記述6 取りのこされた君たちは 第2節
サクリ。サクリ。何層にも重なった薄氷の膜が破れていく音が、踏みしめた靴の裏側から聞こえてきた。まだ誰にも荒らされていなかったまっさらな雪の上に、自分の足跡が刻み込まれていく。そんなことにいちいち罪悪感を感じてしまうのは、俺がこの中央雪原の景色を美しいと思っているからなのだろう。
生まれて初めて目の当たりにした「積雪」という自然現象。見渡す限り全ての景色に広がる白銀世界。空を覆い隠している雲ですらいつもより眩しい光で照り映えている。
ゴーグルを使って周囲の汚染深度を計測しようとしてみたら、本来ならば数値が表示されるゲージ部分に「ERROR」の文字が浮かび上がるだけだった。それきりいくらいじっても反応がなくなってしまったものだから、フライギアだけでなくゴーグルの方まで壊れたのかと落胆させられた。
気を取り直して再び雪の上をサクサクと歩き進む。あまりの歩きづらさに四苦八苦させられながら、なんとかかんとかしてやってきたのは、フライギアのボンネットの前。近くの雪の上に毛布を敷いてから、その上に腰を下ろした。
機体整備をしていると時間があっという間にすぎていく。けれどどれだけ時間と労力を注いだところで、システムダウンの原因が何なのかさっぱりわからなかった。
エンジンに異状はない。プロセッサも大丈夫。細かいパーツに損傷は見られないし、備品が不足しているわけでもない。配線がおかしくなっているわけでもないし、エネルギーもきちんと供給されるようになっている。それなのに電源だけが入らない。なんともおかしな状態だ。「ここも大丈夫」「ここも問題なし」と整備箇所を増やしていけばいくほど、どんどん焦る気持ちが膨らんでいく。
やがて俺は「ぜんぜんダメだーーーーっ!!」と大声を上げながら雪の上に背中から倒れ込んだ。ひんやりとやわらかい雪の感触が背中いっぱいに染み渡って来て、それが沸騰した頭を冷やすのにちょうどよかった。
このままフライギアの不調を少しも解決できずにいたら、俺たちはどうなるのだろう。どうなるもこうなるも、どうしようもない。見渡す限りの雪景色。人間どころか動物の一頭も、植物の一本も見当たらない。頼みの綱だったフライギアも原因不明の故障中ときたものだ。水と食糧にはまだ余裕がある。しかしこれも、そう長く持つとは思えない。
壊れたフライギアと物資をここに置き去りにして、歩いて中央雪原を突破する? なんて、そんなことできるわけがない。今は昼間だからまだ耐えられているけれど、夜になったら気温が何度まで下がるかわかったものではないのだ。
「ねぇねぇディアさん、調子はどう?」
半ば自棄になりながら雪の上に寝転がっていると、マグナがひょいっと俺の顔を覗き込みながら話しかけてきた。
「全然ダメ」
「そうなんだ……えっと、こっちはね、うまくできたと思うよ。でも……」
いまいち自信なさげな様子のマグナに腕を引っ張られながら体を起こされる。そのまま「こっちだよ」と呼びかけるマグナの後をついていくと、彼がスコップを使ってせっせと掘った大きな穴の前までやってきた。
雪に穴を掘ってほしいと頼んだのは、外でもない俺自身だ。俺はできたばかりの穴の底を覗き込み……「うわぁ」という感想の声を漏らした。
雪穴はマグナの背丈と同じくらい深くまで掘られていて、それでもなお、その下には地面らしきものが見当たらなかった。
「雪ってさ、一晩でこんなにたくさん降り積もるものなのかな?」
「えっと……そんなこともあるんじゃないかなぁ」
「それじゃあ、フライギアが埋もれていなくて、つい最近雪の上に着地したばかりみたいになっているのはどうしてだと思う?」
「わ、わかんない……」
「俺もわかんない」
昨晩、就寝する直前の記憶ならば確かに覚えている。その時には周囲に雪なんてものは少しも見当たらなかった。
最後に確認した現在位置はアルレスキューレの北に位置する湿原地帯であったはずなのだ。赤茶に色づいた苔植物が絨毯みたいにいたるところに生えていて、俺たちはそのうえにフライギアを着地させてから眠りについた。それなのに周囲の雪をいくら掘り返してみても、つい数時間前にはそこにあったはずの苔植物が見当たらない。
夢でも見ているのだろうか。マグナもこの事態の異常さを理解したらしく、オバケの姿でも見たみたいに慌てふためき始める。
「追加でもう一つほど、悪い報せがあるわよ」
これからどうしようかと困り果てていると、今度は少し離れたところで双眼鏡を覗き込んでいたライフが会話に参加してきた。
「空を見てごらんなさい。あれ、相当ヤバイんじゃないかしら?」
そう言われて、マグナと一緒に空を見る。西だか東だか判別不能な空の向こう側、白一色に染まっていたはずの曇り空に、見るからに異端な雰囲気をもった黒色の雲が浮かんでいるのが見えた。
最初に見た時はただの雨雲かと思ったのだが、どうにも様子がおかしい。そもそもついさっきまで、中央雪原の空にあんな雲なんて少しも浮かんでいなかった。
「突然現れたのよ。しかも、どんどん大きくなっているでしょ?」
ライフの言う通り、黒い雲は真っ白な空を隅で塗り潰すように、どんどん、どんどん、大きく広がって行っている。しかも徐々にこちらに向けて近づいてきているように見えるし、近付けば近付くほど、俺たちの周囲を取り巻いていた微風が強風へと変わっていく。
空の三分の一ほどが黒い雲で覆われた頃、中央雪原の気候は大嵐が訪れる直前と言い切れるほど荒々しいものに成り果ててしまっていた。危険を感じた俺たちは大急ぎでフライギアの船内に避難して、座席の上でヘルメットとシートベルトを装着した。
フライギアの手動開閉ハッチを閉じっ切ってしまうと、船内は相変わらず真っ暗で何も見えない。外部カメラも故障しているせいで、外の様子を確認することはできなかった。けれど閉じたハッチの向こう側からは、この世のものとは思えないほど強烈な暴風の音が嫌というほど聞こえてくるから、フライギアの外がどんな状況になっているか想像する必要がなかった。
「ワタシたち、大丈夫かな?」
真っ暗な後部座席の奥から、不安そうなマグナの声が聞こえてくる。「大丈夫」だなんて軽はずみに口にできる状況ではないと思った。
「どれだけ心配したって、今の私たちにこれ以上の対策なんて取れないじゃない。後はもう、このフライギアとやらの中で、ほとぼりが冷めるまで耐え凌ぐしかないわよ」
「ライフさんの言うとおり、だね? そうだよ、きっと、きっと大丈夫……」
ライフのおかげでマグナの不安な気持ちは少しだけ薄まったものの、空元気は空元気にすぎない。落ち着くために口を閉ざしていると、耳の中には際限なく強まっていく風の音ばかりが聞こえてくる。
フライギアの機体全体がガタンッと嫌な音を出しながら縦に揺れ、心臓が跳ねる。
ガタガタ ガタガタ ガタガタガタガタ ガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタガタ
揺れも音も鳴りやまず、体に伝わる震動はどんどん強くなっていく。不安、恐怖、様々な負の感情が頭の中に浮かび上がり始めて、見てもいない顔面が真っ青になっている実感があった。
「中央雪原には、守り神様がいるってきいたことがあるんだ」
けたたましい音の乱流の中で、俺の耳にマグナのか細い震え声が届いた。
「だから、きっと大丈夫……良い子にしていれば、守り神様はワタシたちのことを守ってくれるはずだよ」
「……だといいんだけどなぁ」
内心では、どんな理屈だよと嘲笑いたくなるような気分だった。
以前にウルドが教えてくれた言葉を思い出す。
『辺境の貧乏領主が扱いに困った重罪人や寝たきりの疫病患者を捨てに行くような場所なんだ。まともなわけがない。迷いこんだら最後、二度と帰って来れないから便利じゃないかって、軍の間でも評判だよ』
『そんな風だから周辺に住んでる人たちなんかは随分怖がっちゃってるみたいでね、「侵犯しようと思っただけで祟られる」とか言い始めてる人もいるくらいだ』
『なんだか神隠しみたいだね』
神様なんてものがこの世に実在するとしたら、この状況こそ「神の祟り」そのものではないだろうか。
神様がどんなものなのかなんて知る由もないけれど、彼、あるいは彼らが中央雪原に人間が足を踏み入れることを快く思っていないことくらいなら察することができた。過去に俺たちと同じように中央雪原に近付いた人たちも、みんなみんな同じような目に遭ったのだろう。たとえ好き好んで領域を侵したわけではないとしても、神様の定めたルールを侵したものには罰が与えられる。
世界はそういう風にできている。神様とは、自然とは、社会とはそういう風にできている。
だからといって素直に観念できる俺ではないのだけれど。
助かりたい。
そう心の中で強く念じたところで、俺たちが乗っているフライギアの車体が、ぽんっ、と空のコップを持ち上げるみたいに簡単に宙に浮かび上がった。
真っ暗な船内を暗視ゴーグルの機能を頼りにキョロキョロと不安げに見回して、そうして高度を表すアナログメーターの数値がみるみる上昇しているのを見つけてしまった。
十、二十、三十……数値が不穏なほど快調な速度でどんどん上昇していって、四十の値に達したところで、不意に暗視ゴーグルの機能までダウンした。フライギアの中は、今度こそ正真正銘の真っ暗闇になってしまった。よく見れば今朝は点滅していたはずのエラーランプの光すら見当たらない。
壁の向こうからは相変わらず恐怖心をかきたてる暴風音が怒涛の如く轟いていて、その音量は相変わらず強まっていく一方だった。
激しすぎる機体の揺れは、もはや「揺れ」などという可愛らしい言葉で表現できるものではなくなっていた。風に飛ばされ続けるフライギアは、空中でぐるんぐるんと縦横斜めに不規則な回転を繰り返す。俺たちはもはや叫び声すら上げる余地もなく、舌を噛まないように気を付けながらぐっと奥歯を噛みしめることしかできなかった。
助かりたい。生き延びたい。助かりたい。助けてほしい。
暗闇の中で、開けていても仕方のない瞼をぎゅっと押し潰しながら、どこへともなく助けを乞う。いくら願ったところで風の音は鳴りやまず、機体の揺れも治まらない。
もうダメかもしれない。でもとにかく助かりたい。
何度となく心の中で訴えた願いがどこかに届いたか届かなかったかは知らないが、ふと、唐突に機体の揺れがピタリと止まった。
それと同時に風の音すら鳴り止んだ。
するとどうだろう。
一瞬の無音の後に、
宙に放り捨てられたフライギアは、
地上に向けて真っ逆さまに落ちていった。