記述9 赤い大地と精霊の歌 第8節
夢。夢だ。夢を見ていた。真っ白な壁。真っ白な天井。真っ白な照明。ベッド以外の家具はほとんど何もない、真っ白な医務室の夢。人がいっぱい、いっぱい寄り集まって、こちらを見下ろしている。
目を開くと父親が泣いている顔が見える。みんなが「よかった」「助かった」と笑っている。喜んでいる。 それはそれは素晴らしい奇跡と祝福に溢れた、幸せな空間。
そんな場所で、俺は二十三歳までのうのうと生き延びた。次の誕生日も、もうすぐそこ。
実年齢がいくつかなのかは、誰にもよくわかっていないのだけど。
夜。夜。夜も夜。真夜中だ。
夢から覚めたのだと気付いて、改めて目を開く。最低限の夜間照明だけが点灯する、ほとんど真っ暗なコックピットの操縦席の上で、俺は眠っていた。寝起きのふわふわとした頭で記憶を遡ってみると、調べ物をするといってデータベースにアクセスしたところまでを思い出せた。どうやらその後、調べ物の途中でうっかり眠ってしまったようだ。
疲れているのかな……いや、疲れていないはずがない。ここしばらくは朝も昼も毎日のように活動しっぱなし。野外では長距離を歩いて移動したり、何かしらから逃げるため走り回ったりで、ゆっくり休息をとれた日なんて数えるくらいだ。
体力に自信があるタイプではないという自覚は十二分にある。でも、いくら注意したところで、不足の事態を前にすれば全力を出さずにはいられなくなる。
たとえば理由もわからず武器を持った集団に追いかけられたり、何もない雪山に取りのこされたり、フライギアを失ったせいで悪路ばかりの荒野を窮屈な荷車で横断することになったり……これ以上無茶なんかしたらいい加減に死んでしまう、と自分で思っていたラインを悠々と越えてくるハプニングの連続だった。
これこそ冒険の醍醐味とも言われればまったくもってその通り。しかしムリはよくない。本当によくない。体を壊して死んでしまってはもともこもないのだから。
なんて考えて、また嗤う。今に始まったことではない、と。
「たとえ世界が明日に滅びようとも、今日の私は未来へ向けて旅立つだろう」
初心忘れるべからず。暗闇の中でポツリと唱えた思いつきの一言が、疲労で痺れる脳の奥へ深く染み渡っていった。そんな中で再び目を閉じると、静かな夜の世界に再びとぷりと沈み込んでいく感覚がした。
きっとフライギアの外に広がる荒野には、今日も激しい夜風が大地を薙いでいるのだろうけれど、ここまでは届かない。夜の機内はとても静かで、わずかな機械の駆動音が心音のようにトクトクと聞こえるだけ。小さな震動、ささやかな音。
そんな中で、ふと……フロムテラスという小さな箱庭を飛び出して、最初に迎えた夜のことを思い出す。あのときの自分の心の中に、故郷を離れた寂しさのような感情は、一欠片もなかった。悔しさならば、あっただろう。
暗く、暗く、先の見えない真っ暗な夜道の真ん中。行く先もロクに決めずに出発して、何もないまま立ち止まり、疲れを癒やすために瞼を閉じる。
『どこまでいけるだろう』
自分自身に問い詰めた。
『できるところまででいいよ』
なんて優しい言葉の幻聴が、冷えた肩を虚しく撫でる。少しばかり気分が沈む。
それは妥協でも、譲歩でもなく、諦観と不信の最中から生まれる否定文句に他ならない。
可能性のないものを追い求めることは無意味なのか。手に入らないもののために努力することは不毛なのか。
何も得られないのは俺だってイヤだけど、何もしないよりはよっぽどマシだとは思わないか。
重たい鎖でがんじがらめにされた体。震える手足。不規則な鼓動。冷めた体温。くすんだ視界。軋む骨。
死にたくない、と言えば、きっと嘘になる。けれど今すぐにでも死にたいかと問われれば「イヤだ」と答える。人生なんていつだってそんなもの。生きることに希望などはなくて、目的だってない。それでも生きることだけは諦めたくはない。だって、カッコ悪いから。
どんなに情けなく頼りない自分でも、せめて意思だけは強くまっすぐに、前を見据えていたい。それが俺にできる唯一の抵抗。せめて最後まで、自分のことを好きでいられますように。
……あ、そういえば、今日はまだアレを済ませていない。
そう思い出して俺は暗闇の中でむくりと頭を起こし、操縦席から立ち上がろうとした、ところで、視界がふらりと傾斜めに傾いた。
ズサリ。
ぎっしりと土の詰まった麻袋が地面に投げ捨てられる時みたいな音がした。それはどうやら、自分の体が床の上に転がり落ちた時に出たものであると、遅れて気付いた。
倒れたのだ。そして、起き上がれない。腕が、足が、脳味噌が、鉛のように重い。
受け身もなしに平たい床の上に叩きつけられた体に、鈍い痛みがじわじわと滲んでいき、開いた瞼の間に見える全てが青と白に忙しなく点滅し始める。ぐにゃぐにゃと、ぐるぐると、意識が歪み、世界が回る。
体の中で、血と肉を無造作に掻き回す渦のような気持ち悪さが芽生えて、胃液とともに食道を押し開いてせり上がってくる。息が、うまくできない。まるで呼吸の仕方を忘れてしまったみたいに、肺が言うことを聞いてくれない。全身の血の気が引いて、頭が回らなくなっていく。なのに冷たいフロアタイルの上に投げ出された手足の方は、時々勝手に動いて、跳ねて、あぁ、これは痙攣と呼ぶんだったっけ。
心臓の鼓動が、徐々に、徐々に、遠ざかる。静かに、静かに、穏やかに、風のない日の水面みたいに凪いでいく。
苦しい。
食いしばった奥歯にだって、力が入らない。
だらしなく開いたままの口端から、泡になった唾液がどろりとこぼれ出る。下の上には血と胃液の味。うつぶせになった姿勢のまま寝返りも打てず、硬い床に顔面を押し付けるようにしながら、か細く呻いた。誰にも聞こえない嘆き声が、静かな暗闇の中に虚しく溶け消えていった。
はて、これは過度の疲労の現れだろうか。それとも急な貧血か立ち眩みか、持病の類、はたまた日頃の行いのツケが回って来ただけか……痛みに揺れる頭で細々と無意味な思考を巡らせ、「たぶん全部だな」という答えに至った。
苦しい。苦しい。
体全身の軋み、悲鳴、凍り付くように固まっていく四肢の筋肉。命が点滅している時の痛み、駆け巡る。
しばらく床に転がったまま、何もできずに瞼を閉じていた。もはや自分の中の全ての感覚が麻痺していて、時間の経過すらきちんと認識できなくなってしまっている。
今は何時? 朝は、まだ? 助けは来る?
ここで死ぬのはイヤだなぁ。いくらなんでも間抜けすぎる。旅をするって、龍を探すって、神様のお願いを叶えてやろうって、大見得をきったばっかりじゃないか。
それにきっと、みんなを酷く悲しませてしまうことだろう。どうしてこうなってしまったんだろうって、自分のせいにしてしまうものすらいるかもしれない。それじゃあ、旅に出た意味がない。世の中は俺より優しい人ばっかりで、本当に困ってしまうな。
周囲の気配を探ろうにも、夜のフライギアの内部はやっぱりとても静かで、誰かが何かをする物音一つとして聞こえてこない。それどころかだんだんと、自分のかすかな息づかいすら聞こえなくなっていく。無音。無音。奈落に落ちていくように、静か。
苦しい。苦しい。
苦しい。痛い。苦しい。痛い。苦しい。苦しい。
閉じた瞼の裏側に、赤い斑点がじわじわと浮かんで広がっていく。もはや意識の有無に意味は無く、いっそ途切れてくれた方がどれだけ楽になるだろうという考えにすら至る。
赤く、暗く、沈む、意識。絶望の渦中。
これでもう、終わりなのだろうか。
そう、バカみたいなことを考えて、「そんなわけないだろ」ともう一度嗤った。
パチンッ
部屋の明かりをつけるスイッチの音がして、振り返るとコックピットの入り口にライフが立っていた。見るからに寝起きですと言いたげな格好をして、何やら機嫌悪そうに俺の方を薄眼で睨んでいる。
「早起きするなら部屋の明かりくらいつけなさいよ」
なんだただの小言かぁ。
「おはよう! ライフの方こそ随分と早起きだね」
口に頬張っていた携帯食料の切れ端を全て喉の奥に流し込んでから、爽やか笑顔で朝の挨拶をしてみた。でもそんな様子を見たライフはやっぱりまだ文句を言いたげな様子のまま、のそのそとゆっくりしたペースでこちらへ歩み寄って来た。
「また栄養バーばかり口にして……本当にちゃんと栄養をとれているの?」
「とれてる、とれてる」
なにかと思ったら、朝ごはんの話であった。ライフはサイドテーブルの上に散らばる携帯食料と、カプセルに錠剤と各種様々な薬が入った袋を見て、あきれた溜め息を漏らしていた。
「フロムテラスとやらに住んでいる人たちって、みんなディアみたいな感じなのかしら?」
「そこは人によるとしか答えようがないな。俺みたいな例はかなり極端だとは思うけど」
数が少ないかときかれたら、ちょっと考えるくらいかな。場合によるよ。
「それでディア、あなたってばこうして一晩中この部屋にこもっていたみたいだけど、昨晩言っていた調べ物はちゃんと片付いているのかしら?」
「……お気づきの通り、途中で寝てますね。進捗ゼロです」
「だと思ったわ。昨日のあなた、今にも床の中に沈み落ちそうなくらい眠そうだったもの」
「でも一応このフライギアのシステムを使ってアルレスキューレのデータベースにアクセスする方法が見つけられたんだぞ。けっこうがんばれた方だと思うね」
「それは良かったわね……って、あら? その画面端でピカピカ点滅しているのは何かしら?」
話の最中、おもむろに管理モニターを覗き込んだライフが不思議そうに首を傾げた。
ピカピカ点滅って、そんなものあっただろうか。気になって俺もモニターを確認してみたら、ライフが言った通り、画面の右下に四角い絵文字のようなアイコンが出現していた。
「これってたぶん、メッセージアイコンかな?」
さっきはこんなものなかったのにな?と訝しみつつ、内心では興味津々でアイコンをチェックしてみる。
アイコンが動き、封筒のような絵に変化した、その次に……
『 あなたの 新しい旅路に 祝福を 』
画面の真ん中に表示された、短い文面。
差出人は不明。意図も不明。不審極まりない内容を前にして、ライフは「ちょっと不気味すぎない?」と至極真っ当な反応をしてみせた。
そんな彼女の意見とは裏腹に、俺の意識はメッセージの中に記されていた、その短い言葉並びに、すっかりと心を奪われていた。
それは俺が、今も昔も、誰かに言ってもらいたくて仕方なかった応援の言葉であったからだ。