記述6 取りのこされた君たちは 第5節
樹海洞窟の天井を覆う氷色の水晶には、外気を遮断して陽光だけを洞窟内に取り込むビニールハウスのような役割がある……と、教えてもらった。その水晶おかげで洞窟内は空調が効いた室内のように過ごしやすくなっている。
寒さと乾きの脅威から逃れ、恵まれた環境の中で生命を得た植物の種子はこの場所でスクスクと大きく生え育ち、仲間を増やしていき、長い時を経て不毛の鍾乳洞を樹海と呼べるほどの密林地帯に変えてしまった。
しかしそんなものは、退廃と老衰が約束されたウィルダム大陸の世界観にはおよそ相応しくない。
生まれて初めて雪というものを目にして、指で触れたその時からすでに、この妙な違和感は存在していた。胸の奥がなんだかずっとモヤモヤしていて、落ち着かない。
見上げた宙は同じ灰色をしているはずなのに、その中に満ちるものは見慣れた光化学スモッグの煙ではなく、ふわふわと柔らかな膨らみを持った白雪である。空気は真水のように清純で、呼吸をするたびに喉の奥に流れ込んでくるものだって、甘くささやかな花の薫りだ。けっして、フロムテラスの繁華街やアルレスキューレの路地裏の片隅で嗅ぎ続けた、あの饐えた文明の汚臭などではない。
排気ガスや汚染物質といった言葉とは縁遠い場所で生まれた雛たちが親鳥の愛情を求めてさえずる声が、緑色に萌えた樹木の隙間から聞こえている。獣道の横を流れる透き通ったの小川の中を、虹色の尾びれを持った小魚の群れが泳いでいく。
何かがおかしい。
綺麗だな。なんて言葉を、見るもの全てに投げ掛けてしまう状態を、人は幸福と呼ぶのかもしれない。けれどその歓びは、あってはならないものが平然と存在している違和感に勝つことができるのか。
こんな豊かな場所が手つかずのまま残されている一方で、地平線の向こう側では少ない資源を取り合うために戦争をしている国があるんだぞ?
彼らは知らないというより、知りえない。今まさに敵前で銃を構えた防人たちも、会議机を挟んで殺しの算段を交わし合っている政治家たちも、誰も彼も、中央雪原の奥地に足を踏み入れて生還した者たちの声を聞いたことがない。
はたして俺たちは無事に中央雪原を脱出できるのか。
「困難ではなく、不可能だ。だから俺はお前たちの命を拾った」
不安に曇った顔色を見たエッジは、俺の心の内を読み取るように一番必要な言葉を言ってくれた。
「だから俺には、お前たちを無事に雪原の麓にある集落まで送り届ける責任がある。中途半端に助けあげたまま、寒空の下に放り捨てたりなどしない」
エッジは提案をする。樹海洞窟の奥にある自分の『家』まで来てもらえば、いつも人里へ降りる時に使っている乗り物を出す準備をしてやろう、と。
断る理由がこれっぽっちも思いつかない。彼は「そこまでして、やっと俺の気まぐれな人助けは完遂されるんだ」と、いかにも当然のことのように口にしているけれど、俺の目からは受け入れがたいほど非日常的で大層な善行に見える。
身に余る厚意に感銘を受ける一方で、なぜ見ず知らずの他人にそこまで親切にしてくれるのか不思議で仕方がなかった。実際に命を救われてしまった立場であるのだから、その善意を疑う余地はないとはいえ、平時であれば詐欺か何かだと思って距離を取っていたと思う。
一体どうして? と、疑問に思いはしても、こればかりは本人に訊いてみなければ答えが出ない。だからといって実際に訊いてみたりなんかしたくない。自分がとても失礼なことを考えている自覚はある。
「ぜひ、お願いします」
提案を受け入れる意思を示してみると、エッジは少しだけ嬉しそうに笑った後に「案内しよう」と言って歩き出した。その背中をマグナがトコトコと追いかける。目覚めたばかりでまだ体調がすぐれないライフもその場を立ち上がり、俺の腕を軽く引きながら「ついて行きましょう」と一言ぼやいた。
植物だらけで視界が悪い洞窟の中をゆっくりと歩き進むこと、一時間と少し。目的地であったエッジの『家』に辿り着いたのは、天井から透けて見える空の色が蒼から茜に、茜から紫紺に変わり始めた後のこと。
洞窟の奥にあった最後の細道をくぐった俺たちの眼前に広がったものは、四方を一際大きな水晶の壁に囲われた花畑だった。
「逆さ氷柱。大陸の真ん中にある中央雪原の、さらに真ん中にそびえ立つ、巨大な氷の柱」
薄桃色の野花が咲き乱れた花畑の中へ迷うことなく足を踏み入れたエッジが、この場所の名前を教えてくれた。
鋭く尖った切っ先は曇天の雪雲よりもなお高く、透き通った水晶張りの空の向こうに見えるものは生まれて初めて目にする満天の星空。吸い込まれるような光沢を持ったベルベットブルーの色彩。大きな満月。白金色に瞬く星々の輝き。
「ここへ誰かを招待するのは初めてなんだ。歓迎するぞ、マグナ、ライフ、ディア」
星空と花畑の間に立つエッジがふわりと身を翻しながら俺たちの名前を呼ぶ。やけに明るい月光の下で見た彼の髪は、青白く透き通った宝石のように輝いていた。
驚きと、感嘆と、羨望と戸惑いと、様々な想いが胸の中を駆け抜けていく。満たしていく。
「すごい。ワタシたち、知らない世界に迷い込んじゃったみたい!」
無邪気な笑い声をあげたマグナが、エッジの後を追って花畑の中へ飛び込んでいった。パサッと草花の茎が折れる音がして、柔らかい花びらが宙へ舞い散る。
「まるで大昔の伝説で語られた楽園のような場所ね。私たち、やっぱり本当はあの時に死んでしまったんじゃないかしら?」
ライフの言う冗談を「そうなのかもしれない」と本気で受け取ってしまいそうになっていた。そんなわけがないのに、今の俺は何が夢で、何が現実なのか、うまく判別できなくなっていた。
綺麗。綺麗。そう、綺麗だと思うこの感情に間違いはない。きっとここは、この世界で一番きれいな場所。
先へ進もうとした三人が歩き始めると、薄桃色の花畑の中から大きな虹色の羽根を持った蝶々の群れが一斉に星空に向かって飛び立っていった。
次々とまき起こる圧巻の光景。理解不能な神秘体験。奇跡的な現実。
何かがおかしい。
この中央雪原とかいう場所は、逆さ氷柱なんていう楽園は、どうかしている。
ライフとマグナは、エッジは、どうして平気な顔をしていられるのか。この異常な現実に恐怖しているのは俺だけだとでもいうのだろうか。
どこからどう見たって不自然なはずなのに。今まで盲信してきた世界の原理が根本から覆されることが恐くないわけがないのに。俺が生きてきた今までの世界は、決して醜くなんてなかったはずなのに。
こんなにあっさり凌駕しないでくれ。
夜風が吹き、草花がざわめき、また花びらが散る。氷色の髪が風になびく。それだけで世界が鮮やかに華やいでいく。
これが『恵み』というものなのか。
「どうかしたのか?」
いつまでも茫然と立ち尽くしたままでいる俺に向かって、再び振り返ったエッジが心配そうな顔をしつつ声をかけた。
エッジの大きな琥珀色の瞳が俺の眼をまっすぐに見つめる。
言葉にならない感情が込み上げてきた。
「君は、ずっとこの場所に?」
やっと絞り出した言葉はとても頼りなく、か細く、どんな意図を持って口にしたのか自分にもわからない。けれどエッジには理解できたのだろう。彼は琥珀色の瞳をゆっくりと細め、また、優しげに笑った。
「そうだ。ずるい、と思うか?」
違う。そういう意味じゃない。否定したくても否定できない。自分にだって何が正しいのかわかっていない。
「安心してくれ、ディア。お前があの雪原を越えてこの場所へ辿り着いたということは、逆さ氷柱は……この世界の主は、お前のことを歓迎している。何も恐れることはない」
おいで。
そう言って、エッジは俺に向けて白く光る手の平を差し伸べた。促されるままにその手を取ると、重ね合わせた手の平から彼の体温が伝わってきた。冷たい手だった。
つないだ手を引き寄せられ、俺は花畑の中へ足を踏み入れる。また花びらが散った。そんな些細なことがやけに気になって仕方がなかった。踏みしめた靴の裏側で、小さな野花がくしゃりと潰れる。
心臓がふるえた。
鮮やかな花畑の上にくっきりと残った足跡の中で、今まさに命を奪われた花びらが、潰れた草の上に赤茶色の染みを作っていた。
「恵みとは、誰かが享受するために用意されるものだ」
受け取る側の気持ちも知らないで、平気な顔でそんなことを言うんだな。
彼は確かに優しい人だった。間違いはない。
この世界が美しい慈悲と祝福に満ちていることと同じくらい、当たり前のように優しかった。
綺麗だった。
だからこそ畏怖したのだ。
俺は知っている。あれは、エッジのあの笑顔は、搾取されることに慣れた人間のものだ。
何がそんなに哀しいのか。