記述6 取りのこされた君たちは 第1節
故郷を旅立ってから十日目の朝のこと。いつも通りとは言いがたい寝覚めの悪さを感じながら起き上がると、つけたままで眠っていたはずの室内灯が消灯していた。寝ぼけ半分の頭で船内を見回してみると、視界の端で赤色のエラーランプがチカチカと点滅しているのをみつけた。それ以外は全く何も見えない。
幸いなことに、腕の中にはたまたま抱えながら眠っていたバッグがあった。しかし、中には常備していたはずの懐中電灯が入っていなかった。確か先日の城下街で起きた騒ぎの時に、ライフに預けたきり返してもらっていないのだ。仕方ないのでいつも使っているゴーグルの暗視機能を頼りにすることにした。
操縦席のすぐ近くにはいざという時のための備えがいくつかある。そのうちの一つである非常用電源の起動ボタンは、なぜかいくら押しても反応してくれない。ならば緊急避難用の手動開閉ハッチはどうだろうと思って手を伸ばしてみる。こちらはなんとか開きそうだ。
「何かあったの?」
暗闇の中でゴソゴソと機械をいじくっていると、後部座席からマグナの声が聞こえてきた。明らかに寝起きといった様子の、ぽわぽわで舌っ足らずな口調だった。
「フライギアのシステムが落ちてるみたいなんだ」
「へっ!? それって、壊れちゃったってこと!?」
「いや、まだわからない。俺たちが寝ている間に機体の外で何かがあって、一時的に安全装置が発動しただけかもしれない」
「そっかぁ」
話を聞いているのか聞いていないのかわからない返事だ。
「眠いならまだしばらく寝てるといいよ。この調子じゃあ今日は一日、ギアのメンテナンスだけで時間が潰れてしまいそうだ」
「外に出るの? それじゃあ、一緒にいく! ディアさんだけだと、きっと危ないよ」
「寝ぼけ眼なのに随分と勇ましいんだね。いいよ、ついておいで」
「ライフさんは、起こした方がいいかな?」
「……いや、寝起きは機嫌が悪いからなぁ、彼女。あともう二時間くらいはそっとしておこうか」
「わ、わかった」
そこまで会話したところで、俺は手動開閉ハッチのアーム部分をひっぱった。真っ暗だった船内に外界の光が一気に入り込んできて、目の前が瞬く間に真っ白に染まった。
「さささ……寒いっ!?!?」
目映い朝の陽ざしと一緒に、まるで大型冷凍庫の扉を開けた時のような強烈な冷風がハッチの隙間を通って一気に船内に流れ込んできた。操縦席の側にあった室温表示があっという間に氷点下まで下がっていき、あまりのことに驚いた俺は開きかけだったハッチをバタンと力いっぱい閉じ直してしまった。
再び訪れた真っ暗闇の中、暗視ゴーグルごしに見える景色の中で、白い煙のようなものがふわりと浮かび上がるのを見た。それが自分の吐いた息だと気付くまでに時間がかかってしまった。
「雪! 雪があったよ、ディアさん!!」
マグナはあの短い時間の間にハッチの向こう側に何があるのか把握できたみたいで、どういうわけかはしゃぐような声をあげて喜び始めた。
「ユキ? ユキって、もしかして……あの雪?」
いまいち理解できていない調子できいてみると、マグナは「もちろんだよ!」と返事をする。
あまりに嬉しそうにしているものだから、俺はもう一度ハッチのアームを握りしめて、外の様子を見直すことにした。今度は心の準備をしながら開けたものの、やっぱり眩しいものは眩しかったし、寒いものは寒かった。
視界一面が、真っ白だ。それは目が突然の光に慣れて、色彩や影の濃淡を認識できるようになった後も変わらなかった。
空が白いのはいつも通り曇っているからだ。それはわかる。では、地面まで真っ白に染まっているのはどういうことなのだろう。それにこの寒さの原因は、一体何なのだろう。
驚きと混乱で外に踏みでることを躊躇していると、後部座席からこちら側まで移動してきたマグナが、操縦席に座ったままの姿勢をとった俺の体の上をスイスイと乗り越えていき、ハッチの外に転がり落ちて行った。
ばふんっ! と、柔らかい砂山の上に人が倒れた時みたいな音がした。ハッチを出てすぐ下の方を覗き込んでみると、体中を真っ白な「雪」にうずめながらご満悦そうにしているマグナの姿をみつけた。
「ひゃあっ、ふかふか! すっごく冷たい! ワタシ、こんなにいっぱい雪を見るの初めて! ねぇ、見てよディアさん! 空の向こう側まで、ぜんぶ真っ白だよ!」
一面の雪景色を見渡してテンションが上がってしまったらしいマグナは、そのままサクサクと足元の雪を踏みしめながらフライギアの外を鈍い足取りで駆け回り始めた。
そのはしゃぎ声が後部座席まで届いていたせいか、まだ眠りこけていたはずのライフが「やかましいわね」と文句を言いながら起き上がってきてしまった。
「え……なんだか寒くない?」
「それは、まぁ……雪が積もってる? みたいだし?」
完全に寝惚けた様子のライフにむけて、これまた寝惚けたような言葉を返してしまった。雪が降ると気温が下がる。それはマグナやライフにとっては当たり前のことであったようだ。
「…………あら……もしかして、これが噂の中央雪原なのかしら?」
「中央雪原?」
ライフはいかにも機嫌の悪そうな声で、小言めいたことを言い始めた。
「ディアったら、中央雪原は危ないから避けて飛行するって言ってなかったかしら?」
「うん。確かにそうするつもりだったよ。実際に昨日の夜までは、地図のデータを頼りに中央雪原からだいぶ遠い湿原地帯を飛行していたはずなんだ。君だって、睡眠のために着地しようとした時に、周囲に何があったかくらいは覚えているだろ?」
「さて、どうだったかしら? でももしかしたら、私たちが眠っているたった一晩の間にこれだけの雪が降り積もってしまったのかもしれないわ」
「ゆ、雪ってそんなに簡単に範囲を広げるものなのかい!?」
「それはまあ……雪だし?」
雪。雪。雪。
マグナもライフも、当たり前のように雪というものの話をする。しかし俺にはそれが何なのか全くわからなくて、とにかく白くて冷たい粒子状の何かという事前知識しか持っていなかった。まさかこんなに凄まじいものだったなんて、思いもしなかった。
俺はこの時になってやっと、自分が「中央雪原」という言葉を初めて耳にした時に、それがどんな場所なのか少しも想像できていなかったことに気付かされた。