記述6 取りのこされた君たちは RESULT
ひたり。
顔に何か、生温かいものが当たる感触がした。なんだろう、と不思議に思っている間も、その何かは頬のあたりをひたひたと叩き続けている。表面は少しザラついていて、湿りけもあるから舐められた後の場所がスゥスゥと……舐められた? そうか、これは顔を舐められているんだ。
うなされた心地で恐る恐る瞼を上げてみると、俺の目の前には大きな角を生やした牡鹿の顔面があった。一頭ではなく、二頭。覚醒したばかりでまだふわふわと微睡んでいた意識が、急速に現実に引き戻されていった。
「食べちゃダメだよぉーっ!」
はて、これは一体どういう状況だろうか? などと状況分析にいそしむより先に、すぐ近くから見知った声が聞こえてきた。横になった体勢からひょいっと体を起こしてみると、牝鹿に外套のフードを噛みつかれながら悲鳴をあげているマグナの姿が目に入った。
なんとも平和的な光景を前にしたせいか、俺は特に理由もなく安堵した。まるで悪い夢から目覚めた後に、爽やかな朝を迎えた時のような気分だ。
「あっ、ディアさん! 助けてー!!」
俺の視線に気付いたマグナが涙目でこちらに助けを求めている。そうはいっても鹿の相手なんて生まれてこの方一度もしたことがないし、別に取って食われるわけでもないと思うから放っておくことにした。
「髪の毛なんて食べてもおいしくないってばぁ!!」
健気に悲鳴をあげ続けるマグナを後目に、俺の関心は目の前の少年と鹿のほほえましいやり取りから、彼らの後ろに広がっている見知らぬ土地の光景にくぎ付けになってしまっていた。
それもそのはず、ここは雪原でも、樹海でも、花畑でもなく、乾いた土と石で塗り固められた荒地の上だ。それも建物の影一つ見当たらない殺風景な荒野の真ん中ではなく、旅人や商人が通りを行き交う賑やかな集落の一角。俺はいつの間に、中央雪原の外に帰って来たんだろう。
「あなた、まだ寝惚けているみたいね」
ポン、と不意に現れた誰かに頭をはたかれた。
「おはよう、ライフ」
「おはよう、ディア。でも今はもう昼過ぎよ。そろそろ晩食をどうするか考えないといけないの」
言われるがままに空を見上げてみると、相変わらずの灰色模様。彼女の言う通り、今は昼でも夜でもないらしい。
「それなら俺は、どれくらいの間寝ていたのかな?」
「四時間くらいじゃないかしら。エッジさんの鹿ゾリで移動をしている途中で、くったりと眠ってしまっていたのよ。よくもまぁ、あれだけ激しい揺れと走行音の中で眠れるものねと、思わず感心したくなるほどの熟睡ぶりだったわ。試しにゆすっても叩いても全然起きないの」
「心配かけてごめんね」
「私は別にいいけれど、エッジさんが心配していたの。謝るなり感謝するなりは、あの人に言ってあげなさい」
「……エッジさんも、いるの?」
「えぇ、ついさっき駐機場に帰って来たところよ」
ライフが指をさした方を見てみると、そこには確かにエッジが立っていた。エッジはマグナの服を必要に引っ張り続ける鹿を宥めながら、穏やかに笑っている。そんな彼の何の変哲もない姿を見て、俺は強烈な違和感を持ってしまった。出会った時とは別の服装をしているから戸惑っただけかもしれないけれど、それはそれでおかしな話だ。
俺はエッジと、真夜中の逆さ氷柱で会話をしたんじゃなかったっけ?
眠りに付くより前に何をしていたか思い出そうとしてみても、うまく記憶を遡れない。逆さ氷柱に入って、花畑を見たあたりまではわかるけれど、その後に何があったのか思い出せない。
一方で何故か、ついさっきまで見ていた夢の内容だけはハッキリと覚えていた。
『俺の願いを叶えてみせよ』
自分のことを『神』と称した『彼』は、俺たちが中央雪原に迷い込んですぐに遭遇した黒い嵐は自分が起こしたものであると豪語していた。不明な意図はどうであれ、その所業が真実だとしたら、神様というものには大層な力があるらしいとわかる。
そんな『彼』がどうして、よりにもよって俺なんかに、自分の願いを叶えてもらおうと考えるのだろう。なんとも胡散臭いことこのうえない。
とはいえ「叶えてみせましょう!」なんて大それたことを言ってしまった矢先に「やっぱり夢の中でした口約束だしな」と前言撤回するのは格好が悪い。夢の中でした宣言とはいえ、あれは紛れもなく俺自身の意思が決めたことだった。
神様の願いかなんだか知らないけれど、やると言ったからには、やってみればいい。簡単なことだ。
心の中で改めて決意を固めた後に、俺はエッジに向かって声をかけた。
「やぁ、エッジ。さっきまで出かけていたみたいだけど、どこへ行っていたんだい?」
エッジは「ただいま」とにこやかに挨拶をした後に、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってきた。
「この交易場に足を運ぶのは数年ぶりだから、何か変わったことはないかと様子を見に回っていたんだ。特にこれといって、用事があったわけではない」
彼の口から出た「用事」という言葉に、俺の心がドキリと大きく反応した。その短い単語の中には「別れ」を想起させる響きがこもっていたからだ。
「じゃあ、君は……この後すぐに逆さ氷柱に戻るつもりなのかな?」
「いや、しばらくは中央雪原の外側で過ごすつもりだ」
「え? それはまた、どうして?」
「例年通りであれば、もうすぐこの大陸にも寒冷期が訪れる。そうなると防寒着の需要が上がるから、布売りにとっては稼ぎ時なんだ。ソリの中に今年分の品を……積み込む時に、確かお前にも話していたような気がするんだが?」
「そ、そうだったっけ」
「……ふむ、俺の記憶違いだったかもしれない。とにかく、しばらくの間は布を高く買い取ってくれる相手を探して、ウィルダム大陸の各地を転々とするつもりだ」
つまり、旅をするということなのか。
「一人で?」
疑問のためか、確認のためか、無意識のうちに俺の口から零れ落ちた問いかけを聞いて、エッジはきょとんとした。そんなことをどうして訊くんだ?とでも言いたげな顔をしながら、俺が次に発する台詞を待ち始める。
俺は数日前にマグナへ向けたものと同じ言葉を、エッジにも伝えようとした。しかしその直前で、軽はずみに開いたはずの唇を閉じてしまった。
不意に二人の間に沈黙が生まれる。きまずい時間が、一分、二分と、じわじわ経過していった。
ただ一言、ほんの一言だけ、簡単な誘いの言葉をかければ済むはずなのに、俺の中に突然降って湧いた得体の知れない迷いの感情が、会話を勝手に遮ってしまった。
本当にこれでいいのか?
なぜこの期に及んで躊躇する必要があるのか。その理由は、今俺の眼の前に立っているエッジ・シルヴァという青年の瞳が、あの夢の中で最後に見た神様の瞳と同じ色をしているからに他ならなかった。
そして「彼」と交わした会話の最後に聞いた『良き父親でありたい』という想いが真実であるとするならば、あの神様の正体は、レトロ・シルヴァで間違いない。
だったら……この世界の神様の願いとは……
エッジは静かに俺の言葉を待ち続ける。出会った時と同じ微笑みを、俺に向けてくれている。その優し気な眼差しを真っ向から受け入れることに、とうとう耐え切れず口を開いた。
「俺は、もう少しの間だけでも、長く、エッジと一緒にいたいと思うんだ」
そう告げた途端、エッジの表情から微笑みが消えた。予想通りの反応だ。
俺はエッジの孤独な境遇を知ったうえで、彼が一番断れないであろう誘い文句を選んだのだ。
「どうせなら、俺たちと一緒に旅をしないか、エッジ?」
優しげな微笑みと入れ替わりになって、彼の顔の上に浮かんできたものは、戸惑いと不安だった。今度はエッジの方が返事に困って、どうしたものかと口ごもり始める。
「ごめん。困らせる気はなかった……っていうと、嘘になっちゃうかもなんだけど……その……いきなり誘うようなことじゃなかったかな?」
「いや。いいんだ……いい」
エッジは自分自身に言い聞かせるように、小さな声でそう言った。
「確かに困りはしたけれど、悲しくはない。むしろ、この気持ちは……嬉しい、のかもしれない」
「それじゃあ……」
「ああ、いいぞ。ディア・テラス。俺のような変わり者でよかったら、お前の素敵な旅路に同行させてくれ」
少しツリ気味なエッジの目尻がふわりと下がる。出会った時からずっと続けていた作り笑いとは違う、彼の本当の笑顔を見てしまった。大きな琥珀色の瞳を細めながら不器用に笑う彼を前にして、なけなしの良心がチクリと痛んだ。
彼の瞳は確かにあの神様と同じ色をしているけれど、その中に映り、慈悲深い眼差しを向けられている相手が違う。エッジの瞳の中には、俺が映っている。
その瞳の奥底を覗き込めば覗き込むほど、向き合えば向き合うほど、この人が、エッジという存在が、俺のことを嫌っていないことを理解してしまう。世の中がどれほど疑念や欺瞞に溢れていたとしても、この人が誰かに向ける愛情だけは、いついかなる時も真実であり続けるのだろうと、わかってしまえる。
だってこの人には、何かを恨んだり、嫌悪したりする機能がない。それは彼が神の子であることの紛れもない証拠であり、同時に、人間性が欠落したまま成長した証明だった。
きっと彼は、大好きな母さんと別れた後も、多くの別れを経験したのだろう。多くの理不尽と悲哀を、受け入れる意外の道を選べずに苦しんできたのだろう。
そんな彼に、俺は「もう少しだけ一緒にいたい」なんて言葉を打算で投げかけた。善意などではない。好意ですらない。彼と共に行動することで、利益を得られると思ったから、そう言ったのだ。
とんでもない契約をしてしまったな。
はにかむエッジにバレないように、心の中だけで溜息をついた。そして自分の不誠実から湧き出る不安に蓋をして、とりえずはこれで良いだろうという調子でニコリと笑うことにした。
善くはなくとも、悪くもないと信じて。