記述6 取りのこされた君たちは 第6節
ふと、故郷に残してきた人たちのことを思い出した。父と、母と、友人と、お世話になったたくさんの人たち。今は何をしているだろう。突然いなくなってしまった俺のことを、彼らはきっと心配していると思う。
俺は碌でもない人間だ。誰にもそんな評価をされたことがないはずなのに、自分では自分のことを「なんて酷いヤツだ」と嘲笑っている。大した力もないくせに野心ばかりが一人前で、いつもいつも誰かの手を借りながら、何も返せずに周りに心配ばかりかけている。そんな自分の在り方を正当だと思っている。
本当は黙って出ていくつもりだった。家族にも、職場にも、仲間たちにも、何も言わず、何も伝えず。その方が彼らのためだとすら考えたからだ。けれどほんの出来心で、少しの書き置きを残してきてしまった。見つけてもらえたら嬉しいけれど、たぶん、あの人たちには無理だろう。
何も悪くない。俺も、君も、みんなみんな、誰もがみんな悪いのならば、誰もみんな悪くない。そうやって全ての決断に対して自己暗示でもって正当性を誇示しなければ、俺の自我など泡と成り果てて消えてしまいそうだった。
旅に出たいという願望とは、つまるところ強迫観念だ。あるいは負け惜しみ。悪あがき。
そんなもののために、自分をここまで育ててくれた大切な人たちの恩を仇で返す裏切りを、また、してしまった。
けれど、もう戻れない。省みない。戻れたとしても、戻りたくはない。
自分の身を按じてくれる他者の想いを尊重するために、自分の願いを犠牲にすることなんて、もう二度としたくない。「これで良かった」と、思い続けていたい。
恨んでいるのかな。俺という存在を優しく迎え入れてくれた、みんなのことを。
『僕はディアのためならなんでもできる。なんだってできる。なんでもしてあげたい。
だからねディア、なーんにも心配はいらないんだ。後のことは僕に任せてくれればいいから!』
……そうか。
俺は、あの人をアルレスキューレの城下街に一人で置いてきてしまったことを、ずっと気にしていたんだ。
ならばこんなところで立ち止まってはいられない。あの人と交わした約束の通り、ラムボアードという場所まで辿り着かなければいけない。
あの人に、ウルドと名乗ってくれたあの人にまた出会って、そしたら……そしたら、どうするっていうんだろう?
考え事でぐちゃぐちゃになっていた頭の中が、スッと冷たく静まりかえった。
こんなところで考えたって、仕方のない話だと思うよ。
居心地の良さが逆に落ち着かないと感じてしまう時もある。今がまさにその時だ。
暖かい毛布の中に体をうずめながら、ごろりごろりと横になってから何度目かの寝返りをうったところで、パッ、と目を開いた。
薄暗い寝床の中、傍らにはかすかに橙色に光るオイルランプが一つ、チリチリと小さな音を鳴らしていた。その向こう側に敷かれた布の上では、マグナとライフがスヤスヤと静かな寝息をたてている。昼間にあれほど寝た後だというのに、よく眠れるものだなと感心した。
ここは水晶でできた岩壁の狭間にあった、小さな横穴の中だ。乾いた土の上に布を敷いて、灯りを置いて、一つだけの出入り口にカーテンをかけて作っただけの素朴な寝室。
その中にエッジの姿がないことに気付いた。ここには三人分のスペースしかないから、他の場所で寝ているのか。それともまだ起きているのか。なんとなく後者な気がする。自分だって眠れていないわけだし。
上手く寝付けないのは昔からよくあることだった。そもそも俺は「寝る」という行動が昔から好きではない。時間を無駄に浪費しているだけのようにしか思えないし、きちんと睡眠をとったからといって、今よりも状況が良くなるわけでもない。もう二度と目覚めやしないんじゃないかと思ってしまう時すらあったが……これは単なる世迷い事だ。
俺は二人の眠りを妨げないために、物音をたてないよう気を付けながら起き上がった。
二枚重ねのカーテンをくぐって横穴の外へ出ると、そこはもう、あの薄桃色の花畑の中だった。
「きらきら」と星が瞬く音すら聞き取れてしまいそうになるくらい、静かな夜。サクリ、と夜露に濡れた草の葉を踏みしめながら、逆さ氷柱の中を一人で歩き始めた。何かしたいことがあるわけでもなく、単なる夜の散歩だ。
しばらく歩いていると、少し離れた所に生えている古木の下で、二頭の鹿が寄り添っているのを見つけた。この辺りに棲んでいる野生動物だろう。もちろん鹿を見るのは初めてだ。体の大きさからして、彼らは親子なのだろう。
親鹿の方は俺より先にこちらの気配に気づいていたようで、耳をピッと立てながらこちらを睨みつけていた。その傍らでは無防備な様子の小鹿が一生懸命に足元に生える草を食んでいる。
せっかくの親子の時間を邪魔しちゃ悪いから、反対の方へ向かって歩こうとよそ見をした。その直後に「パササッ」と音がしたと思ったら、さっきまでそこにいた親子鹿がもういなくなっていた。
一瞬でどこまで逃げ去ってしまったんだろう? そう思いながら周囲を改めて見回していたら、別のものを見つけた。大きな箱のような物の前で座り込んでいるエッジの後ろ姿だった。
様子を見ながらゆっくり近づいてみると、不意にエッジが振り返り、俺より先に声をかけてきた。
「どうした。眠れないのか?」
それはこちらの台詞だと思った。
「なんだか目が冴えてしまいまして」
エッジは立ち上がり、とことこと歩み寄ってきたてから、おもむろに俺の手を掴んだ。何をするのかと思ったら、手袋を外した素手で手首に指をそえ始めた。脈を計っているのだろう。
「まだ本調子ではないように見えるが?」
「エッジさんの方こそ、疲れているんじゃないですか?」
「そう見えるかな?」
「顔には出ていませんよ。でも、昼間にあれだけ体力を使った後なんですから、休んでほしいと思うのは当たり前です」
そう言われたエッジの首が少しだけ横へ傾く。あわせて彼の氷色の髪がふわりと揺れた。
「お前たちを乗せるソリの点検をしていたんだ。だが、ディアがそう言うのならば、休んだ方が良いのかもしれないな」
「そうしてくださると、ありがたいですね」
ソリと呼ばれたこの大きな箱が何なのか気になるけれど、訊ねるのは明日になってからでもいいだろう。
エッジはソリのすぐ横に転がっていた丸太の上に腰掛ける。その動きを目で追っていたら、ちょいちょい、と手招きをされてしまった。
「せっかくだから、少し話をしないか?」
誘われるがままに、彼と同じ丸太の上に腰を下ろした。「いいですよ」という俺の返事を聞いたエッジはニコリと微笑む。
二人並んで座り、空を見上げる。透明な水晶越しに見る満天の星空だ。八年くらい前に友達と観に行ったプラネタリウムの仮想映像を思い出す。今俺たちの頭上で輝いでいるものは、それよりもずっと大きな光の集まりだ。本物とはこうも違うものなのか。
星空の真ん中に浮かんでいる月は、相変わらず眩しいくらい明るい。夜も深いというのに、少し離れて隣に座る人の表情がハッキリとわかる。
「月の光は、明るいけれど目に痛くない、不思議なものだと思わないか」
「そうですね……いつまでも見ていられるような、淡くて、繊細で……逆に向こうの方が俺たちをいつも見守ってくれてるんじゃないかと思う時すらあります」
「あながち間違っていないかもしれないな。月はいつも同じ場所にある。あたかも対の存在のように現れる昼の太陽は、東から昇って西へ沈んでいなくなってしまうが、月はそうではない。お前が生まれた場所にも、月は見えていたか?」
「これほど明るい月ではありませんが、色と形は一緒です。本当に不思議。俺の故郷の空には虚偽の青空が描かれていたはずなのに、月だけはフィルターの外に出た後もそのまんまなんて」
自分が今まで信じていたものが作りものだと知った時、俺は心の底から素直に喜んだ。それは俺の知らない『本物』が、まだこの世界のどこかに存在している証拠だと思ったからだ。
「虚偽の空か。なるほど、こんな環境下であれば、そのような複雑な事情を持った集落があってもおかしくはないな」
「納得できるものなんですか? 俺は変な場所だったと思いますけど」
「ここだって同じようなものだろう」
俺の方が思わず納得してしまう返しだった。そうだな。考えてもみれば、アルレスキューレの人たちにとっては、俺の故郷だってこの逆さ氷柱と同じくらい突拍子もない場所のように見えるのかもしれない。
俺自身は少なくとも、ここと同じような場所は、この世界のどこを探しても二つと無いだろうと思ってしまうのだけど。
「本当に、不思議な場所ですね」
花畑の上を飛ぶ蝶々の群れ。光る羽根がひらひらと風に乗る様をぼんやりとながめる。赤、黄、紫、青、七色の光の集まりがイルミネーションみたいにピカピカと点滅している。
「でも……ここには、エッジさんしかいないんですよね?」
問いかけと共に見つめたエッジの表情は、相変わらず微笑んだままだった。嫌がるような話題を口にしたつもりだったのに。
「どうして、ここに住もうと思ったんですか?」
「思い出の場所なんだ」
誰との? と、さらに問い詰めたくなるような声色だった。
その後に続けて何か言おうしていた口が不意に閉じる。代わりにエッジは自分の首に手を回す。カチャッ、と小さな音がした。
「それは?」
エッジが夜空に掲げるようにして見せてくれたものは、黄金色の縁取りに青い宝石がはめ込まれた首輪型の装飾品だった。
「俺の母さんの形見だ」
「形見……?」
「もう、随分昔のことになってしまったな。俺はこの場所で、父さんと母さんと一緒に暮らしていたことがあったんだ。その時の思い出が忘れられなくて、一人になった後にも度々逆さ氷柱へ足を運ぶようになっていった。もう、誰もいないことなど分かっているというのに、離れられなかった。住み着くようになったのは、こう見えてわりと最近のことなんだ。それ以前は大陸の色んなところを渡り歩いて暮らしていた」
「……エッジさんも旅をしていたんですね」
「あぁ。旅とは、色んなものを見たり知ったりできて、とても良いものだ。けれど相応に危険が付きまとう。特に人が住む領域の外側ともなると、命がいくつあっても足りないくらいだ。そうであるはずなのに……なぜ、お前は旅に出ようと考えたんだ?」
あんなことがあった直後では、聞かれない方がおかしいくらいの質問だ。なんて返すべきか、少しの間沈黙して考えた。しかし今となってはどれもこれも言い訳がましい理由ばかりで、正直に答えることが恥ずかしくなってくる。
「……ただの意地ですよ。ずっとずっと、子供の頃から、誰も知らないくらい遠くの場所へ行きたいと思っていたんです」
「素敵な志だな」
「でもまだ旅立ってから半月も経っていませんよ。エッジさんに比べたら、ずっとひよっこな見習い旅人にすぎません」
「己を卑下する必要はない。お前ならきっと良い成果を上げられると、俺は思っているぞ。なにせ、真っ直ぐで、とても綺麗な眼をしている」
唐突な誉め言葉に虚を突かれる。
「きれい? 俺の眼がですか?」
「そうだ。あの夜空の月にも負けず劣らぬ、綺麗な金色じゃないか」
「俺も気に入ってるので否定はしませんけど……エッジさんに言われるとなんだかくすぐったいですね」
「妙な意図があって言ったわけではないぞ?」
「わかっていますよ。でも……」
「でも?」
頭の中に、またあの人の姿が浮かんだ。
「いや……眼じゃなくて、旅の話です」
「……何か不安なことがあるようだな」
驚くほど暖かい声色で訊ねられた。そのせいで、ついつい話してしまいたくなってしまった。我ながら、情けのないことだ。
再び訪れた沈黙の時間。その後に、俺は意を決して口を開いた。
「自信が無いんだと思います」
何が?
「世話になった人の想いを踏みにじってまでする価値のあることなのか。俺は、きっと、みんなにとてつもなく酷いことをしてしまいました。それはきっと、これからも続けていかなきゃいけないんだと思います」
ほら見たことか。君はそういうヤツだ。
誰かの助けを借りなければ自分の足で地面に立つことすらままならない、脆弱で、か細い生き物だ。
いつもいつも聞こえていた誰かの優しい言葉の数々が、頭の中を流れていく。
君を守ってあげるから、ずっと傍にいてほしい、と。
「後悔しているのか?」
「していません」
「なら、いいんじゃないか?」
「本当にそう思いますか?」
「こんなに美しい夜の下で誰が嘘を吐けるというんだ」
いつの間にか俯いていた頭を上げて、もう一度見たエッジの顔は、まるで幼い子供を見守る親のような表情をしていた。
「あぁ、そうだな……老婆心ながら言わせてもらおう。よく聞いていくといい、ディア・テラス。お前が今まで手に入れた全てを放り捨てて故郷という古巣を飛び立ったために、傷付いたものは必ずどこかにいるだろう。それは間違いない。けれども残されたものたちの心と日常が悲しみにくれるだけのものへ変わってしまっていたとしても、それは、ディアだけのせいではない。悲しむことを決めたのは、彼ら自身の選択なんだ」
痛みというものは、自分にしかわからない。
人は誰しも他人の苦痛には鈍感だ。気付かないままでいれば、いつまでもいつまでも、大切な誰かと心を傷付け合うことになる。
かといって、他人に優しくすることはお前の義務ではない。
他人の痛みに寄り添うことと同じくらい、自分の痛みにだって優しくできなければいけないからだ。
俺には、そのような生き方ができない。
追いかければよかった……と、今までに何度も後悔してきた。
あの時、「追いかけてほしくはないだろう」などと思わずに、あの人の後を追うことができていれば、どうなっていただろうなと、よく考える。今となってはどうしようもないことなのにだ。
あの時感じた悲哀と、涙の温度と、自ら選んで遠ざかってしまった思い出の美しさを、何度でも、何度でも、弔いきることができないままに、抱え続けてしまっている。
俺は誰かの心を傷付けることに、どこまでも臆病なだけなのだろう。
足りないものが多すぎた。人の心を惹きつけ、導き、前へ進めさせる人間の心は……もっと豊かで、自由でなくてはならない。
「ディアは、誰かに追いかけられる側の人間なのだろう。己を責めすぎる必要はない。十分に、胸を張って生きていきなさい」
助言というよりは、脅しのような語りだったと思う。
横で聞いていて、確かな真心を感じることができたけれど、それ以上に暗い何かが隣で話すエッジの横顔からにじみ出ているような気がした。
「まだ不安か?」
唖然としてしまっていたせいか、返事をしそびれた。俺が戸惑っている間に、エッジは続けざまに言葉を発した。
「すまないな……どうやら、悩みがあるのは俺の方だったようだ」
俺で良かったら、聞きますよ。なんて軽はずみに口にできる空気ではなかったと思う。できれば聞かないでいてあげた方が、この人のためになるような気すらしていた。
けれど、そう考えた矢先に、彼が、エッジが、たった独りきりでこの中央雪原に暮らしていることを思い出してしまった。
彼に命を救われた俺にできる一番の恩返しは、彼の悲しみに向けて静かに耳を傾けることなのかもしれない。
「話してくださって、良いんですよ? せっかく、こんな寂しい場所で巡り会えたんだから」
いくらでも、どれだけでも、どんな話でも聞きましょう。
そんな俺の言葉を聞いたエッジは、口元を綻ばせ、目を閉じる。
「ならば、今宵はお前に甘えて打ち明けてしまうことにしよう。だが本当につまらない話だから、気を確かにしながら聞いてくれ。これは、大切な何かに置いていかれた男の、ただ情けないだけの苦労話だ」