記述9 赤い大地と精霊の歌 第7節
例の絵画を見てから、俺とライフは念のためにと館内の他のフロアも見て回ることにした。ところがこの美術館は俺たちの想像よりも遥かに広く、やっとのことで半分ほど見終わったかと思ったところで、窓の外に見える空の日が沈み始めてしまっていた。
本来の外出理由であった買い物の方はまったく手つかずであるが、これはもう大人しくフライギアに帰った方がいいんじゃないかと話し合い、帰路につくことにした。
「急ぐ旅でもないでしょうし、また明日でいいわよね」
なんということもないように気楽な口調でそんなことを言うライフ。俺は彼女の涼しげな顔を見て、「どうだろうな」と自嘲気味に苦笑した。
行きの時とは少し違った景色が見える、荒野の夕暮れ道。二人並んで、歩幅を合わせて歩いて帰る。
深い意味もなく途切れた会話の後、遠い三角屋根の影が並ぶラムボアードの茜空を、俺だけが見上げていた。これはきっと、誰もが美しいに違いないと信じてしまえる景色なのだろうと、そんな適当な感想を抱いた。
そういうものを黙って見つめながら、これから俺たちが向かう予定のグラントール王国の跡地が、一体どれだけ遠い場所にあるのか考えた。しいてはさらに遠くへ、行ける機会があったらどうしようか。あるいは海の向こうへだって、行けるものなら行ってみたいと、切に思った。
そんな俺の黄昏た内心などいざしらず、俺とは違う色の夕焼け空を見ていたライフが「そういえば」と口を開いて話しかけてきた。
「あの神女の天翔っていう絵画のことなんだけど……あれってやっぱり、アルレスキューレに昔から伝わる建国神話を題材にしたものだと思うの」
建国神話については、俺も実のところアルレスキューレにやってきてすぐのタイミングで耳にしていた。詳しいところまで調べたわけではないけれど、要点だけ言えば「この国は志が高かった一人の少女の功績によって建国されたものである」というもの。
団体とか組織とか、そういうものを作った後にはよく生まれる『物語化』というヤツなのだろう。大抵の場合こういうものは、開祖をできる限り敬うことで集団の統率力を上げることを目的にしたりする。そしてアルレスキューレにおいては、これがうまく機能しているようだ。宗教というのだろうか。こんな世の中ならばあってしかるべきものかもしれない。
ライフは中途半端な知識しか持っていない俺のために、自分が知っている限りの建国神話に関する詳細を教えてくれた。その話の一つに、少女の容姿についての説明が挟まる。
アルレスキューレに住む人々にとって、銀色の髪に青い瞳はまぎれもない聖女の象徴。そしてこれは、王制国家アルレスキューレという国を代々統治してきた王家に連なるものたちの外見特徴でもある。つまりは仮にあの絵に描かれていた美女に実在のモデルがいたとするならば、王族の血が色濃く残ったお姫様や上流貴族の御令嬢といったところかと予測できる。
だが、五十年前といえば、かの有名な王族大虐殺事件が発生した後の話だ。高貴な身分であることがすぐにわかるような外見をした銀髪で妙齢の女性が、そうそう迂闊に外を歩けるような時代ではなかった。
ならばあれはアーツという庶民出の画家が、雪景色の夜の中に見た幻想にすぎないのか。俺にはどうしても、そうは思いきれなかった。
神女の天翔。あの絵に描か荒れていた龍と思しき怪物は、レトロ・シルヴァだったんじゃないか。だとすれば、もう一人の女性は……恐らく、彼の恋人エルベラーゼ・アルレスキュリア。そう考えれば、建国神話との関連性だって少しずつ靄が晴れていくような気がした。
それでも腑に落ちない点はたくさんあったけれど。
「なら、どうして五十年前なんだろう」
ポツリとこぼした、疑問ばかりがこもった独り言。ライフにその意図は伝わらない。
俺は彼女に、自分が中央雪原で何を見たのか、何を体験したのか、話しておくべきだろうかと、今一度考えてみた。……でも、考えてみたところで辿り着く答えは「やめておこう」の一つだけ。
だって、俺はきっともう、何か大きな因果の渦に呑み込まれてしまっている。
次の瞬間に何が起こるかすらわからない未知の旅路。その真ん中。神秘と奇跡と、脅威と無力と、夢幻の概念がひしめき合う、細い細い一本道をひたはしる。
龍にとって、神にとって、世界にとって、俺の命はとても小さく儚く些末なもので、正直なところいつまでこの度を続けられるかだってわかったものではない。こういうのを人は波乱と呼ぶのだろうか。
ならばそんな得体のしれない因果のさなかに、彼女たちを巻き込むわけにはいかないと、俺なりに考えて答えを出した。話す、話さない。縛る、縛らない。きちんと考えたうえで「まだ話さない」という答えを選んだ。
黙っていよう。このままずっと、できる限り黙っていよう。
だって俺はまだ、みんなに心を開いているわけではない。開いてはいけない理由がある。
どうせ死ぬなら一人きり。誰も知らない荒野の真ん中で、塵になるまで風化したい。
フライギアの中へ帰ると、現在絶賛リビングに改造中のエントランスルームから何やら賑やかな声が聞こえてきた。なんだろうと思って顔を出してみると、大部屋の中央に配置したテーブル一つを囲んで、エッジ、ソウド、ウルドの三人が何かをしている姿が見えた。
「おかえりなさい、ディアさん!」
「ただいま、マグナくん」
まさかウルドより先にマグナに「おかえり」を言われるとは思っていなかったから驚いた。俺が部屋の扉を開いてマグナと挨拶を二、三と交わした後も、ウルドはこちらに気付かず、相変わらずな調子で正面の席に座る二人と会話をしている。
一体何をしているのかと気になってマグナに聞いてみると、どうやらウルドたちは今日手に入れたぱかりの通信端末の機能を使って、マルチプレイのゲームをしているのだと教えられた。そう言われて改めて三人の方を見てみると、なるほど確かに彼らの手にはそれぞれ別のモデルの端末が収まっている。
ことの発端はソウドが言い始めた「これから一緒に行動するなら、せめて通信手段くらい万全にしておいてくれ」の発言からであったという。それに対してエッジが言った「生まれてこのかた、通信端末などまともに触ったことは一度もない!」というなぜか堂々とした返事に頭を抱えたソウドは、エッジの腕を引き摺って市場にある通信端末専門店へ駆け込むことになったらしい。出掛ける前に二人がしていた会話はそれだったのか。
しかし、新品の端末を手に入れたところで、使い手の方までピカピカの初心者であれば、すぐに問題が解決するわけではなかった。キーの打ち込みすらおぼつかないエッジの妙な不器用さを前に、ソウドは再び悪戦苦闘しながら扱い方を教えに教え始めた。電源の入れ方とか、充電の仕方とか、そういうところからだ。
その様子がはたから見て滑稽きわまりなかったらしく、いつの間にか別の部屋で時間を潰していたはずのウルドまで輪に混ざって野次をとばすようになっていた。そして今では本来の目的をすっかり忘れているように、全員揃ってゲームに夢中になっている。仲が良いことは良いことだ。
「あっ! ディア! ディアだーっ!! いつ帰って来てたの? 気付かなくてごめんね、おかえり!」
俺とマグナがしていた会話にようやく気付いたウルドが、ご機嫌な様子でこちらを振り返った。出掛ける時はあんなにへそを曲げていたのに、今は機嫌が直っているようでなによりである。少し寂しい気がしないでもないけどね。
「なんだオマエ、いつからそこにいた? ……まぁいい、俺はもういい加減疲れたから、あとの世話は任せるぞ」
俺とライフの帰宅にウルドよりさらに遅れて気付いたソウドがこちらへ顔を向け……たと思ったら、すぐにそっぽを向いた。そのまま彼はソファから立ち上がり、自分に用意された個室へ向かって歩き始める。「おかえりなさい」とソウドに続いて挨拶してくれたエッジも、そそくさに部屋を出て行こうとしてしまうソウドの背中を追いかけるようにトコトコとついていった。
去り行くエッジの後ろ姿、左右にふわふわと揺れる氷色の長髪。
「ねぇ、エッジくん」
俺は彼を引き止めるために声をかけることを、止められなかった。
「どうした?」
さらに俺の方を振り返ってくれた顔に、あの日見たものと同じ色を持つ琥珀色の瞳がきらりと光る。
「龍って、知ってる?」
エッジは、特になんということもないように、この質問に返事をくれた。
「はて? 昔話に登場する怪物の名前だろうか?」
急にどうしてそんな話を?と、逆にこちらへ問い返してくるかのような口振りである。彼の中には本当に、それ以上の答えなど無いのかもしれない。
「いやぁ、その……エッジは色々なことに詳しいから、知ってるかなって思って聞いてみたんだ」
「そうなのか。力になれなくて残念だ。しかし、本当に……どこかできいたような……くらいのおぼろげな知識しかないのだ」
「ぜんぜん気にしなくていいよ! 俺だってそういう生き物がいるって知ったの、最近だし」
「お前はその龍というものが、本当にいると信じているのか?」
エッジが言うことは、いかにも真っ当な疑問であった。それに対して俺は「うん」と一言、簡潔な返事をした。横で聞いていたライフが、なんともいえない胡散臭そうな表情をしたのがチラリと見えた。
「俺はさ……今まで、何の目的もなく、ただ遠くまで旅がしたいからって理由で、故郷を飛び出してきただけだったんだ。でも今は、ライフの祖父が追いかけていた龍っていう不思議な生き物を、俺も探してみたいなって思うようになったんだ。だから、これからしばらく、俺の旅の目的は『龍探し』ってことになる。良かったら、君にも覚えておいてほしいな」
エッジはきょとんとした顔で、俺のちょっとした決意の主張を聞いてくれていた。やがてその表情が、微笑ましげに優しく揺らぐ。
「ならば何かあったらいつでも言ってくれ。俺で良ければ、その龍探しとやらをいくらでも手伝ってやろう」
俺もまたエッジの心からの厚意に笑顔を返した。
けれどそんな様子を横目に見ていたソウドは、エッジへ向けて「親切心もほどほどにしとけよ」と忠告をする。エッジが「わかった!」と素直な返事をしたのを確認した後、ソウドは今度は俺の方を振り返って、エッジの時とはぜんぜん違う冷たい口振りで、文句みたいなことをいう。
「せいぜい、やっかいごとには巻き込まれないよう心掛けていてくれよ」
「それはもちろん、わかっている」
とは、すぐに言い返せなかった。