記述9 赤い大地と精霊の歌 第5節
取りのこされた俺とライフは、唐突にいなくなってしまったアルカを探してしばらくの間街中を歩き回った。けれどこうも人が多い場所で人探しをするなんて、やっぱり無茶でしかない。先日の迷子になったエッジとの再会だって、かなり運が良かっただけだったと思う。そのうえ今回にいたっては、相手側に見つけてもらう意思が微塵もないというのだから、手詰まりだ。三十分ほどに渡った捜索時間は、結局全て徒労に終わってしまった。
大事な話を急に切り上げたということは、相手にそれ以上話す気がないという意味でもある。だからそもそも、もう一度彼を見つけて質問責めにしたところで、まともな返事をしてもらえることはないのだろう。
いさぎよく諦めるべきか……と、今も熱心に周囲を見回しているライフに声をかけようとしたら、視界の隅にアルカが言っていた美術館の建物がもう一度映り込んだ。
興味があるかないかと聞かれたら、もちろんある。あるに決まっている。
俺は怒れるライフの腕を引きずって美術館の方まで歩いて行き、宮殿みたいに大袈裟なデザインの入館口をくぐっていった。
劇場によく似た建物、という第一印象に間違いはなかった。館内に一歩踏み込んだだけでわかる、華美で絢爛な内装の数々。黒色大理石のタイルがびっしりと敷き詰められたロビーには、金色の縁取りがついた装飾付きのソファやテーブルが設置されていて、そこに座る来館者たちの服装だっていかにも裕福そうな小綺麗さに満ち満ちていた。
早速受付で観賞用のチケットを二人分購入すると、チケットと一緒にブックレット形式のガイドブックを手渡された。貸し出し式のものだから、美術館を出る時には入り口横の白い棚に返却してほしいとのこと。俺とライフはこのガイドブックの中に記載されていた館内マップを頼りに、お目当てである絵画の展示室があるフロアへ向かっていった。
その前にロビーにあった備え付けのウォーターサーバーで水を一杯もらった。外は暑かったからね。
「アルレスキューレって、ああ見えて貴族の間でも清貧を善しという気風がある国なの。中途半端な権力程度では豪遊なんてとてもやってられないようなところだったもの」
「ラムボアードとはそんなに違う?」
「どうかしらね。うちの家が質実剛健すぎただけで、私の勘違いだったのかも」
館内を移動している間に見かける観覧者たちの中には、アルレスキュリア人らしき外見をした人物が当たり前のように混じっている。その中にはふっくらと肥え太った者たちもいた。国全体で食糧難に苦悩する環境で暮らしていたライフの目に、彼らの姿はどのように映っているだろうか。当人ではない自分には、一生経ってもわからない感情なのかもしれないと思った。
俺の目から見たこの美術館は、管理が大変そうだなとか……それくらいの印象しかない。
「そもそも美術品だなんて、どこがいいのかわからないわよ」
「図書館の司書さんがそういうことを言っちゃダメなんじゃない?」
そこまで他愛もない雑談を交わしたところで、俺たちは目当ての展示室まで辿り着いた。
絵画のシルエットマークが掲げられたアーチ状のゲートをくぐると、早速高価そうな額縁に嵌められた大きな絵画が目に入った。絵画のフロアは背の低い壁で仕切られていて、幅広い通路が格子状に伸びた構造をしていた。
「当館は初めてでいらっしゃいますか? よかったらご案内いたしましょう」
さてどちらへ向かおうか? とゲートの近くでどちらから見て回ろうかと決めかねていると、フロアに立っていた案内人の一人が声をかけてきた。
「おっしゃるとおり、初めての美術館です。とある絵画がこちらに展示されていると知人から聞かされまして、ぜひ一度拝見したいなと思い来館しました」
「なるほどなるほど。そちらはどのような絵画であるか教えていただけますか? 絵のタイトルや画家の名前をご存知ならば、すぐにご案内できます」
一歩後ろで会話を聞いていたライフの方を一度振り返る。ライフは黙ってコクリと頷いた。
「それは助かります。詳しいところまでは知らないのですが……龍、という名前の、珍しい生き物を描いた絵画だと聞いています。心当たりはありませんか?」
「リュウ……ですか? ふむ……リュウ、龍……あぁ、かしこまりました。ご案内いたします」
どうやら今の情報だけで作品の見当がついたらしい。さすが案内のプロである。
「こちらへ」という言葉とともに歩き出した案内人の後ろを付いていく。その途中で、持ち無沙汰となった視線は自然と壁に展示された絵画の方を向いた。
ほとんどの絵が油絵具で描かれている。特に、王侯貴族と思しき人物をモデルとした肖像画が多い。それ意外でいえば、風景画や動物画。静物画は数が少なく、抽象画にいたっては一つも見当たらない。
「写実的な画風が多いのですね」
「えぇ。最近の流行でございます。当館の来館者も含め、現代人は心身共に抑圧された空間に閉じこもりがちになってしまっておりますので、たまにこうして、普段の生活の中では知り得ないものを見物して回り、非日常を愉しむのです。写実的な絵画は時に写真より身近なぬくもりがありますし、人気の理由もそれでしょう」
なるほど、ここには美術館を博物館と同じようなものとして求める人が多数派なのか。
「龍の絵も、そのような意図で描かれたものですか?」
「いえいえ、そちらは今から何十年も昔に描かれたものなのです。写実的な画風であるがために昨今の流行から再評価されるようになったという経緯はありますが、キャンバス全体に非現実的な、神秘的とでもいうべき雰囲気が漂っているために、幻想絵画という分類で親しまれております。制作者であるアーツ画伯は、この評価を快く思ってはいないようですが」
「そのアーツ画伯という方は、今もご存命で?」
「はい。昔から変わらず、あきれるほど愚直に絵を描き続けております。しかしながら最近はお体の調子が芳しくないようでして……これは私事ではありますが、実はアーツ画伯と私は古い知り合いなのです」
初老の案内人にこちらからせがんでみると、彼は「ならば話しましょう」とニコニコとした調子で自分の友人についての思い出話を始めてくれた。
アーツ画伯の年齢はこの案内人よりも二回りは年上。つまりはもうかなりの高齢で、昔から体の不調に悩まされていたのだとか。
誰も見たことがない幻想的な世界の描写を、まるで実際にその場所へ降り立ち体験してきたかのようにキャンバス内に描いてみせる奇才であった。だが、その特異な作風の影響かどうかはわからないが、かなり気難しい性分をしている。生涯をかけて恋をせず、遊びもせず、来る日も来る日も不衛生なアトリエに籠りきり、何かにとりつかれたように同じような構図の絵ばかり描いている。
「最後に顔を合わせたのは確か……ペルデンテの首都にある彼のアトリエですね。訪問したところで歓迎はしてもらえないとは思いますが、客人を粗末に扱うほど悪い人間ではありません。絵画に関する話ならばいくらか聞き出せるものでしょう」
案内人にとっては、変わり者の友人に興味を持ってくれる人はとても珍しく、好ましいものなのだろう。フロアを移動している間、彼は嬉しそうにアーツ画伯の話を続けていた。
「さて、画伯の話はまた後のこととして、お客様がたが求めてきた絵画があちらに見えてまいりました」
促されるがままに向かいの壁に顔を向ける。
毛足の短い絨毯が引き詰められた通路の先、汚れ一つ無く磨かれた白亜の壁。その真ん中に、植物模様の装飾で彩られた銀細工の額縁が一つ、静かに展示されていた。
白銀の額縁の中、まず真っ先に目に入ったものは、豊かな銀色の髪に白い肌、愛し気に細められた青の瞳を持つ美女の絵姿。その美女が身を乗り出す灰色の塔。暗雲に塗り潰された世界に静かに舞い落ちる光の粒子の如き粉雪。
そして、それらを取り巻くようにキャンバスの端から端までを覆い尽くす、漆黒の鱗を持った巨大なトカゲ姿の怪物。その瞳の輝きは、あの日、俺が逆さ氷柱の夜に見たものと同じであった。
「こちらがアーツ画伯生涯一の傑作と謳われる名画、神女の天翔でございます」
そこで俺は、はたと気付いた。
俺が出会った黒い龍と、アデルファ・クルトが出会った龍は姿が違う、別物だ。
この世界には龍と呼ばれる神様が、どうやら複数体は存在しているらしい。