記述7 失われた栄光 第5節
人殺しが起きるには、あまりに明るすぎる夜だった。見上げた空を覆う雲の層は今日に限ってやたらと薄く、その向こう側では大粒の宝石を彷彿させる朧月が煩いほど眩しく照っている。雨のように降り注ぐ濃紺色の月光は、真夜中のアルレスキュリア城を、いっそ美しいと思わせてしまうほど不気味にライトアップしていた。
よじのぼった屋根の上から眼下に広がる城内を見渡してみると、やはり人の気配が無い。それどころか、いたる所に設置されていた常夜灯の光のことごとくが不自然に消灯している。
視界の端に映った窓のいくつかには平然と明かりが灯っているのだから、停電が起きたわけではないのだろう。ならば誰かが管理用のブレーカーを部分的に落としたのか、それともわざと電源を切ったのか、故障させて回ったのか……何にせよ暗殺者の襲撃を受ける準備が整っているとは到底思えない。
なんともキナ臭くて仕方がない。何が敵なのかとか、何を無視していいのかとか、考えたいことは山ほどあったけれど、慎重な対応をしていられるほど余裕のある状況ではない直感があった。何にせよまずは、現在最も危険な立場にある人間の安否確認ができなければ何も始まらない。
ちょうど今の俺が立っている場所は、国王陛下様がお眠りになられる寝室の、真上にあたる屋根の上。ここには城主と一部の近親者だけが存在を知る、秘密の隠し通路への入口がある。
丁寧に塗装された屋根材が規則正しく並ぶ中に、ほんの些細な違和感をおびて設置されたブロックが一つ。それを片手で持ち上げてみると、下から蛇口のような形をした鉛のダイヤルが姿を現わす。掴んで捻るとキチキチ音をたてながら回るこのダイヤルを、決められた回数、決められた手順で操作していく。
すると…… ガタンッ と、近くにあった城壁の奥から機械の起動音が鳴るのが聞こえてきた。古典的なデザインの隠し扉だ。まもなくして金属のワイヤーが巻き上げられる音も聞こえてくる。その音と共に、壁の隙間に生まれた切れ目が、ゆっくりと、左右に裂けるように広がっていく。
なんでこんな細かいことばっかり覚えているんだろうな。
いつもは頼りにならない自分の記憶力が、こんな時に限って役に立っている。ふと、見慣れない状況の好転を不可解に思ってしまったが、気にするほどのことでもない。
壁の切れ目が十分な幅まで広がったところで、俺はその間を通り抜けて隠し通路の中へ潜っていった。
狭く、暗く、鉄臭い通路の奥深く。その出口はきちんと国王の寝室の暖炉に繋がっていた。寒冷期前の暖炉は外側から蓋を閉められていたが、鍵がかかっているわけでもないため少し押しただけですんなりと開いた。
スタンドライトの光でほんのりと橙色に照らされた部屋。この場所もまた、妖しさを感じるほどの静寂に満ちていた。暖炉の蓋をこじ開ける音は部屋の中いっぱいに響いたはずなのに、それ以降の物音は一つもしない。足音も、衣ずれの音も、王様の寝息すらも。
訝しげな思いと共に部屋の中へ上がり込んだ。一国一城の主というだけあって、室内にはいかにも上等そうな家具や調度品が所狭しと配置されている。それでも以前に一度だけ足を踏み入れたトラストの執務室と比べたら、一回りも二回りも質素に見えるというのだから、憐れなものだ。
部屋の奥にはビロードの天幕を垂らしたキングサイズのベッドが一つ。
「誰もいないのか?」
声をかけてみても、反応が無い。それを確認してから、俺は廊下側に通じる扉のドアノブに手をかけた。鍵はかかっていない。当然だ。寝室前の廊下では、ベニル国王がかねてより贔屓していた側近が見張りをしている手筈だったのだ。
扉に耳を近づけて廊下の音をさぐる。しかし、ここもまた無音。
何かあったのは明白だ。もしかしたらすでに異常事態を察知して、国王を連れて逃亡した後なのかもしれない。だとしたら……一番ありがたいパターンだ。
淡い期待など一瞬で現実に打ちのめされる予感しかない。そうわかりきったうえで、俺は思い切って手元のドアノブをひねった。
扉の向こう、寝室前の廊下には、案の定四人の男の死体が転がっていた。
黒色の鎧が二つ。金色の鎧が一つ。非武装が一つ。腹、胸、肩など、体中のいたるところに鋭い得物で貫かれた痕が残っていて、そこから噴きこぼれた血液が廊下に敷かれた絨毯の上に真っ赤な染みをたんまりと作っている。
廊下の電気はついたままだったから、絨毯の上に残された複数の足跡が曲がり角の向こうまで続いているのがよく見えた。後を追う気は流石にない。俺は部屋の扉を閉め、鍵をかけた。
扉に背を向けると、正面の壁に鉄板のようなものがびっしりと打ち付けられている様子が目に入った。この寝室には意匠の凝ったステンドグラスを大枠いっぱいに張り巡らせた見事な窓があったはずなのだが、今はその内と外を防犯用の鉄製シェードカーテンで覆ってしまっているようだ。外の光が少しも入り込む余地がないほど、隅から隅まで塞がっている。
まだ何も起きていないうちに、さっさとここから引き返した方がいいんじゃないかと、考えた。
なのに俺は、ほとんど迷いのない足取りのまま、部屋の奥、重たい天幕が下がったベッドの方へ、近づいて行った。嫌な予感は徐々に強まっていく。
天幕に手を伸ばす。掴む。持ち上げる。二つに割く。
そうして覗き込んだ王様のベッドの中には、ベニル・ドミニオンが横たわっていた。
ピクリとも動かない。
皺だらけの顔面。半開きの瞼。充血した白目。紅潮して変色したままの肌。頬から首の付け根にかけてブツブツと浮き出ている赤紫色の蕁麻疹。
呼吸は無い。脈も無い。死んでいるのだとすぐにわかった。恐らく毒殺だ。
見た瞬間、思わず顔の筋肉が強張ってしまった。嫌な予感というものは往々にしてよく的中する。背筋にピリッとした緊張感が走っていった。
予感していた「悪いこと」は、まだ続いている。
すぐに通路へ引き返そう。そう思ってベッドに背を向けた、その時。
静寂を切り裂く破壊音が落雷のように部屋いっぱいに轟いた。
正面の大窓がぶち破られた音だ。
窓に張られていた鉄のカーテンは段ボール紙のようにあっけなくへし曲がった状態で床の上を転がった。乱雑に砕かれた極彩色のステンドグラスの破片が弾丸の雨みたいな勢いで部屋の内側へ跳ね散らばった。
瞬く間に急速に、静寂は窓の外から飛び込んできた暴力の濁流に押し流されてしまった。
そんな盛大な状況の変化に気を取られている暇もなく、俺の眉間に向かって一直線に飛ばされてきた真っ黒な刃先のナイフ。
一つ、二つ。
確実に急所を射止めに来た不意打ちを危機一髪のところでかわしきる。
黒いナイフはしゃがみこんだ俺の頭上を通り過ぎ、 ストンストンッ と、軽やかな音をたてて背後の壁に突き刺さった。
「避けないでよ。めんどくさいなぁ」
空気は一転して険しく張り詰めていく。部屋の中に流れ込んできた確かな悪意。殺意。そんなものとは裏腹に、破壊された窓の向こうから聞こえてきた『アレ』の声は、場違いなほど小綺麗な音色とともに俺の耳に届いた。
敵だ。
俺はしゃがみこんだ体勢のまま、腰に帯びていた愛用の携帯槍に手を伸ばす。
室内で用いることを考慮して小振りの物を選んできたのは失敗だったかもしれないと、今になって後悔させられる。改めて向き直した窓枠の上に、いつの間にか立っている『アレ』が相手になると予め知っていれば、もっと殺傷力の高い武器を選んできたことだろう。
「先客?」
割れたガラスの間から流れ込んでくる銀色の月光。白天の日にだけ見られる、深い群青色に染まった夜のとばり。
そんな鮮やかな深夜の景色の真ん中に、つい最近見たばかりのしなやかなシルエットが一つ、立っている。
人型をしてはいる。けれど、俺はアレが生物であるかどうかすら怪しい存在であることを知っている。
アゼロ・ウルドだ。間違いない。
こんな天気のいい日に誰かが死ぬなんて罰当たりにもほどがあると、いつかに聞いた、誰かの愚痴が脳裏をよぎった。