記述7 失われた栄光 第8節
鏡の中に映る自分の姿形を見て、ただただ呆然とする。
そんな様子を横で見物していた彼は「本当に何も覚えていないって顔をしているね」と俺を嘲笑った。それから「可哀想だから僕の名前くらいは教えてあげよう」と付け加え、アゼロ・ウルドという耳慣れない響きの名前を教えてくれた。
「アゼロは俺のことを知っているのか?」
「赤の他人だよ。会話したのは今日が初めて」
「俺の名前は……?」
「さぁ。聞いたことはあるかもだけど、まるで覚えてないね」
そっけない返事を返されてしまい落胆した。どうやら俺とアゼロの関係は良好と言えるほどではなかったようだ。そもそも人を殺しただのなんだのとふざけた調子で言い流す性格をしているし、あまり当てにはできない。とはいえ今はこの狭い空間の中に俺とアゼロの二人しかいないようだし、最低限の情報くらいは引き出しておく必要がある。
「それなら……」
パーンッ
会話の続きをしようと口を開いたところで、どこかから不穏な音が聞こえてきた。銃声だ。
俺とアゼロは口を噤み、二人同時に部屋に一つだけある扉の方を振り向いた。水をうったようにシンと静まりかえった部屋の中に雨音だけが溢れている。
「…………何が起きているんだ?」
「アンタさっきから質問ばっかり」
「何も覚えてないんだから仕方ないだろ!」
「本気で記憶喪失だなんていいはるわけ? アンタそれを僕のせいにでもしたいの?」
「殺したのはオマエなんだろ?」
「勝手に生き返ったアンタが悪い! っていうか、僕だってこんなことになるなんてぜんっぜん聞いてなかったもん!」
騙されたのは自分だって同じだ。アゼロはそう主張すると、自身の憤りが本物であることを見せつけるように足下に転がっていた花瓶を力いっぱい蹴っ飛ばした。花瓶は粉々に砕け散った。
その直後、再び部屋の外から別の銃声が飛び込んできた。今度は一発だけではなく、複数回。時折誰かの悲鳴のようなものを交えながら、何発も何発も。
部屋の外、廊下の向こう、階段の下、音は着実なペースでこちらへ近付いてきている。
「あまり大きな音をたてない方がいいんじゃないか?」
床に散らばった花瓶の破片を見下ろしながら言った。
「なんだよアンタ、不死身のくせに鉄砲なんかが怖いの?」
「そういう問題じゃないだろ」
「どうせアイツらは僕たちの居場所なんて始めから知ってるよ。今も王様の寝室に向かって一直線に城内を駆け回っているはずさ」
「王様の寝室って、まさかこの部屋のことか?」
アゼロは少し面倒くさそうな表情をした後に、俺に向けていた視線をひっくり返ったベッドの方へ逸らす。それからベッドの方へ近付くと、折れた柱と柱の間から……一人の老人の死体を引っ張り出してきた。
「これがベニル・ドミニオン。王制国家アルレスキューレで一番偉いはずだった王様だよ」
王様。そう説明されたところで、死体は死体である。床に顔をつっぷしたまま、ピクリとも動かず、にも拘わらず死体であることがすぐわかるくらい明確に「生」の気配が感じられなかった。
「僕が来た時にはもう死んでた。死因はまぁ……どうせ、由緒正しき毒薬とやらを用いた古典的な暗殺だよ。インスタント食品より安っぽい殺し方だし、黒軍の仕業ではないだろうね」
死体はアゼロに肩を蹴られ、仰向けに姿勢を変えられる。そうやって見えるようになった顔面は酷い様相だ。
アゼロが言った通り、毒殺なのだろうと思った。俺はこの症状を見たことがあったし、これがアルレスキューレではそう珍しくない王族の結末であることを、知識として覚えていた。どこで見たのか、どこで知ったのか、そういう肝心なところはわからないままなのにだ。
王様と呼ばれたこの男の顔に見覚えは無い。彼の半開きになった瞼の下には泥団子のように濁った茶色の瞳孔が転がっていて、その色や形も見たことがない。
知らない人でよかったと、安堵してしまった。
「本当にタチが悪い」
アゼロは続けざまに愚痴を吐き棄てる。
一国の主が目の前で死んでいて、その死体を二人揃って荒れ果てた部屋の真ん中で見下ろしている。この状況がいかにまずいかなんて、どんなに頭の悪いヤツでもわかる。
「ベニル・ドミニオン陛下!! ご無事でしょうか!?」
不意に扉の外から、この場にそぐわないほど芯の通った劇場役者のような声が飛び込んできた。
室内の気温が急速に下降する。さっきアゼロが言っていた『アイツら』とやらが、いつの間にか扉一枚挟んだ場所に立っている。
どうするつもりなのか、と思って横目で窺ったアゼロの表情は冷静そのものだった。こんなことは大した問題ではないとでも言いたげな顔をしている。俺の視線に気付いたアゼロは、ベッドの脇に転がっていたヘルメットのような形状をした機械を手に取り、何を思ったかそれを俺の頭にすっぽりと被せた。
『顔を見られたら面倒』
ヘルメットのシールド部分にはディスプレイの機能が付いていたらしく、その画面上に文字が表示された。
『せっかくだし、いっしょに逃げよっか』
思いがけない提案のメッセージに虚を突かれる。再びアゼロの顔を確認しようと思ったら、彼はすでに壊れた窓枠に手をひっかけていた。
さらに背後からは扉を外側から破壊しようと試みる打撃音が ドシーン ドシーン と轟き始めている。扉が頑丈に作られていて助かった。とはいえ、破られるのは時間の問題であろう。
俺は窓から ぴょんっ と飛び降りたアゼロの後を追って、自分もまた窓から飛び降りた。
雨の音。風の音。銃声の音。雷の音。部屋の扉がとうとうぶち破られる音。四方八方から聞こえてくる暴力的な音の濁流に囲まれながら、ほんのわずかな間だけ宙を飛んだ。
体が、思ったよりもずっと軽い。
そう思っていられたのも一瞬だけ。分厚い窓枠を通り抜けてすぐ、降りしきる雨粒が後頭部から背中一面を貫通するような勢いで打ち付けていき、あっという間に全身がびしょ濡れになってしまった。
ヘルメットからはみ出した長髪が水を吸い、急激に体重が重くなったような感覚をおぼえた。そのまま重力に身を任せるように雨の中を落下していき、俺はどことも知れない寂れた中庭の隅に着地した。
常夜灯のことごとくが消灯した中庭は真っ暗で、時たま走る雷の光だけを頼りに周囲を見回す。アゼロはどこにいるのだろう。見失ってしまったのだろうか、姿が見えない。声を上げて呼ぼうとしたら、ヘルメットシールドの画面に再びメッセージが表示された。
『そのヘッドギアね、暗視機能があるよ』
教えられてすぐに使い方を思い出す。システムを起動させた途端に画面が緑色に一変し、枯れた鉢植えの横に立つアゼロの姿を見つけられるようになった。
「窓から飛び降りました!!」
走り始めたアゼロの背中を追いかけようとしたところで、頭上から誰かの大声が雨粒と一緒に流れ落ちてきた。驚いて自分たちが飛び降りてきた部屋の方を振り返った。そうして目に入ったのは、巨大なアルレスキュリア城の城壁と、その遥か上層部に小さく見える割れたガラス窓だった。
あの高さから飛び降りたのかと今更になって気付かされ、背中にじわりと汗が滲んだ。どうやら俺は、本当に人間ではなかったようだ。
しかし目まぐるしく動く状況は、俺にショックを受けている暇すら与えてくれない。滝のように降り注ぐ土砂降りの雨の奥深く、見上げた窓の向こうに赤い髪の男が姿を現わす。彼は雨に濡れることを厭わず身を乗り出すようにしながら眼下を覗き込む。
そして鬼気迫る形相と声色にて、周囲一帯に号令を投げかけた。
『こちら赤軍第一班、敷地内にて逃走中と思われる不審者を発見!! 数は二つ!! 指定した座標をもとに総力をあげてこれを追跡せよ!! 対象の生死は問わないものとする!!』
拡声器を用いた号令は怒涛の勢いで雨音をかき分けて城中に轟き渡る。それとほぼ同時に、ヘルメットの画面にアルレスキュリア城の見取り図と、自分たちのものと思われる位置座標が提示された。
なぜ自分の画面にもそんな情報が送られてきたのか気になったが、今はそんなことを考えている余裕はない。
まもなくして真っ黒だった夜の雨雲の中から人工的な光が差し込み、その向こう側から巨大な飛行物体がエンジン音を轟かせながら接近してきた。
軍用フライギアだ。それも赤軍御用達の特殊武装が搭載された特別製。本来ならば国内で姿を見ることすら滅多に無い、破壊力だけがウリ文句の侵略兵器。そんなものが少なくとも三機以上も徒党を組んで、『君主殺し』の大犯罪者の行方を追いかける。
フロントライトの丸い光がスイスイと中庭を往復し、あっという間に闇夜に紛れていた俺とアゼロの姿を捕捉する。次に何をされるか瞬時に理解して、俺は前方へ大きく跳躍した。
直後、フライギアに搭載された射撃装置から有無を言わさぬ一斉掃射が放たれた。
泥まみれの芝生が瞬く間に穴だらけになり、それでもなおフライギアは手を緩めることなく射撃行動を続ける。幸いなことに、この大雨と強風のおかげで標準が定まっていないらしく、かろうじて直撃を免れることができた。しかし、そんなことは想定したうえでの物量に任せた攻撃だ。
あの弾丸に撃ち抜かれたら、俺は死ぬのだろうか。
不意に、生死を賭けた逃走劇の最中とは思えない、間抜けな思考が無意識に頭の中に浮上した。だからなんだと言われたら、それまでだ。
ぬかるんだ土の上をわけもわからず走り抜けていく。踏みしめた靴の裏から、土と雨水とが混ざりあった泥の塊が、くちゃり、ぐちゃりと潰れる感触が伝わってきた。そんな些細な感覚が気色悪くて仕方なく感じられた。なぜかはわからない。わからないんだ。何も覚えていない。
そのはずなのに、頭の中に、何か、何か、真っ赤に歪んだ落日の光景が、浮かび上がってくるような気がした。
何も持っていないはずの手の平から、熱い何かが垂れ落ちてくるような錯覚をして、それはただの雨水だと自分に強く言い聞かせながら目を逸らした。
肉を切る感触。肉を裂く感触。命を絶つ感触。死の触感。体液の温度。
背後からはまだ銃撃の音が鳴り止んでいないのに、逃走を続ける足は動き続けているのに、心だけがここではないどこか遠い日の光景に囚われている。
それはきっと、思い出してはいけない記憶なのだ。
自らの異状を自覚すると共に、俺は眼前に広がる赤い幻覚から目を逸らした。
すると前方の暗闇の中に緑色の視界が舞い戻って来た。城壁の間に空いた細い隙間に身を隠したアゼロがこちらに手招きしている姿が見えて、俺も隙間の中に飛び込んだ。
しばらくして銃撃が鳴り止んだものの、軍用フライギアはまだ中庭の上空を旋回している。画面には見失った目標を再度追跡するための探知が進められている旨が表示される。まだまだ諦めてくれてはいないようだった。
「王様の部屋に監視カメラは無いよ。でも、一度外に出たらもうダメだから、部屋から飛び降りてからのことはバッチリ撮影されているだろうね」
アゼロは相も変わらず緊張感に欠けた声色で、俺のことをおちょくるみたいに話しかけてくる。
「……オマエはどうするんだよ」
何も答える気が起きなくて、俺も相変わらず、つまらない質問をすることくらいしかしたくなかった。
「アンタさ、アレを操縦できると思う?」
そう言ってアゼロが指をさした先にあったものは、軍用フライギアだった。それを確認してから、もう一度アゼロの顔を見る。率直な疑問だ。冗談で言っているようには見えなかった。
「…………まぁ、できるだろうな」
少し考えた後に、アルレスキューレ正規軍で使用されている軍用フライギアの操作手順が知識として頭の中に蘇ってくる。
「赤軍のヤツは流石に無理だが、もっと汎用的な規格の軍用ギアなら仕組みはほとんど同じだ。操縦席に座れさえすればマニュアルの出し方だってわかる」
俺の返事を聞いて何を満足したのか、アゼロはニヤリと口元を歪めて笑う。それから自分の懐から何かを取り出すと、その何かをひょいっとこちらへ投げ渡してくる。
思わず受け取ってしまったものを手の中で握りしめると、平たくて硬い板のようなものであることがわかった。手を開いて確認してみると、それは金属製のカードキーだった。カードの表面には花輪で作った冠の絵がエンボス加工で描かれていて、その下にフライギアの規格番号と機体番号が印字されている。
「これを王様の寝室から取ってこれたら好きに使っていいよって、トラストに言われたんだ」
「トラストって……?」
「何にも知らない奴に教えたって仕方ないでしょ」
ぐうの音も出ない指摘だ。
「僕たちはね、昔から冒険ってものが大好きなんだ。だからこれから旅に出る。行き先はウィルダム大陸北部にある商業都市ラムボアード。そこでまた会おうねって、約束した」
僕たち、という主語に違和感をおぼえた。少し遅れて彼にも仲間がいるのだと気付いて……嫌な予感がした。
「アンタ、運転手やりなよ!」
最悪な待遇を約束された誘いであったが、断る理由なんて、俺には何にもなかった。