記述7 失われた栄光 第7節
斜めに傾いた世界の真ん中にガラスが割れた窓があった。窓の外には真っ黒な夜が広がっている。それ以外に何も見えない。
耳の奥では潮騒に似た音がザーザーと鳴り響いている。それ以外に何も聞こえない。
耳鳴りはいつまで経っても止んではくれなかった。
音は静寂から生まれ、虚空の中へ消えていく。
後ろから前へ、後ろから前へ。
過去から未来へ、既知から未知へ。
ここには時の流れだけがあって、
それ以外のことは何も、何も、
わからない。
感傷。
ふと、この雑音を煩わしく感じる思念が体のどこかに芽生えた。なんて無意味な旋律だろうと、愚痴をこぼしたくなったのだ。思うに、きっとそれが始まりの合図だったのだろう。
不満とも不安ともとれない煩悶が胎動を始めた。些末なことに怯える思いはみるみるうちに体中を駆け巡り、脳と心臓を締めつけるようになっていった。
それが嫌で、憂鬱で、堪らない。
頭の中にぎっしりと詰まった不快の根源をなんとか振り落としたいと考えた。だから首を動かした。
首は望むままに動いた。すると視界の真ん中にあった窓枠がぐらりと傾く。それでやっと、目が開いていることにも気付けるようになった。
二つの眼球を通して見つめる光景はぼんやりとした橙色の灯りに照らされている。
その中に、一つの花瓶が転がっているのを見つけた。ところどころが欠けている。ヒビの入った表面には花の模様が絵付けされているけれど、肝心の花は一輪も刺さっていない。そもそも水の一滴も注がれていなかったのだろう、乾いた瓶の内側には静かな空洞だけが存在している。
「■■、■■■■……」
空から降ってきた不思議な音色が花瓶の中の静寂を打ち壊した。
これは動物の鳴き声だろうか。違う。人間の言葉だ。
「きもちわるいなぁ」
一拍遅れて声がした方へ顔を向けると、不自然に発光した満月色の瞳と目が合った。
「…………」
「起きてるなら返事くらいしてよね。じゃないとまた首を捻るよ」
その人間は傍らにしゃがみ込みながら、手を伸ばす。左胸を触られる感触がした。やがてその手の下に埋まっていた心臓から、鼓動という音が聞こえてきた。
生きている。これではまるで、生物のようじゃないか。
体感は実感に変わり、認知を育む。何もなかったはずの虚空の中に、意識というものがめくるめく速度で伝搬していった。世界はみるみるうちに明るくなっていく。
機能を喪っていた五感が活動を再開させていった。視覚は家具や小物が散乱する見知らぬ部屋の惨状をとらえ、嗅覚は空気中に充満する合成香料の薫りと雨の臭いを知らせる。あの潮騒の正体は耳鳴りではなく雨の音だったのかと、今更になって気付かされた。
雨はいつから降っていたのだろう。思い出そうとしてみても頭の中は真っ白で、どれだけ記憶を巻き戻してみても、ついさっき目覚めた瞬間までのことしかわからない。ずっと夢を見続けていたような気がするけれど、それがどんな内容だったのかは少しも思い出せなかった。
わからない。何がわからないかすら、わからない。わからない。わからない。わからない。
「オマエは誰だ」
「は?」
思いがけず口からこぼれ落ちた音が声となり言葉となり、目の前の彼に届いた。返って来たのは驚きと呆れとが入り混じった失笑だった。
どうやら『俺』は、何かおかしなことを言ってしまったようだ。ならば何が間違っていて何が正しいのか判別してからもう一度同じ問いを投げ掛けようと思った……けれど、やっぱり、いくら考えてもわかりそうもなかった。
そもそも俺とは誰のことなのか。
金色の瞳の主は、しばし黙って思案顔をする。それから何を思ったのか、左胸に当てていた手の平を俺の首へ向けて伸ばしてくる。手袋をはめた細い指先が喉の上を横切っていく。
「わからないのはお互い様さぁ」
戸惑う気持ちのままに、その指を自分の手の甲を使って押しどけた。金色の瞳が愉快そうな形に歪み、俺の頭上から離れていく。
それから俺は床の上に寝転がっていた体を上半身だけ起こし上げてみた。ひとまず目を閉じて、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。空気中に漂っていた酸素と湿気とが、体の中を巡っていく。息が吸える。息が吐ける。鼓動が巡る。血液が巡る。細胞の一つ一つが生命活動を続けていて、内臓は死なないための代謝を止めていない。何よりも瞼が羽根のように軽いことに、驚かされていた。
あぁ、やっぱり俺は生きているのだ。
閉じていた目を開き、パチパチと無意味なまばたきを繰り返す。それから改めて、今自分がいる部屋の中を観察し始めた。
クローゼット、帽子、鏡台、コート、香水、万年筆、船の模型、ボードゲームのピース、機械のコード、タイプライター、動物の牙で作られた印鑑、誰も使い方を知らない天球儀。いろんなものが床に落ちて、壊れて、転がっている。この寝室らしき部屋はきっと、誰かに荒らされてしまった後なのだろう。
観察を続けていると、床に散らばった小物の中に、少女の横顔が描かれたエンブレムが混じっているのを発見した。それを見た俺は「ここはアルレスキューレのどこかなのか」と、ひとりでに安堵した。
「アンタ、なんか様子がおかしくない? 念のためにもう一回くらい死んでみる?」
金色目の彼は興味があるのかないのかはっきりしない口ぶりでそんなことをぼやきながら、自分の手元をいじっている。彼にとっては途方に暮れている俺なんかよりも、自分の手袋に空いている穴の大きさの方が気になるのだろう。
「もう一回、というのはどういうことだ」
問い返してみると彼は大袈裟に肩をすくめ、「えぇー、どーしよっかなぁ」ともったいぶった態度をとる。俺の不安を煽るのがそんなに楽しいのだろうか。目覚めて最初に出会った相手がこんな不誠実者とは、先が思いやられるな。
「ついさっき、僕がアンタを殺した」
「……なるほど?」
嘘みたいな発言だったけれど、解答としては妙に納得できるものじゃないか。
「首を、こう……えいってやってさ。そしたらしばらくして、アンタの死体が光り始めて……眩しくて目を逸らしたんだ。やっと光が収まったと思ったら、ちぎったはずの首と胴体がつながってた」
「死体が勝手に光るわけないだろ」
「勝手に光った本人がそれを言うの? 僕としてはもっとちゃんと死んでほしかったんだけどなあ? なんか気持ち悪かったし、念のためにもう一回くらいやっとこっかなって心臓をナイフで刺したりもしたんだよ。でもすぐ元通りになっちゃったし、流れた血も一滴残らずどこかへ消えちゃった」
そう言うと彼は床から小さな手鏡を拾い上げて、「自分の顔でも見てみなよ」とばかりに投げ渡してきた。俺は言われるがままに手鏡の中を覗き込んでみた。
すると唐突に、窓の外で稲光が走った。ぶち破られて開放されたきりの窓の向こうから強い雨風がブワリッと吹き込んで、部屋の中が一瞬だけ青白い光に包まれた。
不意に明るくなった視界の真ん中、派手にヒビ割れた鏡面に映っていたのは、青空と同じ色をした長い長い髪を垂らした、精悍な顔立ちの男性だった。
一拍遅れて、それが自分の顔であることに気付く。
「そんな馬鹿な」と、思ってしまった理由すらわからなかった。