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それでも神話は生誕するのか  作者: 鵺獅子
番外記述9.5 どうせ染まるなら白がいい
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番外記述9.5 どうせ染まるなら白がいい 第1節

一方その頃、あの人たちは……を語る、番外編です。

 一人でなんでもできると思っていた。あんな父親に頼らずとも、あんな母親の言うことをきかずとも、私は私が育てあげてきた九年分の肉体と強く気高く立派な意志の力さえあれば、全てを成し遂げられるはずだと思っていた。

 だから私はあの日、習い事の時間に教育係の目を盗んで家から抜け出した。

 どこか行きたい場所があったわけでも、家の外でやりたいことがあったわけでもない。しいて言うならば、大人たちを目一杯に困らせてやりたいという魂胆があった。自分勝手な大人たちに一矢報いたい。もっともっと、小さな私の意見に耳を傾けてくれるようになってほしい。尊大で愚かしい日頃の行いの数々を少しでも省みてもらうためのきっかけを、己の手で生み出してみせるのだ。

 だが、どんなに虚栄に奮い立たせた万能感でもって自分の心と体を鼓舞しようとも、幼さゆえの未熟さと、持って生まれた小心癖ばかりは、どうにもならなかった。

「どうして家出なんてしたんだろう」

 子供の私が家から持ち出した精一杯の勇気など、屋敷の門を飛び出してほんの数刻もしないうちに使い果たしてしまうのが落ちである。案の定あっという間に途方にくれるばかりになってしまった私は、家からそう遠くない場所にあった路地裏の隅にうずくまった。

 さっきまで頭の上に浮かんでいたはずの太陽は、町中を漂い始めた深い深い夜霧の中へとぷりと落ちて隠れ消えた。

 日暮れとともに気温も急速に低下していく。上着をきちんと羽織ってさえいれば大丈夫なんて考えは甘かった。毛布の熱も暖炉の炎を見当たらない野外の夜風は、想像よりもはるかにすんなりと服の隙間に入り込んで、その下に隠したはずの素肌から体温を奪っていく

 今晩はやけに冷え込む。何かがおかしいと思って暗く陰りゆく群青色の夜空を見上げてみると、その冷えた頬に、冷たい雫がツンと小突くように落ちてきた。何かと思って目を凝らしてみると、頬をぬぐった毛糸の手袋に小さな白い結晶が一つ二つとくっついていることに気付く。


 初雪だ。

 私の故郷、灰色の町ハイマートの夜の空に、今年最初の粉雪がふる。

 

 真っ黒な夜の街を、少しずつ、少しずつ、粉雪の白が塗り潰していく。この町に住んでいれば毎年毎年飽きるほど見ることになるもののはずだけれど、この年で九歳になったばかりの私にとって、雪のふる故郷の景色というものは、何にも勝るほど特別なもののように見えて仕方がなかった。

 私はいてもたってもいられず、路地裏から走り出す。もはや寒さにふるえている場合ではなかった。

 ハイマートで一番大きな車道の横を通り過ぎ、鉄橋をいくつか渡り、何度も空を見上げながらあちこちを走り回る。何度も水溜まりに足を滑らせそうになりながら、あるいはしっかりと滑り転びしりもちをつきながら、どこでもないどこかを目指す。もっともっと、雪がよく見られるところへ行きたい。そう思って走り続けた。

 やがて町の郊外にある廃工場までやってくる。この近くには長い間誰にも使われていない駐車場がある。広さもあり、障害物がないために地域の子供たちの遊び場の定番になっている場所であるが、今は誰の姿も見当たらない。私はそれを好都合と思い、駐車場の真ん中へ走っていった。走った後にはくっきりとした足跡が残る。その頃にはもうすっかり降雪の勢いも強くなり、もはや粉雪と呼べるものではなくなっていた。

 ここならば存分に舞いふる雪の美しさを鑑賞できるはずだろう。そう思った私は、改めてもう一度雪ふる夜空を仰ぎ見た。見上げた額に冷たい温度が、ぽつり、ぽつりと小さく触れる。空に向けて広げた両腕の服の袖に、手袋の上に、布膨れに着込んだコートの肩に、小さな雪の塊が吸い込まれるようにふってくる。細やかに積もっていく。私は満足げに、白い息を吐き出した。

 私は雪が好きだった。

 誇らしげな心地が胸の内に芽生える。いつもならば「風邪をひくからやめなさい」とすぐに叱責される行為なのに、今は思う存分に両腕を広げて、目の前の雪を思う存分に堪能できる。それは私にとってとびきりの贅沢であるように感じられた。

 雪は美しい。雪ふる町は美しい。灰色の空は、鈍色の大地は、石とコンクリートばかりで埋め尽くされた故郷の町並みは、それでも雪さえふれば美しい純白に変わってしまう。なんと素晴らしいことだろう。なんて神秘的なことだろう。

 きっと、今私の目の前に広がるこの光景は、世界中のどこよりもなによりも素晴らしいものなのだと、誰かに向けて大真面目に自慢してしまいたくなる。それほどまでに、この時の私は興奮と幸福で胸の中をいっぱいにしていた。

 しかし結局のところ、雪は雪。特段の準備もせず小さな氷の雫を体いっぱいに浴び続けていれば、誰だって寒さを感じずにはいられない。夢中で雪の中をせっせと駆け回っていた子供とて、指先がうまく曲げられないほどかじかみ始めたところを見れば、家に帰りたくなるものである。

 ところが物事はそう簡単にゆくものではない。自分は現在『家出』という一大チャレンジの真っ最中なのだ。寒いからという理由で自分から折れてしまうのは、やっぱり悔しい。ならばどうすればいいのか。考えたところですぐには答えは出ない。

 体が不調に気付くと、たちまち心も不安を思い出す。気付けば握りしめた拳の中に、さっき路地裏に投げ捨ててきたはずの心細さが舞い戻ってしまっていた。ふいに泣き出したくなるような衝動まで心の内側からせり上がってくる。今にも目元から零れ落ちてしまいそうになるそれらの感情を手袋の内側で押さえこみ、もう一度顔を上に向けた。粉雪があひそやかに積もった睫毛の下に、ひんやりとした風が吹く。

「だいじょうぶ。平気!」

 手袋の先で頬をつねって、ぽんっと叩くと、ほんの少しだけ熱い決意が舞い戻ってくる。

 とりあえずは……どうしよう……この吹き抜けでとても寒い駐車場から立ち去るくらいのことは、しておいた方が良いのかな。

 そう考えた私は、なんとも心もとない足取りで積もりたての白い絨毯の上を歩き始めた。ちょっとだけ無意味に振り向くと、自分が歩いてきた道の上に丸い足跡がぽつんぽつんと残っていた。それ以外に、雪の上には何もなかった。

 

 

 しばらく夜のハイマートを一人で歩き回った後、私はさっきの廃工場のすぐ近くにあった雪避け屋根の下で立ち止まった。ここには錆びたドラム缶がいくつか転がっていて、ベンチ代わりにして休憩するにはちょうど良いと思ったからだ。

 ドラム缶の表面に雪は積もっていなかったけれど、薄い氷が張っていた。それらをパタパタと手の平ではたきおとし、ポケットから出したハンカチを敷いてから腰をおろした。着込んだ服とハンカチ一枚ごしでも、お尻はちょっとだけ冷たかった。

 それからさらに私は雪避け屋根の周りをキョロキョロと厳重に見回した。近くに誰もいないことが確認できたところで、ドラム缶の上に両足を持ち上げ、それらをコートの下にすっぽりと隠した。とても人様にはお見せできない恰好にはなってしまうが、こうやって体を小さく丸めて、手も足も体の真ん中に隠してしまえば、もう少しくらいこの寒さを耐えられるだろうと考えたのだ。実に名案である。

 そんなこんなで、私がこのように可愛らしい努力をしている間も、夜の町には雪がふる。

 ポツリポツリ、サラリサラリと雪はふる。

 そこに、あの人が現れた。

 

「こんな所で何をしているんだ?」

 ハッとして声がした方へ顔を向ける。いつのまにか、雪避け屋根の外、ドラム缶から少し離れた雪景色の真ん中に誰かが立っていた。

「もうすぐ雪は本降りになるだろうに」

 暖かそうな毛織物のローブ。子守歌のように聞き心地のいい声色。優しい眼差し。体いっぱいに不思議な魅力をまとった見知らぬ誰か。

 本当に、どうしていつのまに? あんなにいっぱい確認したのに、どうして?

 大急ぎでコートの下から足をひきずり下ろそうとしたら、焦りすぎてそのままコロリと雪の上に転がり落ちてしまった。

「へぶっ!」

 とてもカッコ悪い。

 雪の上に顔をうずめた醜態を見せつける私に、その人はなおも優しく「怪我はないか?」と話しかけてきてくれた。心配しているというよりは、面白いものを見つけた時に出るタイプの楽し気な声色だったと思う。

 近くまで歩み寄ってきたその人は、雪の上にぺたりと座り込んだ私の体を ひょいっ と、思ったより強い力で助け起こした。ペコリと一礼。それからまた中途半端にハンカチがずり落ちたドラム缶の上に座り直した。

「隣に座ってもいいか?」

 まだ少しだけ警戒していた私は、声は出さずコクリとうなずくだけの返事をした。

 見知らぬ大人の人だ。優しそうに見えるけれど、大人は大人。子供の自分はいつだって馬鹿にされる立場にあるし、何を言われるかわからない。

 それから少しの間、沈黙があった。できれば無視をしたかった。ドラム缶から飛び降りて、この雪避け屋根とは別の場所に避難してしまおうかとも考えた。でも、できなかった。私は隣に座るその人の横顔をちょっとだけ見て、また雪景色の方へ視線を戻した。

 初めて会った人だったけれど、嫌いじゃないなと思ってしまった。もう少し、隣にいてもいいかなと思う程度にはだ。

「この町の子供か?」

 しばし考えてから、返事をすることにした。この問いかけには、私にとって聞き捨てならない言葉が混じっていたからだ。

「……わ、私は……子供ではありません。もう九歳にもなるんですよ」

 言ってしまった後に「あ、これは笑われてしまうな」と気付いた。

「九歳がもう大人とされるとは知らなかった。ハイマートではそうなのだろうか」

 その人は冗談も何もないような顔で「次からは気を付けよう」と言ってのけた。なぜか私の方がどんな反応をしていいかわからなくなってしまった。

「大人、ですか?」

「大人でもなかったか?」

「ううん。先に言ったのは、私の方だから。あなたの言うとおりです」

 子供でいたくなければ、大人になるしかない。簡単なことじゃないか、と、自分に言い聞かせるように心の中で復唱する。

 でも……と、思わず弱音をつぶやきそうになってしまったところで、頭のてっぺんに柔らかいものがふわりと触れた。それは人の手の平で、私は頭を撫でられたのだと気付いた。

「きゅ、急になにを、ですか?」

 驚きすぎてただでさえぎこちない丁寧語がさらに変になる

「この歳になってみると、若者というものがどうしても可愛らしく見えてしまうものだ」

 年齢の話をされてもう一度顔を確認してみる。どこからどう見ても未成年な自分のことは良いとして、そちらの方こそ若者としか言いようのない外見を……いや、それ以前に、この人は……

「あの……あんまり、見かけない人ですけど、もしかしてあなたは旅人さんですか?」

「旅人はどうだろうな。行商人と言った方が近いはずだ」

 野外や商店で品物の素材になりそうなものを集めて、布織物を作る仕事をしている。できた品物は旅先で立ち寄った縫製職人などに買い取ってもらって、そのお金を日々の生活に費やす。残ったお金で再び素材を集めて回る。そうやって細々と、けれど長く長く、随分と長い間世界の片隅でひっそりと暮らしてきた。

 いつからなのかと尋ねてみると、「ちょうどお前くらいの歳の頃からだった、かもしれないな」と照れたみたいな表情を見せられた。

「バスティリヤには久しぶりに足を運んだのだが、随分と景観が変わっているようだな」

「バスティリヤ?」

「あぁ、今はハイマートという名前に変わっていたのだったか。お前にとってはこちらの名前の方がよっぽど馴染み深いとみた」

 私の故郷、灰色の町ハイマートには、バスティリヤという旧名があった。もう今から随分昔、この区画一体の領主がラングヴァイレ家に変わった時に、町全体に新しい空気が流れ始めた。いくつもの法整備や改革が実行されていく中で、どうせならば古い名前も捨ててしまおうということで現在のハイマートという呼び名に変わったのだ。

 なぜかというと、当時の私の故郷バスティリヤは、『牢獄の町』という悪名で呼ばれるくらいには、周囲から良い印象を持たれていなかったからだ。

「昔はどこを見回しても刑務所や収容所ばかりだった。それが今では、団地や宿舎がいたるところに増えて、町中の市場も随分と賑わうようになっている。とはいえ、雪のふる日の夜が静かなことばかりは、そうそう変わるものではないな」

 小さな雪避け屋根の下、隣に座るその人は、雪がふりつもっていくハイマートの夜空を静かに見つめる。眼差しはまるで、ここではないいどこかを見ているよう。私ではない誰かに、想いを馳せているように見えた。

 そこで私は、思わず質問をしてしまった。

「あなたも……心細いんですか?」

 ひどく不躾な質問であったと思う。けれどそんな質問をしてしまった私のもとへ返ってきたものは、やはり、あたたかな温度を孕んだ優し気な微笑みだけであった。

「あぁ、その通りだろうな。だから……もうしばらくの間、お前の隣にいさせてくれ」

 

 

 

 

 それは今から十六年前。

 まだ自分にできることと、できないことの区別もつかない、いたいけな子供だった頃のテディ・ラングヴァイレ少年が、雪ふる景色の中に見つけた輝かしい思い出。

 そしてこの物語にもう一つだけ大事なことを付け加えると……この日、幼い私が出会った屋根下の不思議な隣人は、とても、とても、美しい姿をしていた。

 まるで絵本のおとぎ話に登場する、銀色髪のお姫様のような。

 


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