った途端におおはしゃぎし始めちゃったもんだ』
「いいなぁ……じゃなくて! 犯人の話!!です!!」
『わかってる、わかってる。でも俺以外の人を当てにしたところで、この忙しい時期に無駄な時間を割いてもらうだけになっちまうぜ? なんといっても、この暗殺事件はもう一週間も前に解決してしまっているんだ。貴族院連中が自分たちの息がかかったグラントール人を捕まった暴徒集団の中に紛れ込ませ、「自分たちの計画だ」と豪語させたことでね』
「私だってわかっています! わかっていますとも! こんなものは、結局ただの自己満足にすぎない!! でも、それでも私はですね……っ」
今となっては間違いを正したところで混乱が増すだけ。誤解は誤解のまま真実の顔をして表を闊歩する。
さらにいえば、大ホラを吹いたグラントール人は一人だけのうのうと国外へ逃亡したらしい。その際に証拠の数々も処分された可能性が高い。それでも、ゆるせない悪がここに残っているのだ。
『…………ああ、そうだ。そういえばね、ラングヴァイレ卿。うちの黒軍隊長が「近々貴方と対談したいことがあります」と言っていたよ』
「隊長って……ダムダ様が?」
ここに来て意外性の高い話題がディノの口から飛び出して来て、私は目一杯の声色でいぶかしんだ。あのお方が赤軍隊長である私に用があるなんて、よほど碌でもないことが始まる合図に違いない。
『まぁ大体想像の通り。次期国王の推薦と評議について、愛国心の権化みたいな赤軍隊長殿の意見を聞いておきたいとのことだ。そのついでに、先の件の情報でも聞き出してくるといいさ。ラングヴァイレ卿にならたぶん……少しは話してくれるだろうからね』
「ディノぉ……」
やはり頼りになるのは優秀な幼馴染だ。少し回りくどくて意地悪なところが多すぎるけれど、彼に相談してみて本当によかった。
しかし、ダムダ様。ダムダ様かぁ。
こんなご時世であればこそ、最も相手をしたくない人物であるのは間違いない。一方でディノが言う通り、上手くいけば他では手に入らないとっておきの情報を得られることも疑う余地がない。あの人はいつだって、全てに愛着を持たぬまま、全てを支配している。そういう人であるはずなのだ。
『でも気を付けなよ、テディ。最近のあの人は、なぜだかいつもより機嫌がいいんだ』