記述5 愛しき人よ、誠実であれ 第5節
マグナを追いかけ回していたのは、今回の一件で被害を受けたアルレスキュリア人の平民たちだった。
そもそも彼らは、今回の暴動事件が起こるより以前からグラントール人という人種そのものが嫌いだったのだという。アルレスキューレとグラントールは、ほんの十数年前まで戦争をしていたのだから。
住処、財産、仕事、家族、色々なものを奪われた。十数年の時が流れた程度で、戦時中に生まれた敵対心が忘れ去られたりなんかするわけがない。大切な隣人を殺されたのだ。その恨みを、憎しみを、自ら望んで忘れようと努力できる人間は、とても少ない。
過去のことは過去のことと、さっぱり水に流せるような性格をしたものですら、大事な故郷を野蛮な思想を持った異民族に踏み荒らされることには耐えがたい怒りと理不尽な嫌悪を感じていた。
なぜ自分たちと同じ場所に、あんな奴らが生活しているのか。なぜ少ない資源や食糧を分け与える必要があるのか。なぜ彼らが困らないよう気を使わなければいけないのか。
助け合う必要は本当にあるのか。彼らがいなくなったって何も変わらないのではないか。
なによりもアイツらは、ただ単純に気持ち悪いじゃないか。いつだって泥だらけで薄汚い。歯を出して大声で笑う、下品な連中だ。それに臭い。客にもならない貧乏人。
そもそもあちらの方だって、私たちのことを嫌っている。
奴隷身分だからといって、その生意気さへの嫌悪感が消え去るわけではないのだよ。
そんなグラントール人に、自分の住む街をめちゃくちゃにされた。だから武器を取り、立ち向かうことを選んだ者たちがいたのだ。それは誰もに称賛されるべき勇気ある行動に違いない……と、「悪」に手を染めてくれたグラントール人を都合よく粛清するための大義名分が、彼らの悪意を麻薬のように優しく包み込んでくれていた。
だから、見るからに無害そうな子供のグラントール人に刃物を向けて襲い掛かったりなんかしたのか。
彼らが立ち会った後も、マグナは地べたに座り込んだまま泣きじゃくり続けていた。
一連の悲劇の当人であるマグナには、哀しみの感情を誰かにぶつける権利があった。不幸な境遇に同情を求める言動をどれだけ繰り返しても「負け犬だ」と馬鹿にされる心配が無かった。
気が済むまで泣けばいい。弱音を吐けばいい。自分の無力を責め続けるくらいなら、誰かのせいにしてしまった方がよっぽどラクになれるのだから。
「ワタシはどうしてアルレスキュリア人になれなかったんだろう」
それなのにどうして、彼の口から零れる言葉は、こんなにも素朴なのだろうか。
「グラントールのことなんて何も知らない。本当だよ。本当なんだよ。ワタシは、ずっとずっと、この城下街で暮らしてたんだもん。あの砦の向こうに出たことなんて、一度もない。ずっとずっと小さい頃に、まだ何もわからない頃に、アルレスキューレに連れてこられてからずっと、ずっと、この街で生きてきたんだよ」
そこにいたことすら覚えていない故郷のことなんてどうだっていい。大事なのは、今自分たちが生きているこの場所で、どれだけ嫌われないように生きていけるか……だったはずなのに。
「どうして仲よくできないの……?」
彼らが……マグナを大切に育てようと守ってくれたグラントール人の仲間たちが、アルレスキュリア人を執拗に恨む気持ちが、マグナにはわからなかった。だからずっと、どこか仲間になりきれない疎外感が傍らにあり続けていた。
忌み嫌う理由ならわかる。故郷を滅ぼされたのだ。嫌いになるに決まっている。だけどマグナには故郷への愛着なんてない。仲間の痛みに寄り添えるほどの理解が足りていない。
共感できない敵対心が絶えず充満し続ける環境は、さぞ恐ろしいことだろう。
「ワタシにはアルレスキューレの人たちのことを、ちゃんと憎いと思えたことがないんだよ。怖いと思っていただけ。あの人たちは、すぐにワタシたちのことを殴るから。少し悪いことをしただけで、怒鳴ったり、悪口を言ったり、物を取り上げたりする。怖い人たち。でも……それは、ワタシたちの方だって一緒だった。一緒だったんだねって、わかっちゃった」
見上げた夜空の下に広がる、争いの爪痕。逃げ続けて疲れ切った体。泥だらけの手足。
「みんな、どうして人を嫌いになることばかり選べるんだろう。地下水道で働くグラントール人のおじいさんも、小さな食堂の隅っこで働くアルレスキュリア人の子供も、みんなみんな、苦しいのは一緒のはずなのに。なんで手を取り合えないの?」
殴られたら怖い。怒鳴られたら怖い。悪口も影口も恐ろしくて、だいきらい。
だから褒められたら嬉しい。仲よくなれたら楽しい。助け合えたら、友達になれたら、どれだけ素敵なことだろう。
「そうやって考えていることを、ダメだって叱りたがる理由はなに? ワタシには、わかんない。わかんないよ……なんにもわかんない」
「君は純粋だね」
いまだ優しい涙を流し続けるのを止めようとしないマグナに向けて、声をかけた。
「じゅん、すい?」
「俺にも、マグナくんの気持ちはわからないよ」
「ちょっと、ディア?」
突然妙なことを口走り始めた俺をライフが諫めてくれた。でも、話すのを止める気はない。
「わからないことは、確かに怖い。だから俺は、もう、そんな怖いものと向き合うことなんて止めてしまった。今は誰も彼も、勝手にすればいいんじゃないかって思ってる。でも君は違うんだね。ちゃんと向き合おうとしてる。それってさ……カッコイイことだと思うよ」
「か、かっこいい?」
「そう。だから、そんなマグナくんに、がんばったご褒美をあげよう」
言った後に、持ち歩いていたカバンの中から筒状のプラスチック製容器を取り出した。それをマグナの小さな手の中に差し込むようにして持たせてあげた。
両手の間にすっぽりと収まった容器の重さを感じ取ったマグナは、その中に何が入っているのかすぐに気付いた。飲料水だ。
「ずっと喉が渇いていたでしょ? 声も最初に会った時より枯れてるし……水分はしっかりとった方が良いよ」
泣き腫らして真っ赤になった大きな目が、俺を見上げる。
「……ありがとう」
「うん。あぁ、それと……これも良かったらもらっておくれよ」
プラスチック製容器と一緒にカバンの底にずっしりと沈んでいた、銀色の四角い箱。それもマグナの前に差し出した。
「それってまさか、夕食の時に支給されたレーションボックスじゃないの?」
「そうだよライフ。たまたま一つ余っていたからね。マグナくんがおなかを空かせていた時のために持ってきていたんだ」
「食料が余分に支給されるわけないでしょ。ディアが、ちゃんとご飯を食べようとしなかったってことよね?」
ふむ。こんなことをライフに指摘されるとは思っていなかった。少し虚を突かれたような気分だ。
「食べてなかったというか、食べなかったんだよ。夕食自体はもともと用意していたものを食べたし」
「好き嫌いでもあったの?」
「似たようなものかも」
「何よそれ……」
正面に立ちはだかるライフから少し目を逸らしながら、どうしようかと考える。素直に理由を教えてもいいのだろうか。
沈黙していると、逸らした視線の先にウルドが立っているのが見えた。ウルドにとってはマグナの嘆きや哀しみなんて興味のないものだったみたいで、会話には混じらず離れた場所で時間を潰しているようだった。
そんなウルドが、何かを感じ取ったのか不意に顔を上げて、俺の方を注目し始める。
次の言葉を待っているのだと気付いた時、あの子の前では嘘をつけないと思ってしまった。
「アレルギー体質なんだ。……だから、成分表が書かれていない食べ物はちょっと、俺には無理かもって。子供の頃にもらったお菓子で死にかけたことがあったし」
なるべく暗い印象を与えないように笑顔を見せながら、その場にいる三人全員に向けて自分のことを少しだけ話してみた。表情や言葉を選んだつもりだったけど、効果があったかどうかは微妙な反応をされてしまった。だから言うかどうか迷ったのに。
「俺はね……昔から体が丈夫じゃなかったんだ。今よりずっと病弱だった子供の頃なんかは、両親から家の外に出ることすら許可されてなかった。今思えば、家出癖なんて出来ちゃったのは、そのせいだったのかもしれないな」
食べられなかったレーションボックス。その銀色をした板の表面にわずかに映り込んだ自分の顔に向けて、目を細める。
何も後ろめたいことなんてない。そう自分に言い聞かせていなければ、前に進めなかった。
「でも、そんな生き方を続けていただけじゃあ、納得できないことが多すぎたんだ。いつも誰かに頼りながら生きている不甲斐ない自分、いつまでも弱いままでいてもいいよと大事にされる自分。その境遇を、俺は受け入れられなかった」
病院みたいに真っ白な色をした自室のベッドに寝転がりながら、締め切られた窓の向こうに憧れ続ける毎日。揺れないカーテンの向こうにあるはずの、自分以外の人のために用意されている当たり前の日常。
混ざりたいと思っていた。自分の足で立って、その中に飛び込んでいけたらどれだけ良いだろうと、いつもいつも思っていた。
「大事なものを奪われたままでいることも、手に入れられないままでいることも、やっぱり嫌だよね。欲しいもの、見たいもの、憧れのもの、行きたい場所、なりたい自分。大切な未来を自分の手で選びたいと思ったから、俺は旅に出ることにした」
いつまで経ってもよくならない容態だろうと何だろうと、引き摺ってでも、這ってでも、好き放題自由を謳歌しながら生きてやるんだと、あの日、あの時、冷たいベッドシーツの中で決めたのだ。
いつか必ずやってくる滅びを、哀しみの中にうずくまったまま大人しく待っているだけの人生なんてまっぴらごめんだ。
「マグナくん。君には、したいことがあるはずだろ?」
「したいこと?」
「たとえば明日、もしも世界が滅びるかもしれないって言われた時に、未来の自分が後悔しないためにやっておきたいと思うことだよ」
わからない。わからない。
ワタシは今まで、「できること」と「やらなきゃいけないこと」しか選んでこなかった。そんなワタシに「したいこと」なんて、本当にあるのだろうか。
そうやって戸惑うマグナの表情が、涙に濡れた茶色の瞳が、ほんの少しずつ光を取り戻していく。きっと彼の瞳の中に、何か美しいものが映り込んだのだ。
「ワタシ、グラントールに行ってみたい!」
記憶の中に存在しないグラントールの情景。仲間たちの昔話の中で語られる、雄大な自然に囲まれた美しい故郷の大地。
行ったことがないのなら、知らないままでいることに仲間はずれな気持ちを感じ続けるくらいなら、見に行ってしまえばいい。
「なかなかの名案じゃないか! それに、俺もグラントールにはいずれ行ってみたいと思っていたところなんだ」
「え、っと……それって……」
「想像してる通りのことさ。ねぇ、マグナくん。俺と一緒にこの国を出ようじゃないか。それから世界中のいろんな場所を見て回るんだ」
「旅に出るってこと? ワタシ、が?」
「そうだよ。なんだかさ、ワクワクしてこないか?」
ずっと座り込んでいたマグナがよたよたと起き上がり、俺の前に立つ。大人と子供の身長差がある俺の顔を真っ直ぐに見上げるその瞳には、もう、涙なんて浮かんでいない。
「ワクワク……してるのかもしれない。今のワタシ、とっても嬉しい気持ちでいっぱい」
「それで、どうするんだいマグナくん?」
「行く! ワタシは、ディアと一緒に旅がしたい!」
「うん。いい返事だね!」
ぎゅっと俺の体に抱き着いてきたマグナの頭を、分厚いフードの布ごしに撫でる。マグナは俺の腰あたりの服に顔をうずめながら、「ありがとう」「ありがとう」と小さな声でつぶやいていた。元気を出してくれたようなら何よりだ。
そんな俺とマグナの様子を横で見ていたライフが、何とも言えない微妙な表情で苦言を漏らす。
「いくらなんでも行き当たりばったりすぎるんじゃないかしら、あなた」
「それはまぁ……その通りだけど……」
否定のしようがない、至極ごもっともな指摘だった。
「でも、落としどころとしては悪くないと思うの。マグナくんをグラントールに連れて行くっていうのは、私も賛成」
「え? それってどういう……」
「わからないかしら。私も連れて行きなさいって言ってるのよ」
「えっ!? 方向音痴なのに!?」
「方向音痴は関係ないでしょ!!」
「いや、そうだと思うけど、でもなんでライフまで?」
「世界が明日滅びるとしたら、私だって旅に出る。最初に会った時にそう言ったはずよね。有言実行よ。それに、あなただけがお爺様の後を継いで、世界中を旅して回るなんてずるいわ。とってもずるい。そんな楽しそうなことがあるのなら、私だって便乗したいに決まっているもの」
「発言がむちゃくちゃすぎないか!? いくらなんでも家族の許可くらい取ってからじゃないと」
「よりにもよってあなたに言われなくても、許可ならちゃんと取ってあるわよ! ディアが仮設テントの中でスヤスヤ仮眠をしている間に、王立図書館と連絡をとりあったんだから」
「なんと」
「あっちはもう、めちゃくちゃ。例の爆発と揺れのせいであちこちの本棚が倒れてしまって、貴重な書物が床に散乱する大惨事。考えただけで吐き気がするわ」
「じゃ、じゃあ今すぐ戻った方がいいんじゃ……」
「しばらく復旧作業で閉館させるから、その間は休暇でも取って好きに過ごせばいいんじゃないかな、とのお達しよ。だから私、その通りにさせてもらうことにしたの」
「それでどうして俺に付いてくるって話になるんだい?」
「マグナくんをディアだけに任せておくのが心配だからよ!」
「絶対面白がってるだけだろ君!?」
「まあ、いいじゃないの、実際面白いことなんだから!」
「前から思ってたけど、君って結構いい性格して……」
「ねぇディア!」
背後にいつの間にか立っていたウルドが、突然俺の名前を呼んだ。
「な、なんだいウルド?」
「僕もついて行っていいよね?」
無邪気に笑うウルドの有無を言わさぬ気迫を前にして、断るだけの勇気が俺には足りていなかった。