記述6 取りのこされた君たちは 第7節
昔々あるところに、一人の夢見がちな少女がいました。
少女には将来を約束し合えるほど親密な間柄の想い人がいました。けれど良家に生まれた少女に恋人を選ぶ権利はありません。少女の父、ルークスは自分の娘が自分が決めた婚約者以外の男性と結ばれることを拒み、娘を酷く叱りつけました。
「お前は親不孝者な子供だ。毎日毎日勉強もせずに空想遊びに惚けてばかりで、我儘も人一倍に多い。そのうえここまで片親だけで育ててやった恩を忘れて、父親の一番の願いすら叶えてくれないというのならば、あの小さくて狭い子供部屋に閉じ込めてやる。お前が結婚できるようになる十六度目の誕生日の朝がくるまで、決して外には出してやらないからな」
ルークスはその言葉の通り、召使いたちに少女を小さな部屋の中へ閉じ込めるように命じました。
少女は子供部屋の中で三日三晩えんえんと泣き続けました。それを見た召使いは少女を不憫に思い、一晩だけ外へ出ても良いと言って、部屋の鍵を開けてくれました。
「明日の朝までには必ず帰ってくるように。そうでなければ、私はあなたの父親に殺されてしまいます」
少女は召使いに向かって「ありがとう」と一声かけてから、真っ暗闇の中へ飛び込んでいきました。
行先はもちろん、愛しい恋人の住む家です。その日は世にも珍しい新月の夜。カーテンの隙間から漏れるわずかな光を頼りに夜道を走り、ついに彼の家に辿り着きました。
自分の名前を呼ぶ声に気付いてドアを開けた少年は、家の前に自分の恋人が立っている姿を見て、とても驚きました。
そして少女は、大きな青色の瞳を涙でいっぱいにしながら、こう言いました。
「ねぇ、レトロ。私と駆け落ちしましょうよ」
少女の恋人、レトロは困った顔をしました。それもそのはず、レトロは彼女と同じ年齢の少年だったのです。
彼は故郷の村から遠く離れた都会の街で、機織り士の仕事をしながら一人暮らしをしています。そんな自分に、彼女とたった二人きりでこの場所を逃げだして、幸せにしてあげられる自信がありませんでした。
しかしポロポロと銀色に光る涙を流しながら頼み込む恋人の願いを、断ることなどできません。結局少年は、彼女の願いを受け入れてしまいました。
二人が逃げ出した次の日から、ルークスは自分の娘を連れ戻すための追手を送り出し始めました。少女とレトロはたくさんの大人たちに追いかけられながら、街を出て、草原を駆け、森をくぐり、川を越え、逃げて逃げて、逃げ続けました。
そしてやっとのことで辿り着いたのは、地図にも載っていないほど小さな集落でした。
ここならば追手は来ないと安心できた二人は、この小さな集落に小さな家を建て、静かに暮らしていくことにしました。
「やっと二人きりになれるのね。きっと、きっと、このおうちで、私たちは幸せになりましょう」
少女はとても喜びました。
人生の中で最も幸福なひと時が、長く長く続きました。暮らしは決して豊かではなかったけれど、愛し合う二人には離別以外に恐れるものなど一つもありませんでした。
深くて大きな愛を共にはぐくんだ二人の間には、やがて可愛らしい子供が産まれました。この時、少女は母親に、少年は父親になったのです。
「これ以上幸福なことはない!」
父親は産まれたばかりの子供を抱き上げながら、今にも泣き出してしまいそうなほど嬉しそうな顔で言いました。
「私もあなたに出会えて、本当に良かったわ」
母親はレトロの嬉しそうな顔を見つめながら、愛しそうに言いました。
けれども幸福というものは長く続かないのが世の常です。
それから幾年月か流れたある日、レトロは言いました。
「俺は罪を犯した」
その言葉の意味は、彼の妻にも子供にもわかりませんでした。
レトロは「どうしてもやらなくてはいけないことがある」と言って、たった独りだけで家を出て行ってしまいました。
留守を任された彼の子供は、自分の母親に向かってたずねます。
「父さんはいつ帰ってくるの?」
愛する夫がどうして家を出て行ってしまったのか、その理由は彼女にもわかりませんでした。
「必ず帰ってくるから、なにも心配はいらないのよ」
しかし待てども待てども、レトロは返ってきません。
何日経っても、何年経っても、連絡の一つも寄越してこない。
不安が募るばかりな日々の中、ある日、彼の子供は母親に向けて言いました。
「母さん、あのね。大人の人たちが、井戸の周りで噂話をしているのを聞いたんだ。レトロ・シルヴァが処刑されたんだって」
子供には「処刑」という言葉の意味がわからなかったことでしょう。けれどもその後に続く言葉に「さらし首」「生きたままバラバラに」「不遜で傲慢な性格をした極悪人には相応の末路」と続いているのを聞いてしまえば、真実を正しく想像できたはずです。
小さな子供はまるで泣き縋るような仕草で母にたずねました。
「父さんは死んでしまったの?」
母は言いました。
「私はレトロを愛しているから、レトロの言葉を信じるわ」
不安に揺れる愛息子の表情になど一切目もくれず、その女は窓の外を見つめながら、誰にともなく自分の想いを歌い上げました。
「レトロはきっと帰ってくる。必ず帰ってくると約束してくれたから。あの人が約束を破ったことなんて、今まで一度も無かったのよ。そしてこれからも、ずっとそう。どうしてかというと、それはあの人が私のことを愛していると教えてくれたからよ。優しいレトロが、誠実なレトロが、私に嘘を吐くはずがない。それはとても当たり前のことだし、とても嬉しくて幸福なことだから、私はレトロを愛しているの。愛しているから信じるの。信じることは愛の証明、いいえ求愛。私はもっとレトロの愛が欲しいし、あの人も私の愛が欲しいはず。だってそうでしょう、私たちずっとずっと、生まれる前から幸福を約束されている、運命の恋人同士なんだから!」
レトロは私のことを愛しているから、私に嘘を吐くはずがない。これは彼女の口癖でした。
困ったのは、まだ幼い彼らの子供でした。名前をエッジ・シルヴァと言います。
家計を支えてくれていた父親がいなくなって何年か経ってから、生活が困窮した親子は人里離れた雪原の奥地に隠れ住まなければいけなくなってしまっていました。
ここには自分たち以外には誰一人として暮らしていません。そんな寂しい場所で毎日を過ごしていたエッジの心の拠り所となってくれる存在は、母親だけでした。エッジはこの母親のことを、嘘偽りなく心の底から尊敬していました。優しくて、真っ直ぐで、無邪気で純粋で、心の豊かな人間なのだと思っていました。
父親がいなくなってしまってから、時たま哀しそうな顔をするようになった母親のことを、エッジはとてもとても心配していました。一方で母は来る日も来る日も雪原の向こう側を見渡しながら、いつ帰ってくるともわからない恋人の帰りを待ち続けていました。
食事も睡眠も満足にせず、逆さ氷柱と呼ばれる世界の中心に立ち尽くしながら、自分たちの故郷がある方角を見つめ続けていました。
桜色の唇には微笑を浮かべ、深い泉の底を彷彿とさせる瑠璃色の瞳は瞬きをせず、ほとんど裸足みたいな靴を履いて冷たい雪の上に立っていました。
来る日も来る日も。毎日、毎日。
「レトロが帰ってくるから」
「きっと帰ってくるから」
「もうすぐ帰ってくるから」
「愛しているから。信じているから。帰ってくるから」
いつもいつも、どんな声をかけても、同じ言葉しか返ってきません。
吹雪の日には家に帰ってきてくれますが、一日中ニコニコと笑いながら部屋の掃除と洗濯ばかりしています。いつ恋人と再会しても良いようにということかもしれませんが、身なりにだけはいつも気を遣っている人でした。けれどそれ以外はからっきし。陽が落ちきった肌寒い夜に、幼い息子のためを思って部屋に火を灯してあげることすらしてくれません。
母は自分の子供の存在をすっかり無視するようになっていました。
とうとう独りぼっちになってしまったエッジは、何もしてくれない母の代わりに家の仕事をしなくては生きていけなくなってしまいました。家の外を歩き回って食べられるものを探したり、暖を取るための薪を拾い集めたり。何もかもわからないまま、一生懸命にがんばりました。
機織り士だった父の真似をして紡いだ糸を、近くの集落まで歩いて売りに行くことすらありました。
小さな子供の体に雪原の寒さは酷く堪えました。何度も何度も気を失ってしまいそうになりながらも、なんとかかんとか、毎日を生き延びていました。
それもこれも全て、大好きな母親を守るためです。
エッジは、自分の母親は病気になってしまったんだと思っていました。まだ今よりずっと幼い頃に、父親から「みんな病気になると元気がなくなるんだ」と教えてもらっていたからです。
もちろんエッジには治す方法がわかりません。そもそもそんな方法があるのかどうかもわかりません。
けれどどうしても、たった一人だけになってしまった大好きな家族を、守らなければならないと思っていました。
そしてゆくゆくは、元気になった母さんに、気付いてもらいたかった。
「俺」がいるよ。
俺が父さんの代わりになるよ。
だから元気を出して。俺がずっと傍にいるから。
俺はいつまでも母さんの味方でいるから。
だから、どうか、俺に気付いて。
エッジは父親と過ごしていた頃のわずかな記憶を頼りにしながら、言葉と振舞いを真似るようになっていきました。そうしていれば、ほんのたまにではありますが、母は自分の子供に声をかけてくれたからです。
洗濯物をしている上機嫌な母さんの側に座って、もはや誰のためでもなくなってしまった愛の歌を聴いている時が、この小さな子供にとって最も幸福なひと時でした。
エッジの瞳は父親であるレトロと同じ色をしていました。気まぐれにその瞳の色に気付いた母は、花が咲くように可愛らしい笑顔を浮かべながらこう言うのです。
「あぁ、私の大切な宝物。あなたは私とレトロの愛の結晶なのよ」
その言葉の意味を、無垢な少年は愛情だと信じていました。信じることが愛であると、敬愛する母に教えられながら育ってきたからです。
大切とはよく言われていました。けれど愛しいとは一度も言われたことがありません。言われなくとも構わないと思っていました。母にとっての一番と特別は、いつだって父だけで、自分は二番目。あるいはそれ以下。それ以下の順位だとしても、そこに愛が少しでもあると教えてくれるなら、十分なのだと思っていました。
たとえ報われなくとも。振り向いてもらえなくとも。もう二度と頭を撫でてもらえなくとも。
「俺は母さんのために、こんなにがんばれているよ」
きっと必要とされている。
父さんと比べればほんの少しだけかもしれないけれど、ちゃんと愛されている。そうに違いない。
十分なのだ。それで心を満たせるのだ。隙間なんてありはしない。ぜんぜん少しも、寒くはない。
大丈夫。きっと大丈夫。
どんなに否定されても、どんなに不安になっても、信じることこそ俺にとっての愛情なのだから。
他の愛のカタチなど、知る由もなかったのだから。
けれど、エルベラーゼは自殺した。
俺の母、エルベラーゼ・アルレスキュリアは自殺した。
そんなことはやめてくれ。俺を独りにしないでくれ。
どれだけ訴えたところで声は届かず、母さんは虚空に向けて大声で愛する人の名前を叫びながら、自分の胸に刃物を突き付けた。
俺は石の壁一枚越しの狭い牢獄の中で、一生懸命に母に懇願し続けた。
いかないで。いかないで。母さん。母さん。俺をおいていかないで。
ひとりにしないで……母さん………………父さん。
いい子にするから。もっともっとがんばるから。母さんが悲しまなくてすむように、俺が父さんみたいに優しくて強い、いい子になるから。
だから……嫌だ…………いかないで……母さん。
たった一人の子供が嘆いたところで、死んだ人間は生き返りません。
血だらけになったエルベラーゼの死体は、顔も知らない怖い男の人たちに片付けられてしまいました。
その時にエッジは彼らの話している言葉を聞きました。
「この女はまともじゃない」
そこで初めて、エッジは自分の母親が、もう随分昔から壊れてしまっていたのだと知りました。
なのに、彼はどうして今でも逆さ氷柱に囚われているのでしょう。
どこにも行けないまま。何者にもなれないまま。
まだまだずっと、子供の頃の気持ちのままに、母を愛しているのでしょうか。
この世界のことを綺麗だなんて、本気で思っているのでしょうか。