記述5 愛しき人よ、誠実であれ 第2節
茜色の空が徐々に群青に染まり行く頃、年若い金軍兵の案内で市街キャンプという場所まで辿りついた。
市街キャンプ、と一言だけで説明された時には、それが一体どんなものなのか想像するのが難しかった。けれども実際に足を運んでみると、なるほど、「市街キャンプ」と呼ぶに相応しい趣のある場所だ。
丁寧な装飾紋様が彫り込まれた石造りの建築物が、いくつもいくつも並ぶ、城下街地区の中心部。上流階級の市民が生活するために整備された、この小洒落た景観の中に、異物めいた粗雑さを持つ仮設テントがぎっしりと、空間を埋め尽くすように並んでいる。
ベースキャンプの設営を行うにはおあつらえ向きと見える平地は、普段は軍事公園として民間向けに解放されているものであるようだ。裕福そうなドレスに袖を通した貴婦人が傘をさしながら歩いていそうな赤煉瓦の遊歩道の上を、今は武装した軍兵が幅広い肩をぶつけ合いながら往来している。
市街キャンプの中ですれ違った兵士たちのほとんどが金軍の制服を着ていた。しかし全員が金軍というわけではなく、その中にも幾人か、違うデザインの制服を着ているものもいる。
彼らは何? と無知丸出しの質問をライフにしてみた。
「あれは、黒軍の人たちね」
呆れるというより、いっそ心配するような顔でこちらを見たライフは、続けざまに一言だけの助言をする。
「この国で最も敵に回してはいけない勢力よ」
そんな言葉を聞いてから、改めて通りを歩く黒軍の兵士に目を向ける。真っ直ぐに伸ばした背筋と、張り詰めた眼差し。怠慢の欠片も見当たらない足取りで脇目も振らず任務に準じているように見える彼らは、いかにも精鋭集団の一員といった面構えをしている。さらにいえば神経質かつ攻撃的。周囲のあらゆる事象を監視して、その是非を判定している……そんな雰囲気だ。
「敵に回してはいけない」という助言は、そういった彼らの特徴を理解したうえでの言葉なのだろうか。黒軍兵というものを初めて目にした俺からすると、その程度の推測しかできない。けれども、彼らとすれ違う時のライフは劇物を扱う時のように真剣かつ慎重そうだった。息を殺し、気配を殺し、少し大げさな表現ではあるが、何事もなく横を通り過ぎることを願っているようにすら見えた。
もしかしたら彼女は、黒軍がどういった集団なのかを一般的な国民以上に理解しているのかもしれない。そして彼女がクルト家という、曰く付きな貴族家系の令嬢であることを思い出す。反発、あるいは不信の思考が無表情に取り繕った皮膚の下に、確かにじわりと滲んでいる。黒軍とクルト家の間には何かしらの捨て置けない事情や関係があるのだろうか。
そういう風に周囲の様子を窺いながら歩いていると、他にも色々なものをテントの隙間から垣間見れた。
分厚い合成生地で作られた天幕の下では、アルレスキューレの正規軍に所属する兵士たちが忙しそうに活動している。今後の作戦を決めるために大声で怒鳴りあったり、砂利だらけの地べたに横たわって体を休ませていたり、黙々と夕食のレーションを胃の中に掻き込んでいたり。
筋肉質で恵まれた図体を持った兵士たちが狭い空間に密集している様子というのは、それだけで随分な迫力を持った光景となりえる。あまり快適といはいえない環境にあるテントの中で休息をとっている彼らの肌や髪は、頭の上から水をかぶったようにびっしょりと濡れている。汗をかいているのだ。
天幕の隙間からテント内の空気を凝縮させた白い湯気が、むわり、と漏れ出ているところに遭遇したときには、ゴーグルの空気汚染深度を計るゲージが瞬間的にデッドラインにまで突入した。冗談かバグかと思ったが、同じく空気の汚染に気付いたライフのあまりに悲劇的なリアクションを前にして、「そういう臭い」がしたことを理解した。
「ひどい体臭と、汗と……血の臭いも混ざっているんじゃないかしら」
笑い話ではすまない話だった。無数に並び立ったテントのうちのいくつかには、負傷者、あるいは死者の肉体を安置するためのテントもあった。
空気が切迫している。
同じ空間にいるだけで、グラントール人の反乱というものを彼らがいかに重く受け止めているか伝わってくる。けれども、国の事情なんて少しも把握しきれていない俺には、いまだに実感が足りていなかった。
見知らぬ土地から、異なる文化的思想を持った人間が移住してきて、同じ土地で共存していく。元から無理のある話だったんじゃないかと思ってしまったのは、俺の故郷に「異民族」なんて概念が存在しなかったせいだろうか。
差別が無かったわけではないが、それは「人間」か「機械」か「それ以外」かの区分から生まれるものだった。それはそれで面倒な社会問題をたっぷりと孕んではいたのだが、同じ文化圏で生きるものであるのならば思想を共有できていた。良くいえば、平和。彼らの直面している問題とは毛色が違いすぎる。
緊急性を実感しきれていないのは、俺自身がまだ命の危機と呼べるだけの状況に直面していないからという理由もある。グラントール人らしき男に襲われたり、地下水路で一触即発な場面に居合わせたりはしたけれど、どれもこれも命の危機と呼ぶには物足りない感想を抱いてしまう。
むしろ数日前に警備兵に連行された時の方が危機的状況であったと言えるほどだ。今ならわかるが、あの時の警備兵たちは黒軍や金軍のような正規軍ではなく、非正規の灰軍と呼ばれる軍隊に所属している者たちだった。
個々の質より量を頼りに立ち回る、使役する側からすれば使い捨てにしやすい雑兵たち。その一方で、管理が雑なのか思考統制はあまり行き届いていない。正規軍以上に何をするかわからない彼らからは、とても危険な気配がする。ただの直感ではあるが、一度襲われている以上、またはち合わせるようなことがあれば、警戒して距離をとるようにした方がよいだろう。
「この市街キャンプは臨時で設営されたものだし、あまり安全とは言い切れない場所ですよ」
前を歩いていた案内役の金軍兵が、人の良さそうな微笑みを浮かべながら声をかけてくる。
「本来なら保護した城下区民は緊急避難所の方へ誘導するんです。でも今は避難誘導に人員を避けるほどの余裕がなくてね。灰の連中が自由に使えるようならこんなことで悩んだりしないんだけど、こんな状況じゃあまるで頼りにならない」
「灰軍と金軍の間で諍いでも起きてしまったのですか?」
「いさかい、というか、そもそも味方だと認識したことなんてほとんどないですよ。ここ数年は特にヤバい関係だ。それこそ戦争でも始まってしまいそうなくらいに」
「戦争……」
また、その言葉が出た。
「そういえばあんた、関所の手形を持ってる旅行人でしたね! ちょっと喋りすぎちゃったかもしれないな。でもま、これくらいはみんな知ってることだって体でよろしく頼みます」
若い金軍兵は自分の失言をワッハッハと豪快に笑い飛ばす。笑いながら、案内を続けていた足を少し小振りなテントの前で止めた。
「このテントなら自由に使えるみたいです。明日の朝になったら避難所に向かう物資配達の車が出るから、その時までここに待機していてください。二人分のレーションボックスを届けるように伝言をしておくけれど、それ以外のことは君たちだけでなんとかしてほしい」
「ありがとうございます!」
「とはいえ、このテントの中から出てはいけないよ」
えっ、と思わず声が出そうになった。
「事情聴取をしなきゃいけないんです。もうしばらくすれば、担当の者がこのテントに訪問しに来る」
「私たちは疑われている、ということですか?」
「勿論だとも。そして心配しているのも確かだ。自由に歩き回ったところで撃ち殺されても、オレたちは墓を作ってあげられないからね」
不満そうな態度が伝わったのか、若い金軍兵は少しだけ申し訳なさそうな苦笑いを浮かべた。けれども彼の口から出る言葉は、出会った時と同じ軽快さを維持したままであった。
「こんな状況なんだ。我慢しておくれ」