記述1 楽園は遥か遠くまで 第3節
それからしばらく経ったある日の昼下がり。
いつも通りの職場で、いつもと少し違う単調作業の仕事をしている時のこと。電子メールに載せられた格式張った文体の報告書と睨み合いながら、いつ、どのタイミングでこの困った現実から逃れてやろうかと好機を伺っていると、部屋の向こうからノックの音がトントンと飛び込んできた。
「どうぞ」
扉を開けて入室してきたのは、俺より幾分も歳を取った事務職員だった。俺にとっては先輩とも部下とも言える立場にある彼は、入室するなり深々と一礼してから要件を述べる。
「資料をお持ち致しました」
小脇に抱えていた書類ケースの中から今時珍しい紙の資料をたっぷりと取り出し、部屋の中の決められた場所に積んでいく。紙に印刷される情報とくれば大抵はシークレットなランクであるはずだが、それを抜き身で無防備に置いていくということは大した内容ではないのだろう。職員に向けて礼を言うと、彼はペコペコと頭を下げながらそそくさに部屋を出て行ってしまった。
一応先に目を通しておくか。座りっぱなしで硬直した体の筋肉を揉みほぐしながら立ち上がり、書類の一枚を手に取ってみる。ニュースサイトの記事をスクラップしてまとめたものだ。それも最新ではなく一週間前とか二日前とか、果ては一年前とかの既知の情報。読む意味あるのかなぁ?なんて脱力した気分で流し見していると、その中に一つ、気になるものがあった。三日前の電子掲示板に掲載されていた小さなニュースだ。
『身元不明高齢者の遺体発見。町外れの立ち入り禁止区域にて』
目撃者は語る。一人の老人の最期。何が起きたかは一切不明。人の手による殺人事件だったとも囁かれるが、証拠といえるものは無し。
しばらくその記事から目が離せなかった。何度も何度も読み直した。
頭の中が真っ白になっていく。
そのまま読むのを止め、しばらくは何もする気が起こらず、じっと虚空を見つめて座っていることしかできなかった。
この気持ちは何か。焦燥だ。
「ディア・テラス様、こちらにいらっしゃいますでしょうか」
許可が返ってこなかったノックの後に、さっきとは別の職員が遠慮がちな態度で入室してきた。手に取った書類から目を離しながらぼんやりと黙り込んでいる俺を見て、部下はやや怪訝そうな表情をする。
「どうかなさいましたか? 貴方が休憩とは珍しい」
「……」
「…………テラス様?」
ガタンッ
俺は大きな音をたてながら立ち上がった。
そしてそのまま分厚い絨毯を乱暴に蹴り、脇目も振らず部屋から飛び出していった。
見慣れた、見知った、ピリピリとした空気ばかりが充満したいつもの職場を一心不乱に駆け抜ける。何人もの同僚、上司、部下が俺に向けて声を上げたが、足を止めるどころか振り返ることすらしてあげなかった。清潔で無機質な内装の廊下。向けられる驚きや軽蔑の表情。いつもの景色が視界から流れていくのがなんだか無性に滑稽に感じて、ほんのりと爽快だった。
出入口の扉を抜け、丁寧に整備された大通りに躍り出る。すぐ横の駐機場に飛び入って自分の機体を見つけるやいなやそれに乗り込む。機動音。電源を入れた途端に機体の内部が淡い色調でライトアップされていく。操縦パネルをはじく指は驚くほど軽やか。あっという間に空中へ浮かび上がった機体はその勢いのまま公道に出ていく。
基準値ギリギリの速度と高度で飛び回り、最短距離で向かった場所は、かれこれ長い間訪れていない実家だ。蹴破るように玄関の扉を開け、驚く使用人たちのリアクションには目もくれず自分の部屋へ向けて歩いて行く。久方ぶりの自室に帰ると、すぐさま部屋中のタンスやクローゼットをひっかき回していった。
あれもこれも片っ端からひっくり返し、必要なものだけをまとめて大きなカバンに詰め込んでいく。スーツを脱ぎ捨て、眼鏡を外し、キッチリとセットされていた髪をほぐして軽く後ろで結い上げる。そしてタンスの奥から出てきたちょっと懐かしい服に袖を通した。壁に掛けられた鏡に映った自分の姿を横目に見て、一変した容貌にフフッと笑みを溢した。それからすぐにまた機体へ乗り込む。
近場の銀行で金を山ほど引き出して、様々な販売店を訪れていく。必要なものだけ機体の後部席に積み上げて、不要なものは売り飛ばす。宝石店を最後に、再び機体に乗り込み一息。そしてすぐさま発進。次に向かう場所、それは世界の果てだ。
数日前に歩いた道の上を高速で飛びぬけていく。周りの枝を一掃するように、それらが折れるのを一切気にせず森を突っきった。彼の老父と共に見た不思議な樹を頼りに、見えない檻を潜り抜ける。
そして辿り着く、あの日見たあの景色。退廃した大自然。
臆することなく飛び出した。
薄く目を細め、外から眺める故郷は青く小さく、丸いガラス玉のよう。透明なシェルターの光に守られた、俺の生まれた場所。
シェルターの側面を沿うように飛びながら、周囲を見渡す。そうしていると、荒野とシェルターのちょうど境界の部分に古びた小屋が建っているのを見つけた。すぐ側に着地して小屋の扉を叩いてみる。応答は無い。粗末な作りの引き戸に触れてみると、ガタンッと音がなって簡単に開いてしまった。当然のように鍵が付いていない。しばらく開けていなかったのか、いつもこうなのかは知らないが、部屋の中は土埃でいっぱいだった。カバンに防塵マスクを詰め込んでいたことを思い出し、早速取り出して装着する。念のためにゴーグルも付けておこう。
室内は狭く、殺風景。地面がむき出しの床にはぼろぼろの布切れが申し訳程度に敷いてあった。家具はカビの生えた机が一つだけで、とても誰かの居住スペースとは思えない。机の上にはいくつかの薄い石が転がっていた。手に取り、まじまじと見つめる。
平らに削られた石の表面には文字が彫られていた。
『 我が死ここに確かなモノと化す 』
『 我が名は誇り高き王制国家アルレスキューレに在り
アデルファ・クルトと申すなり 』
『 世の果て極点を私は目指す
死して尚 私は目指す 』
石を握る力が、自然と強くなる。大事に、大事に。両手で握りしめる。これはあの勇敢な老人の魂そのものなのだと思った。
龍に出遭え。真の龍に。
全てを知るもの、全てを得たもの。
心の中で彼の言葉を復唱する。真意なんてわからない。どうでもいい。
いつになく力強い念のようなものを胸の奥から湧き上がる。そんな気分からハッと目覚めて顔を上げると、正面の壁に赤く輝く緋色の宝石が紐に吊られているのを見つけた。
それを見つめながら、俺は口の端を上げて笑いながら言った。
「ありがとうございます、アデルファさん」
次は俺の番だ。自分の両頬をバシリと叩く。そして吊り下げられた宝石を手に取って、ボロボロの小屋を出て行った。
見知らぬ世界へ。
灰色の空に浮かぶ太陽は今も変わらず、輝きを失わず、爛々と世界を照らしあげてくれていた。
龍とはなんだろう。人なのか、物なのか、それとも彼の言う通り神様なのか。
その答えをを見つけに行く。
その行為の果てにあるものは何だろう。きっと途方もないものだ。
「やってやろうじゃないか」
龍だかなんだか知らないが、見つけてやろう。出逢ってやろう。雲を掴むくらい無意味なことであろうと構いはしない。挑み続けることにこそ意義がある。
挑戦。冒険。真理の探求。どうせ死ぬならそんなものを追い求めた後の方がずっと良い。
とてつもない大きさまで膨らんでしまった若き野心が胸を高鳴らせる。希望に満ちた残酷な世界から吹く険しい風が、どこまでも心地よく俺の体を包み込んでいった。
この世界の全てを照らす太陽に。
それすらも越えた向こう側に。
俺は何処までも遠くへ行きたい。