記述8 世迷い人と交差点 第6節
騒がしかった出来事はあっという間に通り過ぎ、あとに残ったものは標高の高い崖上から見下ろす味気ない景色だけ。あの耳残りが激しいマミムメモの鳴き声も、大きな足音も、丸い背中も、全て地響きと一緒に大渓谷の崖下へと吸い込まれるように消えてしまった。
これでようやく落ち着いて休めるようになった。俺は岩場の上に腰を下ろしてから、フゥ…と気の抜けた息を吐いた。数時間に渡って走りっぱなしだったせいか、体はすっかり疲労困憊だ。今はもう、二本の足で地面を踏みつけているだけでも億劫に感じてしまう。
昼過ぎに催物会場を出てからどれくらい経っただろうか。気になって空を見上げてみると、太陽はもう西の空の低いところまで降りてきてしまっていた。
「これじゃあ、今から街に戻ってもすぐに日没だ」
俺の方は別に、不本意ながらアゼロがフライギアを停泊させた場所まで戻れば寝る場所には困らない。だがエッジはどうだろう。ビートロマジロの迷子は解決できたものの、彼の方はまだ仲間とはぐれたままだ。
当のエッジは先ほどからずっと、ビートロマジロたちが帰っていった崖の方角を真っ直ぐに見つめたままで、とても静かだ。
「なぁ……エッジ?」
声をかけてみたけれど、返事がない。俺の声に気付いていないようだった。
何か考えごとをしているのか、それとも周囲に気を回せないほど疲れてしまっているのか。理由のわからない沈黙に少々の不安を感じたが、今は自分も疲れているから、しばらくはそっとしておくことにしようと思った。
不意に訪れた空白の時間。気まぐれに目を閉じて聞こえてくるものは、谷底を通り過ぎる風の音と、遠くにある鉄橋の上を貨物輸送車が往来する走行音。それ以外には本当に何も無くて、自分が着ている服の衣ずれの音が鼓膜の奥まで届くほどだった。
ああ、何故だかとてもスッキリした心地がする。悪い気分ではない。どうしてだろう。
再び目を開いた後の視界には、さっきと変わらないラムボアード大渓谷の景色が広がっている。その手前には静かに立ち尽くすエッジの後ろ姿があって、俺は、たったそれだけのことに居心地の良さを感じてしまっているようだった。
「良い眺めだな」
何の前触れもなく俺の方を振り返ったエッジが、出会った時と変わらない温かさではにかんだ。
俺は改めてエッジが見つめていた大渓谷の景色を眺める。風と水と、大地の揺らぎとによって、長い年月をかけて複雑に変形した渓谷地帯。いくつもの色を持った地層が剥き出しになった岩山が地平線の彼方まで連なる様子は、確かに雄大だと感嘆の声をあげるに足るものではあると思う。けれど、俺の眼にはつまらないものにしか見えなかった。
「岩と砂しかないじゃないか」
素直に同調しておけばいいものの、口から出た言葉は仕様のない文句だけ。しかしエッジはそんな俺の態度に不快な顔一つすることなく、穏やかに言い返す。
「岩だって十分輝いている」
彼は足元に転がっていた石ころをいくつか拾いあげると、その内の一つを俺の方へ投げ渡した。
何の変哲もない小さな石だ。受け取ったばかりのそれを手の平の上に転がしながら、「これがどうかしたのか?」とエッジの顔を窺う。するとエッジは、自分の手元に残っている石の一つを親指と人差し指の先で摘まみ、何を思ったかそれを太陽に向けてかざしてみせた。
「ほら、見てごらん」
俺は言われるがままに彼の仕草を真似して、小さな石ころを太陽にかざした。
灰色に濁った塊の中に、何かが見えた。それは赤や黄色、あるいは仄かな緑色をした粒子状の光沢。
キラキラと、キラキラと、小さな石ころの表面に寄り集まって、ささやかに明滅する。
陽光を浴びた石の表面は透けるように照っていて、そのきらめきが瞳の奥へ流れてくるのを感じて……それで俺は、あっけなく敗北を悟った。
陽にかざした石と手の平とを膝の上まで降ろしてから、改めてエッジの方を見た。「ほらみたことか」とまでは言われなかったけれど、どこか得意げな雰囲気の顔はされてしまった。悔しくはない。
「オマエと俺とでは、見えている世界が違うんだろうな」
「そんなことはない。全ては気の持ちようだけでいくらでも変わってしまうものだ」
「だから、そういうところが違うんだろって……」
然程の意味もない反発。その途中で、一陣の乾いた風が、二人の間をスルリと吹き抜けていった。荒々しい風の音と急速に冷えた気温とが疲れた体を横薙ぎにして、エッジの髪を風になびかせた。柔らかい毛先がふわふわと風の上を転がる。
そこで初めて、俺はエッジの髪が不思議な色をしていることに気付いた。
あまりに遅すぎる発見に目を丸くして、思いもよらず凝視する。ただの銀髪だなんて、節穴の眼が見た幻だった。明るい空の下で見たそれは、まるで雪の結晶を紡いで束ねた繊維のような透明感と輝きを持っていたのだ。
初めて気付いたって? そんなの嘘だ。今になるまでずっと、気付かないように目を逸らしていただけなんだ。
彼は風でボサボサになってしまった自分の髪を「困ったな」と言いながら手櫛でほぐす。楽しそうに。
そして再び、崖の向こう側に続く広大な渓谷地帯の景色を一望して、口ずさむ。
「俺たちが生きる大地には、同じ色のものなど一つもない。全て特別で、全て大切。無造作に積み上げられた小石の山も、散らばる砂利屑すらも。赤から灰へ、金へ黒へ、今この一瞬にも色を変えて、新しい出会いを運び続ける。石ころが風に転がってできた凹凸だらけの地表に、今日の間だけ降り注ぐ夕陽が反射して生まれるまだら模様は美しい。芸術品かと問われれば、少しありきたりかと首を傾げてしまうけれども、希望はある。確かにある」
彼は言う。諭すように語り伝える。
この世界には投棄されたゴミの一つにすら物語があって、そこはかとなく抒情的。どんなに錆びついた景色だろうと、眺める人の心に想いがあれば、鮮やかに色付いた情動が芽生えるはずだ。それは歓喜ではなく哀愁かもしれない。ただならぬ激情かもしれない。言葉にするほどの価値も感じられない、他愛もない日常かもしれない。
記憶と意味とにつなぎ止められた感性は五感を通じて外向へ飛び立ち、ぐるりと世界を巡って肉体へ還る。美醜を決めるのはいつだって自分自身。世界と自分との間には、どちらが母でも子供でも構わないへその緒がつながっているんだから。
そんなエッジの言葉を聞いて、俺は自分がもうずっと長い間、大切なもののことを忘れたまま生きる道を選んでいたことを思い出す。
ポッカリと空いたままになってしまった心の穴。取り返そうとすればするほど、苦悩していた過去だけが浮かび上がって、解離するように消えていく。少ない荷物の中に混ざっていた古びた手帳のページは、自分が知らない自分の手で黒塗りされていた。
逃避か、諦観か、ただの疲弊か。今のままの自分で構わないと、少ない荷物と名声とだけを肩に背負って生きていくことは心地良いだろうと。
それは何か、何なのか。どれだけ藻掻いても、どれだけ悩んでも、苦しんでも、欠片すら取り返せなかったかつての栄光。前を向いて生きる、意味と価値。
世界の愛し方。彼はそれを、生まれた時から知っていることのように軽々と口ずさむ。
「信じることをやめなければ、世界はいつもどこまでも輝きを失わない。
ソウドが生きるこの世界は、今日も明日も明後日も、変わらず美しくあり続けてくれるはずだ。
たとえお前自身が否定しようとも、世界はお前を愛することを止めたりはしないから」
大きな琥珀色の瞳と、真っ赤な瞳孔がこちらを真っ直ぐに見つめている。
そしてさらにエッジは続ける。空が灰色で何が悪い。たとえこの世が黒と白のコントラストだけになったとしても、世界は十分に美しくあり続ける。
西の空の少し上、世界に向かって斜めに降り注ぐ陽光の雨。ここには確かに祝福があるのだから。
「……というような話を、ずっと昔にしてもらったことがある」
歌うような語り口から一転。少し気の抜けた言葉が後に続いて、唐突に現実に引き戻された気分になってしまった。
「随分と大袈裟な話だな。どうして急にそんなことを思い出したりなんかしたんだ」
「どうしてと言われても……」
崖の方を見ていたエッジが再び、くるり、と振り返って、俺の顔をジッと見る。それからしばしの間、理由を言うべきか言わないでいるべきか考える素振りをする。
「この話をしてくれた人は、俺の人生の恩人なんだ。何もかもが恐ろしくなって、途方に暮れていたあの時、あの頃。俺を暗くて狭い部屋の中から解き放ってくれた……優しい人。ソウドは、その人によく似た顔をしている」
「…………え?」
「急に変なことを言ってしまって、すまない。その人と会ったのは子供の頃の話だし、別人だってことは分かっているんだ。だがそれにしては、気のせいだと無視できないくらいよく似ていて」
街中で最初に顔を合わせた時から、やたらと俺の顔を興味深げに見つめてくるなと不思議に思っていたのだが、まさかそんな理由があったとは。
「俺みたいな良い男が、他に二人も三人もいるかもしれないって?」
「かもしれないではなくて、実際にこの目で見た」
「今のは冗談で言ったんだけどな……。というか、ソイツってまさか、髪の色まで似ていたりするのか? こんなに変な色をしてるのに?」
「その通りだが……悪く言うものではないと思うぞ。とても素晴らしい色をしているじゃないか。雪かきをしている時にできた雪穴の中みたいに晴れやかな青色だ!」
「喩えがわかりにくい」
「それにな、髪の話をするならば俺だって珍しい色をしているだろう。これは母親も同じ色をしていて、確かに特異ではあるものの、母の家系では生まれやすい特徴なんだと聞いている」
「つまり、なんだ? 俺とその恩人とかいうヤツが、赤の他人じゃなくて血縁者かもしれないって?」
「可能性はあるだろうな。しかし……俺は、あの人のことをほとんど何も知らないから、家族がいたかどうかわからない」
「家の名前は?」
「聞いたことが無い。そもそも彼はアブロードの容姿をしていたから、家名を持たない民族の出自だったのかと」
「一体どういう関係だったんだよ……じゃあ、服装は?」
「軍服をよく着ていた」
「なんだか物騒だな」
「悪い人ではないぞ」
「わかってる。オマエの恩人だもんな。だけどさぁ……」
その『大切な命の恩人』の話をしているはずのエッジの表情が、なんだか寂しそうなんだ。まるで大好きな飼い主に捨てられた子猫のような顔をしているものだから、見ているこっちの心まで痛んでしまいそうになる。
「まだ生きてると思うのか?」
言いたかった文句を途中で打ち切り、その上に別の疑問を被せて誤魔化した。
「…………俺が行方を按じたところで、何にもならない」
答えになっていない答えが返ってきてしまった。
「何にもならない、なんてことはないだろ」
「なぜ?」
「幸福を祈られて迷惑に思うヤツがいるとしたら、ソイツが悪い」
俺によく似た容姿をしていたという恩人は、きっと性根まで俺とそっくりに曲がっていたのだろう。彼らがどんな出会いをして、どんな別れ方をしたのか、まるで見当もつかない。しかし今のエッジの顔を見るだけで、あまり良いものではない気配は十分に感じ取れている。こんなに優しい人を悲しませるなんて、十中八九ろくな人間じゃないさ。
エッジの中では美化してでも覚えていたいくらい大切な思い出なのだろうと思うと、簡単に「忘れてしまえばいいのに」なんて言うことはできないけれど。
「そろそろ街へ戻るか」
だんだんと重たくなってきた空気を切り裂くために、俺はその場から立ち上がった。体はまだずっしりと重たいけれど、しばらく休んでいたおかげでマシにはなっていた。
「ああ、このままゆっくりしていると夕方になってしまうものな」
「結構距離があるけど、歩けそうか?」
「こう見えて体力には自信があるんだ」
「エッジは走るのが速かったもんな」
ラムボアードの街に戻った後は、またディア・テラス捜しの続きをしないといけない。それでもしも見つからないまま今日が終わってしまったとしたら、どうだろう。人嫌いで気性が激しいアゼロ様は、エッジをフライギアの一室に招き入れることを了承してくれるだろうか?
うーん……俺が平気なのにエッジがダメなんてことは無いような気がするけど、アゼロだしなぁ。
などとぶつくさ考え込んでいた時のことだ。
「よくも大事な獲物を逃がしてくれたな!!」
真に憎むべきは、人類の愚かさだとでも言いたいのか。街に戻ろうと歩き始めた俺とエッジの前に、突如としてニシタイリクオオカバロニクスの黄緑と紫が立ちはだかった。
「お前は確か、あの時のカバくんと、そのお友達のカバくんⅡ!? こんなところで一体どうしたんだ?」
カバくんⅡ「どうしたもこうしたもない!」
カバくんⅠ「我々は始めから、お嬢ちゃんが抱えていた金塊にこそ用があったのだ!!」
カバくんⅡ(紫)「それをあなたがホイホイと親元に返してしまったせいで、我々のハッピーマネマネ大計画は儚くも水泡にきすこととなってしまった!!」
カバくんⅠ(黄緑)「この恨み、はらさでおくべきか!!」
カバくんⅡ(紫・やや小ぶり)「はらさでおくべきかーッ!!」
「知らねぇよそんなこと!!」
「密猟は犯罪だと子供の頃に教わらなかったのか!?」
黄緑のカバ「うるさいうるさい!! 我らはもう二年前からずっと密猟者やってきてるんだよ!!」
「意外とキャリア浅いな!?」
紫のカバ「ちょっと出し抜けたからってバカにできるのも今の内だぜ! こちとらラムでもちょいと名の知れたワルだからなぁ」
「なんだと!? そんなに可愛らしい風貌をしているのにか!?」
「流石にアレを褒めるのは止めておけエッジ! 審美眼が狂うぞ!!」
カバくん×2「「 なんだとーーーっ!!? 」」
「というかな、オマエたちみたいなマヌケ面のヒポポタマスモドキに何ができるって言うんだ!!」
「「 できるとも!! 」」
突然ムードをぶち壊して乱入してきた二匹のカバ。それに向かってストレートな罵倒を吐いた、その直後、「えいっ!」と跳び上がった二匹のニシタイリクオオカバロニクスの着ぐるみたちが、サイズピッチピチな販促ベストの裏側からでっかいリモコンを取り出してボタンを押した!ジャンプする必要は全くなかったと思うが、天に向かって威勢良く掲げられたリモコンの謎アンテナが入力と同時にぴかーんっと光る。
「そ、ソウド。これは一体何が起ころうとしているんだ?」
「ぜんぜんわからん!!」
全く予想がつかない展開に内心ではわりと動揺しつつ、エッジを自分の後方に立たせるようにして身構える。
身構えて
みてはみたものの……
しばらく何も起きなくて…………
さては不発か? と勘繰り始めたところで、俺たちとカバたちが立つ地面のちょうど真ん中あたりに、丸い影が降ってきた。
丸い影、どんどん大きくなっていく。
え? と若干戸惑いながら空を見上げてみると……
こちらに向かって真っ逆さまに落下してくる『巨大ロボット』の姿が目に入る。
顔面が一瞬で青ざめて、俺とエッジは急いで落下予測地点から遠ざかるべく走り始めた。
ドシーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーン!!!!!
ド派手な着地音と風圧とが背中にぶち当たる。どうなったのか振り返って確認しようとしてみたが、巻き上がった土煙がひどくて何も見えない。
「ソウド、あそこだ!!」
エッジが指を差した方を見ると、土煙の中に大きな大きな人型……ではなく、全体的に丸みをおびたカバ型の影が一つ。蛍光色に爛々と光る二つの瞳がこちらを真っ直ぐに捉え、腕を振りかざす。
『『 ゆけっ! タマス式ロボトニクス、KABA-next-MarkⅠ&Ⅱ!!!! 』』
俺とエッジの理不尽な追走劇は、第二幕に突入した。